史記 / 楚世家
隨人卜予呉,不吉,乃謝呉王曰:「昭王亡,不在隨。」呉請入自索之,隨不聽,呉亦罷去。昭王之出郢也,使申鮑胥請救於秦。秦以車五百乘救楚,楚亦收餘散兵,與秦撃呉。十一年六月,敗呉於稷。會呉王弟夫概見呉王兵傷敗,乃亡歸,自立爲王。闔閭聞之,引兵去楚,歸撃夫概。夫概敗,奔楚,楚封之堂谿,號爲堂谿氏。楚昭王滅唐九月,歸入郢。十二年,呉復伐楚,取番。楚恐,去郢,北徙都鄀。十六年,孔子相魯。二十年,楚滅頓,滅胡。二十一年,呉王闔閭伐越。越王句踐射傷呉王,遂死。呉由此怨越而不西伐楚。二十七年春,呉伐陳,楚昭王救之,軍城父。十月,昭王病於軍中,有赤雲如鳥,夾日而蜚。昭王問周太史,太史曰:「是害於楚王,然可移於將相。」將相聞是言,乃請自以身禱於神。昭王曰:「將相,孤之股肱也,今移禍,庸去是身乎!」弗聽。卜而河爲祟,大夫請禱河。昭王曰:「自吾先王受封,望不過江、漢,而河非所獲罪也。」止不許。孔子在陳,聞是言,曰:「楚昭王通大道矣。其不失國,宜哉!」昭王病甚,乃召諸公子大夫曰:「孤不佞,再辱楚國之師,今乃得以天壽終,孤之幸也。」讓其弟公子申爲王,不可。又讓次弟公子結,亦不可。乃又讓次弟公子閭,五讓,乃後許爲王。
新字:随人卜予呉,不吉,乃謝呉王曰:「昭王亡,不在随。」呉請入自索之,随不聴,呉亦罷去。昭王之出郢也,使申鮑胥請救於秦。秦以車五百乗救楚,楚亦収余散兵,与秦撃呉。十一年六月,敗呉於稷。会呉王弟夫概見呉王兵傷敗,乃亡帰,自立為王。闔閭聞之,引兵去楚,帰撃夫概。夫概敗,奔楚,楚封之堂谿,号為堂谿氏。楚昭王滅唐九月,帰入郢。十二年,呉復伐楚,取番。楚恐,去郢,北徙都鄀。十六年,孔子相魯。二十年,楚滅頓,滅胡。二十一年,呉王闔閭伐越。越王句践射傷呉王,遂死。呉由此怨越而不西伐楚。二十七年春,呉伐陳,楚昭王救之,軍城父。十月,昭王病於軍中,有赤雲如鳥,夾日而蜚。昭王問周太史,太史曰:「是害於楚王,然可移於将相。」将相聞是言,乃請自以身祷於神。昭王曰:「将相,孤之股肱也,今移禍,庸去是身乎!」弗聴。卜而河為祟,大夫請祷河。昭王曰:「自吾先王受封,望不過江、漢,而河非所獲罪也。」止不許。孔子在陳,聞是言,曰:「楚昭王通大道矣。其不失国,宜哉!」昭王病甚,乃召諸公子大夫曰:「孤不佞,再辱楚国之師,今乃得以天寿終,孤之幸也。」譲其弟公子申為王,不可。又譲次弟公子結,亦不可。乃又譲次弟公子閭,五譲,乃後許為王。
書き下し
随人呉に予へんことを卜するに、吉ならず。乃ち呉王に謝して曰く、「昭王亡げて、随に在らず」と。呉請ひて入りて自ら之を索めんとす。随聴かず。呉も亦た罷め去る。昭王の郢を出づるや、申鮑胥をして救ひを秦に請はしむ。秦車五百乗を以て楚を救ふ。楚も亦た余の散兵を収め、秦と呉を撃つ。十一年六月、呉を稷に敗る。会々呉王の弟夫概呉王の兵の傷敗するを見て、乃ち亡げ帰り、自立して王と為る。闔閭之を聞き、兵を引きて楚を去り、帰りて夫概を撃つ。夫概敗れて楚に奔る。楚之を堂谿に封じ、号して堂谿氏と為す。楚の昭王唐を滅ぼす。九月、帰りて郢に入る。十二年、呉復た楚を伐ち、番を取る。楚恐れ、郢を去り、北のかた都を鄀に徙す。十六年、孔子魯に相たり。