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史記 / 晋世家

閏月乙卯,厲公游匠驪氏,欒書、中行偃以其黨襲捕厲公,囚之,殺胥童,而使人迎公子周于周而立之,是爲悼公。悼公元年正月庚申,欒書、中行偃弒厲公,葬之以一乘車。厲公囚六日死,死十日庚午,智罃迎公子周來,至絳,刑鷄與大夫盟而立之,是爲悼公。辛巳,朝武宮。二月乙酉,卽位。悼公周者,其大父捷,晉襄公少子也,不得立,號爲桓叔,桓叔最愛。桓叔生惠伯談,談生悼公周。周之立,年十四矣。悼公曰:「大父、父皆不得立而辟難於周,客死焉。寡人自以疎遠,毋幾爲君。今大夫不忘文、襄之意而惠立桓叔之後,賴宗廟大夫之靈,得奉晉祀,豈敢不戰戰乎?大夫其亦佐寡人!」於是逐不臣者七人,修舊功,施德惠,收文公入時功臣後。秋,伐鄭。鄭師敗,遂至陳。三年,晉會諸侯。悼公問群臣可用者,祁傒舉解狐。解狐,傒之仇。復問,舉其子祁午。君子曰:「祁傒可謂不黨矣!外舉不隱仇,内舉不隱子。」方會諸侯,悼公弟楊干亂行,魏絳戮其仆。悼公怒,或諫公,公卒賢絳,任之政,使和戎,戎大親附。十一年,悼公曰:「自吾用魏絳,九合諸侯,和戎、翟,魏子之力也。」賜之樂,三讓乃受之。冬,秦取我櫟。十四年,晉使六卿率諸侯伐秦,度涇,大敗秦軍,至棫林而去。

新字:閏月乙卯,厲公游匠驪氏,欒書、中行偃以其党襲捕厲公,囚之,殺胥童,而使人迎公子周于周而立之,是為悼公。悼公元年正月庚申,欒書、中行偃弒厲公,葬之以一乗車。厲公囚六日死,死十日庚午,智罃迎公子周来,至絳,刑鶏与大夫盟而立之,是為悼公。辛巳,朝武宮。二月乙酉,即位。悼公周者,其大父捷,晋襄公少子也,不得立,号為桓叔,桓叔最愛。桓叔生恵伯談,談生悼公周。周之立,年十四矣。悼公曰:「大父、父皆不得立而辟難於周,客死焉。寡人自以疎遠,毋幾為君。今大夫不忘文、襄之意而恵立桓叔之後,頼宗廟大夫之霊,得奉晋祀,豈敢不戦戦乎?大夫其亦佐寡人!」於是逐不臣者七人,修旧功,施徳恵,収文公入時功臣後。秋,伐鄭。鄭師敗,遂至陳。三年,晋会諸侯。悼公問群臣可用者,祁傒舉解狐。解狐,傒之仇。復問,舉其子祁午。君子曰:「祁傒可謂不党矣!外舉不隠仇,内舉不隠子。」方会諸侯,悼公弟楊干乱行,魏絳戮其仆。悼公怒,或諫公,公卒賢絳,任之政,使和戎,戎大親附。十一年,悼公曰:「自吾用魏絳,九合諸侯,和戎、翟,魏子之力也。」賜之楽,三譲乃受之。冬,秦取我櫟。十四年,晋使六卿率諸侯伐秦,度涇,大敗秦軍,至棫林而去。

書き下し

閏月乙卯、厲公匠驪氏に游ぶ。欒書・中行偃其の党を以て厲公を襲捕し、之を囚へ、胥童を殺し、而して人をして公子周を周に迎へしめて之を立てんとす。是を悼公と為す。悼公の元年正月庚申、欒書・中行偃厲公を弑し、之を葬るに一乗の車を以てす。厲公囚はれて六日にして死す。死して十日の庚午、智罃公子周を迎へて来たり、絳に至り、鶏を刑して大夫と盟ひて之を立つ。是を悼公と為す。辛巳、武宮に朝す。二月乙酉、即位す。悼公周は、其の大父捷、晋の襄公の少子なり。立つを得ず。号して桓叔と為す。桓叔最も愛せらる。桓叔恵伯談を生み、談悼公周を生む。周の立つや、年十四なり。悼公曰く、「大父・父皆立つを得ずして難を周に辟け、焉に客死す。寡人自ら疎遠なるを以て、君と為るを幾(ねが)ふこと毋し。今大夫文・襄の意を忘れずして恵みて桓叔の後を立つ。宗廟大夫の霊に頼り、晋の祀を奉ずるを得たり。豈に敢て戦戦たらざらんや。大夫其れ亦た寡人を佐けよ」と。是に於て臣たらざる者七人を逐ひ、旧功を修め、徳恵を施し、文公の入りし時の功臣の後を収む。秋、鄭を伐つ。鄭の師敗る。遂に陳に至る。三年、晋諸侯を会す。悼公群臣の用ふべき者を問ふ。祁傒解狐を挙ぐ。解狐は、傒の仇なり。復た問ふ。其の子祁午を挙ぐ。君子曰く、「祁傒は党せずと謂ふべし。外に挙ぐるに仇を隠さず、内に挙ぐるに子を隠さず」と。方に諸侯を会せんとするに、悼公の弟楊干行を乱す。魏絳其の僕を戮す。悼公怒る。或ひと公を諫む。公卒に絳を賢とし、之に政を任じ、戎を和せしむ。戎大いに親附す。十一年、悼公曰く、「吾魏絳を用ひしより、九たび諸侯を合し、戎・翟を和す。魏子の力なり」と。之に楽を賜ふ。三たび譲りて乃ち之を受く。冬、秦我が櫟を取る。十四年、晋六卿をして諸侯を率ゐて秦を伐たしめ、涇を度り、大いに秦の軍を敗り、棫林に至りて去る。

