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史記 / 魯周公世家

齊惠公二年,鄋瞞伐齊,齊王子城父獲其弟榮如,埋其首於北門。衛人獲其季弟簡如。鄋瞞由是遂亡。十五年,季文子使於晉。十八年二月,文公卒。文公有二妃:長妃齊女爲哀姜,生子惡及視;次妃敬嬴,嬖愛,生子俀。俀私事襄仲,襄仲欲立之,叔仲曰不可。襄仲請齊惠公,惠公新立,欲親魯,許之。冬十月,襄仲殺子惡及視而立俀,是爲宣公。哀姜歸齊,哭而過市,曰:『天乎!襄仲爲不道,殺適立庶!』市人皆哭,魯人謂之『哀姜』。魯由此公室卑,三桓彊。宣公俀十二年,楚莊王彊,圍鄭。鄭伯降,復國之。十八年,宣公卒,子成公黑肱立,是爲成公。季文子曰:『使我殺適立庶失大援者,襄仲。』襄仲立宣公,公孫歸父有寵。宣公欲去三桓,與晉謀伐三桓。會宣公卒,季文子怨之,歸父奔齊。成公二年春,齊伐取我隆。夏,公與晉郤克敗齊頃公於砹齊復歸我侵地。四年,成公如晉,晉景公不敬魯。魯欲背晉合於楚,或諫,乃不。十年,成公如晉。晉景公卒,因留成公送葬,魯諱之。十五年,始與吳王壽夢會鐘離。十六年,宣伯告晉,欲誅季文子。文子有義,晉人弗許。十八年,成公卒,子午立,是爲襄公。是時襄公三歲也。襄公元年,晉立悼公。往年冬,晉欒書弒其君厲公。

新字:斉恵公二年,鄋瞞伐斉,斉王子城父獲其弟栄如,埋其首於北門。衛人獲其季弟簡如。鄋瞞由是遂亡。十五年,季文子使於晋。十八年二月,文公卒。文公有二妃:長妃斉女為哀姜,生子悪及視;次妃敬嬴,嬖愛,生子俀。俀私事襄仲,襄仲欲立之,叔仲曰不可。襄仲請斉恵公,恵公新立,欲親魯,許之。冬十月,襄仲殺子悪及視而立俀,是為宣公。哀姜帰斉,哭而過市,曰:『天乎!襄仲為不道,殺適立庶!』市人皆哭,魯人謂之『哀姜』。魯由此公室卑,三桓彊。宣公俀十二年,楚荘王彊,囲鄭。鄭伯降,復国之。十八年,宣公卒,子成公黒肱立,是為成公。季文子曰:『使我殺適立庶失大援者,襄仲。』襄仲立宣公,公孫帰父有寵。宣公欲去三桓,与晋謀伐三桓。会宣公卒,季文子怨之,帰父奔斉。成公二年春,斉伐取我隆。夏,公与晋郤克敗斉頃公於砹斉復帰我侵地。四年,成公如晋,晋景公不敬魯。魯欲背晋合於楚,或諫,乃不。十年,成公如晋。晋景公卒,因留成公送葬,魯諱之。十五年,始与呉王寿夢会鐘離。十六年,宣伯告晋,欲誅季文子。文子有義,晋人弗許。十八年,成公卒,子午立,是為襄公。是時襄公三歳也。襄公元年,晋立悼公。往年冬,晋欒書弒其君厲公。

書き下し

斉の恵公の二年、鄋瞞、斉を伐つ。斉の王子城父、其の弟栄如を獲て、其の首を北門に埋む。衛人、其の季弟簡如を獲たり。鄋瞞是に由りて遂に亡ぶ。十五年、季文子、晋に使す。十八年二月、文公卒す。文公に二妃有り。長妃は斉の女にして哀姜と為し、子悪及び視を生む。次妃は敬嬴、嬖愛せられ、子俀を生む。俀私かに襄仲に事ふ。襄仲之を立てんと欲す。叔仲、不可なりと曰ふ。襄仲、斉の恵公に請ふ。恵公新たに立ち、魯に親しまんと欲し、之を許す。冬十月、襄仲、子悪及び視を殺して俀を立つ。是れを宣公と為す。哀姜斉に帰り、哭して市を過ぎて、曰く、「天か。襄仲、不道を為し、適を殺して庶を立つ」と。市人皆哭す。魯人之を『哀姜』と謂ふ。魯是に由りて公室卑しく、三桓彊し。宣公俀の十二年、楚の荘王彊く、鄭を囲む。鄭伯降り、復た之を国せしむ。十八年、宣公卒し、子の成公黒肱立つ。是れを成公と為す。季文子曰く、「我をして適を殺して庶を立て大援を失はしめし者は、襄仲なり」と。襄仲、宣公を立て、公孫帰父寵有り。宣公、三桓を去らんと欲し、晋と謀りて三桓を伐たんとす。会々宣公卒す。季文子之を怨み、帰父、斉に奔る。成公の二年春、斉、伐ちて我が隆を取る。夏、公、晋の郤克と斉の頃公を鞍に敗り、斉復た我が侵地を帰す。四年、成公、晋に如く。晋の景公、魯を敬せず。魯、晋に背きて楚に合はんと欲す。或ひと諫め、乃ち不す。十年、成公、晋に如く。晋の景公卒す。因りて成公を留めて葬を送らしむ。魯之を諱む。十五年、始めて呉王寿夢と鐘離に会す。十六年、宣伯、晋に告げて、季文子を誅せんと欲す。文子に義有り、晋人許さず。十八年、成公卒し、子の午立つ。是れを襄公と為す。是の時、襄公三歳なり。襄公の元年、晋、悼公を立つ。往年冬、晋の欒書、其の君厲公を弑す。