二十年、楚頓を滅ぼし、胡を滅ぼす。二十一年、呉王闔閭越を伐つ。越王句践呉王を射傷つけ、遂に死す。呉此に由りて越を怨みて西のかた楚を伐たず。二十七年春、呉陳を伐つ。楚の昭王之を救ひ、城父に軍す。十月、昭王軍中に病む。赤雲の鳥の如き有り、日を夾みて蜚ぶ。昭王周の太史に問ふ。太史曰く、「是れ楚王に害あり。然れども将相に移すべし」と。将相是の言を聞き、乃ち自ら身を以て神に禱らんことを請ふ。昭王曰く、「将相は、孤の股肱なり。今禍を移すは、庸ぞ是れ身より去らんや」と。聴かず。卜して河祟りを為すと。大夫河に禱らんことを請ふ。昭王曰く、「吾が先王封を受けしより、望は江・漢に過ぎず。而して河は罪を獲る所に非ざるなり」と。止めて許さず。孔子陳に在り。是の言を聞きて曰く、「楚の昭王は大道に通ぜり。其の国を失はざること、宜なるかな」と。昭王の病甚だし。乃ち諸公子大夫を召して曰く、「孤不佞にして、再び楚国の師を辱む。今乃ち天寿を以て終はるを得たるは、孤の幸ひなり」と。其の弟公子申に譲りて王と為さんとす。可かず。又次弟公子結に譲る。亦た可かず。乃ち又次弟公子閭に譲る。五たび譲りて、乃ち後に許して王と為る。
現代語訳
随の人々は、子綦(になりすました王)を呉に引き渡すべきかを占ったが、吉と出なかった。そこで呉王に断りを入れて言った。「昭王は逃げてしまい、随にはいない」。呉は随の中に入って自ら探させてほしいと求めたが、随は聞き入れず、呉もあきらめて引き揚げた。昭王が郢を出たとき、申鮑胥(申包胥)を秦に送って救援を求めさせた。秦は戦車五百乗で楚を救い、楚も散り散りになった残兵を集め、秦とともに呉を撃った。十一年六月、稷で呉を破った。ちょうどそのころ、呉王の弟の夫概は、呉王の軍が傷つき敗れたのを見て、逃げ帰って自ら王を名乗った。闔閭はこれを聞くと、兵を引いて楚から去り、帰国して夫概を撃った。夫概は敗れて楚に逃れ、楚は彼を堂谿に封じて堂谿氏と名乗らせた。楚の昭王は唐を滅ぼし、九月、帰って郢に入った。十二年、呉が再び楚を攻めて番を取った。楚は恐れて郢を去り、北の鄀に都を移した。十六年、孔子が魯の宰相となった。二十年、楚は頓と胡を滅ぼした。二十一年、呉王闔閭が越を攻めた。越王句践は呉王を射て傷つけ、闔閭はそのまま亡くなった。呉はこのため越を恨み、西の楚を攻めなくなった。二十七年の春、呉が陳を攻めた。楚の昭王は陳を救い、城父に陣を敷いた。十月、昭王は陣中で病に倒れた。鳥のような赤い雲が現れ、太陽を挟むようにして飛んだ。昭王が周の太史に尋ねると、太史は言った。「これは楚王に災いをもたらす兆しだ。しかし、その災いを将軍や宰相に移すことができる」。将軍や宰相はこれを聞いて、自らの身を神に捧げて祈りたいと願い出た。昭王は言った。「将軍や宰相は、私の手足となる者たちだ。いま災いを彼らに移したところで、どうして私の身から災いが去ったことになろうか」。そして聞き入れなかった。占ってみると、黄河の神のたたりだと出た。大夫たちは黄河に祈るよう願い出たが、昭王は言った。「わが先王が封じられてから、祭るべき山川は長江と漢水にとどまる。黄河は私が罪を得るような相手ではない」。