現代語訳

閏月乙卯の日、厲公は匠驪氏の家に遊びに出かけた。欒書と中行偃は仲間とともに厲公を襲って捕らえ、監禁し、胥童を殺した。そして人をやって公子周を周から迎えて君主に立てようとした。これが悼公である。悼公の元年正月庚申の日、欒書と中行偃は厲公を殺し、わずか一台の車だけを添えて粗末に葬った。厲公は監禁されて六日で死んだ。死んで十日後の庚午の日、智罃が公子周を迎えて絳に着き、鶏を犠牲にして大夫たちと盟約を結び、公子周を君主に立てた。これが悼公である。辛巳の日、武公の廟に参拝した。二月乙酉の日、即位した。悼公周の祖父の捷は晋の襄公の末子で、君主に立てず、桓叔と号した。桓叔は最も愛された子であった。桓叔は恵伯談を生み、談が悼公周を生んだ。周が即位したとき、十四歳であった。悼公は言った。「祖父も父も君主に立てず、難を避けて周に身を寄せ、そこで客死した。私は自分が本家から遠い者なので、君主になることなど望んでいなかった。いま大夫たちが文公・襄公の心を忘れず、ありがたくも桓叔の子孫である私を立ててくれた。宗廟の祖先と大夫たちのおかげで晋の祭祀を継げることになったのだ。どうして身を引き締めずにいられようか。大夫たちもどうか私を助けてほしい」。そこで臣下の道にはずれた者七人を追放し、昔の功臣の功績をあらためて顕彰し、徳と恵みを施し、文公が帰国したときの功臣の子孫を取り立てた。秋、鄭を攻め、鄭軍は敗れた。晋軍はそのまま陳に至った。三年、晋は諸侯を集めた。悼公は群臣に、用いるべき人材を尋ねた。祁傒は解狐を推挙した。解狐は祁傒の仇敵である。悼公が重ねて尋ねると、祁傒は自分の子の祁午を推挙した。君子は言った。「祁傒は私情で党派を作らない人だと言える。外から推挙するときは仇でも避けず、身内から推挙するときは自分の子でも避けなかった」。諸侯を集めた会の場で、悼公の弟の楊干が隊列を乱した。魏絳は軍法に従って楊干の御者を処刑した。悼公は怒ったが、ある人が悼公を諫めた。悼公は最後には魏絳を賢いと認め、政治を任せ、戎と和睦させた。戎は大いに晋に親しみ従った。十一年、悼公は言った。「私が魏絳を用いてから、九度も諸侯を集め、戎や翟と和睦できた。これは魏子の力だ」。そして魏絳に楽器と楽人を与えた。魏絳は三度辞退したのち、ようやく受けた。冬、秦がわが国の櫟を取った。十四年、晋は六卿に諸侯を率いさせて秦を攻め、涇水を渡って秦軍を大いに破り、棫林まで進んで引き揚げた。

解説

晋の厲公が殺され、若き名君・悼公が立つ段です。欒書と中行偃は、自分たちを殺そうとした厲公を捕らえて殺し、周にいた十四歳の公子周を迎えました。悼公は即位の際、「祖父も父も君主になれずに客死した。自分は君主になるなど望んでもいなかった」と謙虚に語り、大夫たちに助けを求めます。そして臣下にふさわしくない者を追放し、古い功臣の子孫を取り立てて、人心を一新しました。有名なのは祁傒の推挙の話で、祁傒は後任に仇敵の解狐を推し、次に自分の子の祁午を推しました。「外に挙ぐるに仇を避けず、内に挙ぐるに子を避けず」は、私情を交えない人材推挙の手本とされています。また魏絳は、君主の弟の行列の乱れを見逃さず、その御者を処罰しましたが、悼公は怒りを収めて魏絳を重用し、その結果、戎との和睦など大きな成果を上げました。公正に人を推し、規律を守る部下を正しく評価することが、組織を立て直す力になることを示す段です。

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