現代語訳

斉の恵公の二年、鄋瞞が斉を攻めた。斉の王子城父は喬如の弟の栄如を捕らえ、その首を北門に埋めた。衛の人々はその末弟の簡如を捕らえた。鄋瞞はこうしてついに滅んだ。十五年、季文子が晋に使者として赴いた。十八年二月、文公が亡くなった。文公には二人の妃がいた。第一の妃は斉の女性で哀姜といい、子の悪と視を生んだ。第二の妃は敬嬴(けいえい)で、寵愛を受け、子の俀(たい)を生んだ。俀はひそかに襄仲に取り入っていた。襄仲は俀を君主に立てようとしたが、叔仲は反対した。襄仲は斉の恵公に支持を求めた。恵公は即位したばかりで魯と親しくしたいと思っていたので、これを承知した。冬十月、襄仲は子の悪と視を殺して俀を立てた。これが宣公である。哀姜は斉に帰ることになり、泣きながら市場を通って言った。「天よ。襄仲は道に外れたことをし、正妻の子を殺して側室の子を立てた」。市場の人々もみな泣いた。魯の人々は彼女を「哀姜(悲しみの姜)」と呼んだ。魯はこれ以後、公室が衰え、三桓(孟孫・叔孫・季孫の三家)が強くなった。宣公俀の十二年、楚の荘王は強大で、鄭を包囲した。鄭伯は降伏したが、楚は再び鄭に国を返した。十八年、宣公が亡くなり、子の黒肱が立った。これが成公である。季文子は言った。「私に正妻の子を殺して側室の子を立てさせ、大きな後ろ盾(斉)を失わせたのは襄仲だ」。襄仲が宣公を立ててから、その子の公孫帰父が寵愛を受けていた。宣公は三桓を除こうとして、晋と謀って三桓を討とうとした。ちょうどそのとき宣公が亡くなった。季文子は帰父を恨み、帰父は斉に逃げた。成公の二年の春、斉が攻めてきて魯の隆を奪った。夏、成公は晋の郤克とともに鞍で斉の頃公を破り、斉は魯から奪った土地を再び返した。四年、成公は晋に行ったが、晋の景公は魯を敬わなかった。魯は晋に背いて楚と結ぼうとしたが、ある者が諫めたので、やめた。十年、成公は晋に行った。晋の景公が亡くなり、晋は成公を引き止めて葬儀に参列させた。魯はこれを恥として(記録で)隠した。十五年、初めて呉王寿夢と鐘離で会盟した。十六年、宣伯が晋に訴えて季文子を殺させようとした。しかし季文子には義があったので、晋の人々は許さなかった。十八年、成公が亡くなり、子の午が立った。これが襄公である。このとき襄公は三歳であった。襄公の元年、晋は悼公を立てた。その前年の冬、晋の欒書が君主の厲公を殺していた。

解説

魯の公室が衰え、三桓が台頭していく転換点です。文公の死後、襄仲は寵愛を受けた側室の子俀を立てるため、正妻の子の悪と視を殺しました。斉に帰される正妻の哀姜が市場で「天よ、襄仲は正妻の子を殺して側室の子を立てた」と泣き叫び、市場の人々もともに泣いたという場面は胸を打ちます。司馬遷は「これ以後、公室が衰え三桓が強くなった」と明記しています。正統な後継者を力で排除したことで、君主の権威そのものが損なわれ、実力者が君主を左右する前例ができてしまったのです。宣公は後に三桓を除こうとしましたが、果たせずに亡くなりました。季文子は後年、襄仲の行いを振り返り、それが斉という大きな後ろ盾を失わせたと悔やんでいます。筋の通らない後継決定は、目先の勝者を生んでも組織全体の力を弱めるのです。

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