そうして祈ることを許さなかった。孔子は陳にいて、この言葉を聞いて言った。「楚の昭王は大いなる道に通じている。国を失わなかったのも当然だ」。昭王の病は重くなった。そこで公子や大夫たちを呼んで言った。「私は才能もないのに、二度も楚の軍を辱めた。それでも今、天寿を全うして終わることができるのは幸いだ」。そして弟の公子申に王位を譲ろうとしたが、申は受けなかった。次の弟の公子結に譲ろうとしたが、これも受けなかった。さらに次の弟の公子閭に譲ろうとし、五度譲られて、閭はようやく王となることを承知した。
解説
関連する章句
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史記 楚世家将に戦はんとす。庚寅、昭王軍中に卒す。子閭曰く、「王の病甚だしくして、其の子を捨てて群臣に譲る。臣の王に許す所以は、以て王の意を広めんとてなり。今君王卒す。臣豈に敢て君王の意を忘れんや」と。乃ち子西・子綦と謀り、師を伏せ塗を閉ぢ、越女の子章を迎へて之を立つ。是を恵王と為す。然る後に兵を罷めて帰り、昭王を葬る。恵王の二年、子西故の平王の太子建の子勝を呉より召し、以て巣の大夫と為し、号して白公と曰ふ。白公兵を好みて士に下り、仇に報いんと欲す。六年、白公兵を令尹子西に請ひて鄭を伐たんとす。初め、白公の父建亡げて鄭に在り。鄭之を殺す。白公亡げて呉に走る。子西復た之を召す。故に此を以て鄭を怨み、之を伐たんと欲す。子西許すも未だ為に兵を発せず。八年、晋鄭を伐つ。鄭急を楚に告ぐ。楚子西をして鄭を救はしむ。賂を受けて去る。白公勝怒り、乃ち遂に勇力の死士石乞等と令尹子西・子綦を朝に襲殺し、因りて恵王を劫かし、之を高府に置き、之を弑せんと欲す。恵王の従者屈固王を負ひて亡げて昭王の夫人の宮に走る。白公自立して王と為る。月余にして、会々葉公来たりて楚を救ふ。楚の恵王の徒与に共に白公を攻め、之を殺す。恵王乃ち位に復す。是の歳や、陳を滅ぼして之を県とす。十三年、呉王夫差彊く、斉・晋を陵ぎ、来たりて楚を伐つ。十六年、越呉を滅ぼす。四十二年、楚蔡を滅ぼす。四十四年、楚杞を滅ぼす。秦と平らぐ。是の時越已に呉を滅ぼして江・淮の北を正すこと能はず。楚東のかた侵し、地を広げて泗上に至る。五十七年、恵王卒し、子の簡王中立つ。簡王の元年、北のかた伐ちて莒を滅ぼす。八年、魏の文侯・韓の武子・趙の桓子始めて列して諸侯と為る。二十四年、簡王卒し、子の声王当立つ。声王の六年、盗声王を殺す。子の悼王熊疑立つ。
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史記 楚世家呉王之を聞きて大いに怒り、亦た兵を発し、公子光をして建の母の家に因りて楚を攻めしめ、遂に鐘離・居巣を滅ぼす。楚乃ち恐れて郢に城く。十三年、平王卒す。将軍子常曰く、「太子珍は少く、且つ其の母は乃ち前の太子建の当に娶るべき所なり」と。令尹子西を立てんと欲す。子西は、平王の庶弟なり。義有り。子西曰く、「国に常法有り。更に立つれば則ち乱れん。之を言へば則ち誅を致さん」と。乃ち太子珍を立つ。是を昭王と為す。昭王の元年、楚の衆費無忌を説ばず。其の讒して太子建を亡げしめ、伍奢子父と郤宛を殺ししを以てなり。宛の宗姓伯氏の子及び子胥皆呉に奔る。呉の兵数々楚を侵す。楚人無忌を怨むこと甚だし。楚の令尹子常無忌を誅して以て衆を説ばしむ。衆乃ち喜ぶ。四年、呉の三公子楚に奔る。楚之を封じて以て呉を捍がしむ。五年、呉伐ちて楚の六・潜を取る。七年、楚子常をして呉を伐たしむ。呉大いに楚を豫章に敗る。十年冬、呉王闔閭・伍子胥・伯(伯嚭)唐・蔡と倶に楚を伐つ。楚大いに敗れ、呉の兵遂に郢に入り、平王の墓を辱む。伍子胥の故を以てなり。呉の兵の来たるや、楚子常をして兵を以て之を迎へしめ、漢水を夾みて陣す。呉伐ちて子常を敗る。子常亡げて鄭に奔る。楚の兵走る。呉勝ちに乗じて之を逐ひ、五たび戦ひて郢に及ぶ。己卯、昭王出奔す。庚辰、呉人郢に入る。昭王亡げて雲夢に至る。雲夢其の王なるを知らず、射て王を傷つく。王鄖に走る。鄖公の弟懐曰く、「平王吾が父を殺す。今我其の子を殺す。亦た可ならずや」と。鄖公之を止む。然れども其の昭王を弑せんことを恐れ、乃ち王と出でて随に奔る。呉王昭王の往くを聞き、即ち進みて随を撃ち、随人に謂ひて曰く、「周の子孫の江漢の間に封ぜらるる者、楚尽く之を滅ぼせり」と。昭王を殺さんと欲す。王の従臣子綦乃ち深く王を匿し、自ら以て王と為し、随人に謂ひて曰く、「我を以て呉に予へよ」と。
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史記 呉太伯世家王闔廬の元年、伍子胥を挙げて行人と為して与に国事を謀る。楚、伯州犁を誅し、其の孫伯嚭亡げて呉に奔る。呉以て大夫と為す。三年、呉王闔廬、子胥・伯嚭と兵を将ゐて楚を伐ち、舒を抜き、呉の亡将二公子を殺す。光謀りて郢に入らんと欲す。将軍孫武曰く、「民労る、未だ可ならず、之を待て」と。四年、楚を伐ち、六と灊とを取る。五年、越を伐ちて之を敗る。六年、楚、子常囊瓦をして呉を伐たしむ。迎へて之を撃ち、大いに楚の軍を豫章に敗り、楚の居巣を取りて還る。九年、呉王闔廬、伍子胥・孫武に請ひて曰く、「始め子の言ふ、郢未だ入る可からずと。今果して如何」と。二子対へて曰く、「楚の将子常は貪り、而して唐・蔡皆之を怨む。王必ず大いに伐たんと欲せば、必ず唐・蔡を得て乃ち可なり」と。闔廬之に従ひ、悉く師を興し、唐・蔡と西のかた楚を伐ち、漢水に至る。楚も亦兵を発して呉を拒ぎ、水を夾みて陳す。呉王闔廬の弟夫概戦はんと欲す。闔廬許さず。夫概曰く、「王已に臣に兵を属せり。兵は利を以て上と為す、尚ほ何をか待たん」と。遂に其の部五千人を以て楚を襲冒す。楚の兵大いに敗れて走る。是に於て呉王遂に兵を縦ちて之を追ふ。郢に至る比、五たび戦ひて、楚五たび敗る。楚の昭王亡げて郢を出で、鄖に奔る。鄖公の弟、昭王を弑せんと欲す。昭王、鄖公と随に奔る。而して呉の兵遂に郢に入る。子胥・伯嚭、平王の屍を鞭うちて以て父の讎に報ゆ。十年春、越、呉王の郢に在りて国空しきを聞き、乃ち呉を伐つ。呉、別兵をして越を撃たしむ。楚、急を秦に告ぐ。秦、兵を遣はして楚を救ひ呉を撃ち、呉の師敗る。闔廬の弟夫概、秦・越の交々呉を敗り、呉王の楚に留まりて去らざるを見て、夫概亡げて呉に帰りて自ら立ちて呉王と為る。闔廬之を聞き、乃ち兵を引きて帰り、夫概を攻む。夫概敗れて楚に奔る。楚の昭王乃ち九月を以て復た郢に入るを得て、夫概を堂谿に封じ、堂谿氏と為す。
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史記 呉太伯世家十一年、呉王、太子夫差をして楚を伐たしめ、番を取る。楚恐れて郢を去りて鄀に徙る。十五年、孔子魯に相たり。十九年夏、呉、越を伐つ。越王句践、之を槜李に迎へ撃つ。越、死士をして戦ひを挑ましむ。三行して呉の師に造り、呼びて自剄す。呉の師之を観る。越因りて呉を伐ち、之を姑蘇に敗り、呉王闔廬の指を傷つけ、軍卻くこと七里。呉王、傷を病みて死す。闔廬、太子夫差を立てしめ、謂ひて曰く、「爾而ち句践の汝の父を殺せしを忘れんか」と。対へて曰く、「敢てせず」と。三年にして乃ち越に報ゆ。王夫差の元年、大夫伯嚭を以て太宰と為す。戦射を習ひ、常に越に報ゆるを以て志と為す。二年、呉王悉く精兵もて以て越を伐ち、之を夫椒に敗り、姑蘇に報ゆ。越王句践乃ち甲兵五千人を以て会稽に棲み、大夫種をして呉の太宰嚭に因りて成を行はしめ、国を委ねて臣妾と為らんことを請ふ。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰く、「昔、有過氏、斟灌を殺して以て斟尋を伐ち、夏后帝相を滅す。帝相の妃后緡方に娠み、有仍に逃れて少康を生む。少康、有仍の牧正と為る。有過又少康を殺さんと欲す。少康、有虞に奔る。有虞、夏の徳を思ひ、是に於て之に妻はすに二女を以てして之を綸に邑せしむ。田一成有り、衆一旅有り。後遂に夏の衆を収め、其の官職を撫す。人をして之を誘はしめ、遂に有過氏を滅し、禹の績を復し、夏を祀りて天に配し、旧物を失はず。今、呉は有過の彊きに如かずして、句践は少康より大なり。今此に因りて之を滅さずして、又将に之を寛さんとす、亦難からずや。且つ句践は人と為り能く辛苦す。今滅さずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭に聴き、卒に越の平を許し、与に盟ひて兵を罷めて去る。七年、呉王夫差、斉の景公死して大臣寵を争ひ、新君弱しと聞き、乃ち師を興して北のかた斉を伐つ。
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史記 秦本紀景公の母弟後子鍼寵有り。景公の母弟富む。或いは之を譖す。誅せられんことを恐れ、乃ち晋に奔る。車重千乗。晋の平公曰く、「后子富むこと此の如し、何を以て自ら亡ぐるや」と。対へて曰く、「秦公無道にして、誅を畏る。其の後世を待ちて乃ち帰らんと欲す」と。三十九年、楚の霊王彊く、諸侯を申に会し、盟主と為り、斉の慶封を殺す。景公立つこと四十年にして卒し、子哀公立つ。后子復た来たりて秦に帰る。哀公の八年、楚の公子棄疾霊王を弒して自立す。是を平王と為す。十一年、楚の平王来たりて秦の女を求めて太子建の妻と為さんとす。国に至るに、女好くして自ら之を娶る。十五年、楚の平王建を誅せんと欲す。建亡げ、伍子胥呉に奔る。晋の公室卑くして六卿彊く、内に相攻めんと欲す。是を以て久しく秦・晋相攻めず。三十一年、呉王闔閭伍子胥と楚を伐つ。楚王亡げて随に奔り、呉遂に郢に入る。楚の大夫申包胥来たりて急を告げ、七日食はず、日夜哭泣す。是に於て秦乃ち五百乗を発して楚を救ひ、呉の師を敗る。呉の師帰り、楚の昭王乃ち復た郢に入るを得たり。哀公立つこと三十六年にして卒す。太子夷公、夷公蚤く死して、立つを得ず。夷公の子を立つ。是を恵公と為す。恵公の元年、孔子魯の相事を行ふ。五年、晋の卿中行・范氏晋に反く。晋智氏・趙簡子をして之を攻めしむ。范・中行氏亡げて斉に奔る。恵公立つこと十年にして卒し、子悼公立つ。悼公の二年、斉の臣田乞其の君孺子を弒し、其の兄陽生を立つ。是を悼公と為す。六年、呉斉の師を敗る。斉人悼公を弒し、其の子簡公を立つ。九年、晋の定公呉王夫差と盟ひ、長を黄池に争ふ。卒に呉を先とす。呉彊く、中国を陵ぐ。十二年、斉の田常簡公を弒し、其の弟平公を立て、常之に相たり。十三年、楚陳を滅ぼす。
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史記 楚世家秦韓の宜陽を破る。而して韓猶ほ復た秦に事ふる者は、先王の墓平陽に在りて、而して秦の武遂之を去ること七十里なるを以てなり。故を以て尤も秦を畏る。然らずんば、秦三川を攻め、趙上党を攻め、楚河外を攻めば、韓必ず亡びん。楚の韓を救ふは、韓をして亡びざらしむること能はず。然れども韓を存する者は楚なり。韓已に武遂を秦より得て、河山を以て塞と為す。徳に報ゆる所は楚の厚きに如くは莫し。臣以為へらく、其の王に事ふること必ず疾からんと。斉の韓に信ぜらるる所以の者は、韓の公子眛を以て斉の相と為すなり。韓已に武遂を秦より得たり。王甚だ之に善くし、之をして斉・韓を以て樗里疾を重んぜしめよ。疾斉・韓の重きを得ば、其の主敢て疾を棄てざるなり。今又之に益すに楚の重きを以てせば、樗里子必ず秦に言ひ、復た楚の侵地を与へん」と。是に於て懐王之を許し、竟に秦に合せずして、斉に合して以て韓に善くす。二十四年、斉に倍きて秦に合す。秦の昭王初めて立ち、乃ち厚く楚に賂ふ。楚往きて婦を迎ふ。二十五年、懐王入りて秦の昭王と盟ひ、黄棘に約す。秦復た楚に上庸を与ふ。二十六年、斉・韓・魏、楚の其の従親に負きて秦に合するが為に、三国共に楚を伐つ。楚太子をして入りて秦に質たらしめて救ひを請ふ。秦乃ち客卿通をして兵を将ゐて楚を救はしむ。三国兵を引きて去る。二十七年、秦の大夫に私かに楚の太子と闘ふ者有り。楚の太子之を殺して亡げ帰る。二十八年、秦乃ち斉・韓・魏と共に楚を攻め、楚の将唐眛を殺し、我が重丘を取りて去る。二十九年、秦復た楚を攻め、大いに楚を破る。楚の軍死する者二万、我が将軍景缺を殺す。懐王恐れ、乃ち太子をして斉に質たらしめて以て平らがんことを求む。三十年、秦復た楚を伐ち、八城を取る。秦の昭王楚王に書を遺りて曰く、「始め寡人王と約して弟兄と為り、黄棘に盟ひ、太子質と為り、至って驩しかりき。
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