史記 / 晋世家
三月丙午,晉師入曹,數之以其不用釐負羈言,而用美女乘軒者三百人也。令軍毋入僖負羈宗家以報德。楚圍宋,宋復告急晉。文公欲救則攻楚,爲楚嘗有德,不欲伐也;欲釋宋,宋又嘗有德於晉:患之。先軫曰:「執曹伯,分曹、衞地以與宋,楚急曹、衞,其勢宜釋宋。」於是文公從之,而楚成王乃引兵歸。楚將子玉曰:「王遇晉至厚,今知楚急曹、衞而故伐之,是輕王。」
新字:三月丙午,晋師入曹,数之以其不用釐負羈言,而用美女乗軒者三百人也。令軍毋入僖負羈宗家以報徳。楚囲宋,宋復告急晋。文公欲救則攻楚,為楚嘗有徳,不欲伐也;欲釈宋,宋又嘗有徳於晋:患之。先軫曰:「執曹伯,分曹、衛地以与宋,楚急曹、衛,其勢宜釈宋。」於是文公従之,而楚成王乃引兵帰。楚将子玉曰:「王遇晋至厚,今知楚急曹、衛而故伐之,是軽王。」
書き下し
三月丙午、晋の師曹に入り、之を数(せ)むるに其の釐負羈の言を用ひずして、美女の軒に乗る者三百人を用ふるを以てす。軍に令して僖負羈の宗家に入ること毋からしめ、以て徳に報ゆ。楚宋を囲む。宋復た急を晋に告ぐ。文公救はんと欲すれば則ち楚を攻む。楚嘗て徳有るが為に、伐つことを欲せず。宋を釈かんと欲すれば、宋も又嘗て晋に徳有り。之を患ふ。先軫曰く、「曹伯を執へ、曹・衛の地を分かちて以て宋に与へよ。楚曹・衛を急とし、其の勢ひ宜しく宋を釈くべし」と。是に於て文公之に従ふ。而して楚の成王乃ち兵を引きて帰る。楚の将子玉曰く、「王晋を遇すること至って厚し。今楚の曹・衛を急とするを知りて故らに之を伐つ。是れ王を軽んずるなり」と。
現代語訳
三月丙午の日、晋軍は曹の都に入り、曹君が釐負羈の言葉を用いず、それでいて大夫の車に乗る美女を三百人も抱えていることを責めた。そして軍に命じて、釐負羈の一族の家には立ち入らせないようにし、かつての恩に報いた。楚は宋を包囲しており、宋は再び晋に急を告げた。文公は宋を救おうとすれば楚を攻めることになるが、楚にはかつて恩を受けているので攻めたくはなかった。かといって宋を見捨てようとすれば、宋もまたかつて晋に恩を施してくれていた。文公は思い悩んだ。先軫は言った。「曹伯を捕らえ、曹と衛の土地を分けて宋に与えればよい。楚は曹と衛を救うことに追われ、その勢いで宋の包囲を解くはずだ」。文公はこの策に従った。すると楚の成王は兵を引いて帰国した。楚の将軍の子玉は言った。「王は晋をこの上なく手厚く遇されたのに、晋は楚が曹と衛を大事にしているのを知りながら、わざとそれを攻めた。これは王を軽んじることだ」。
解説
関連する章句
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史記 晋世家且つ子玉猶ほ在り。庸ぞ喜ぶべけんや」と。子玉の敗れて帰るや、楚の成王其の言を用ひず、晋と戦ふを貪りしを怒り、子玉を譲責す。子玉自殺す。晋の文公曰く、「我其の外を撃ち、楚其の内を誅す。内外相応ず」と。是に於て乃ち喜ぶ。六月、晋人復た衛侯を入る。壬午、晋侯河を度りて北のかた国に帰る。賞を行ひ、狐偃を首と為す。或ひと曰く、「城濮の事は、先軫の謀なり」と。文公曰く、「城濮の事は、偃我に説きて信を失ふこと毋からしむ。先軫曰く『軍事は勝つを右と為す』と。吾之を用ひて以て勝てり。然れども此れ一時の説なり。偃は万世の功を言ふ。奈何ぞ一時の利を以て万世の功に加へん。是を以て之を先にす」と。冬、晋侯諸侯を温に会し、之を率ゐて周に朝せんと欲す。力未だ能はず。其の畔く者有らんことを恐れ、乃ち人をして周の襄王に河陽に狩りせんことを言はしむ。壬申、遂に諸侯を率ゐて王に践土に朝す。孔子史記を読みて文公に至り、「諸侯は王を召すこと無し」「王河陽に狩りす」と曰ふは、春秋之を諱むなり。丁丑、諸侯許を囲む。曹伯の臣或いは晋侯に説きて曰く、「斉の桓公諸侯を合して異姓を国せしむ。今君会を為して同姓を滅ぼす。曹は叔振鐸の後なり。晋は唐叔の後なり。諸侯を合して兄弟を滅ぼすは、礼に非ず」と。晋侯説び、曹伯を復す。是に於て晋始めて三行を作る。荀林父中行に将たり、先縠右行に将たり、先蔑左行に将たり。七年、晋の文公・秦の繆公共に鄭を囲む。其の文公の亡げて過ぎりし時に無礼なりしと、城濮の時に鄭楚を助けしとを以てなり。鄭を囲み、叔瞻を得んと欲す。叔瞻之を聞きて自殺す。鄭叔瞻を持ちて晋に告ぐ。晋曰く、「必ず鄭君を得て心を甘んぜん」と。鄭恐れ、乃ち間に使ひをして秦の繆公に謂はしめて曰く、「鄭を亡ぼして晋を厚くするは、晋に於ては得たり。而して秦は未だ利と為さず。君何ぞ鄭を解きて、東道の交はりと為るを得ざる」と。秦伯説び、兵を罷む。晋も亦た兵を罷む。
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史記 晋世家子玉請ひて曰く、「敢て必ずしも功有らんとするに非ず。願はくは以て讒慝の口を間執せん」と。楚王怒り、少しく之に兵を与ふ。是に於て子玉宛春をして晋に告げしむ、「請ふ衛侯を復して曹を封ぜよ。臣も亦た宋を釈かん」と。咎犯曰く、「子玉無礼なり。君は一を取り、臣は二を取る。許すこと勿かれ」と。先軫曰く、「人を定むる、之を礼と謂ふ。楚一言にして三国を定め、子一言にして之を亡ぼさば、我則ち礼毋からん。楚に許さざるは、是れ宋を棄つるなり。私かに曹・衛に許して以て之を誘ひ、宛春を執へて以て楚を怒らせ、既に戦ひて後に之を図るに如かず」と。晋侯乃ち宛春を衛に囚へ、且つ私かに曹・衛を復することを許す。曹・衛絶つことを楚に告ぐ。楚の得臣怒り、晋の師を撃つ。晋の師退く。軍吏曰く、「何の為に退く」と。文公曰く、「昔楚に在りしとき、三舎を退かんと約す。倍くべけんや」と。楚の師去らんと欲するも、得臣肯ぜず。四月戊辰、宋公・斉の将・秦の将晋侯と城濮に次る。己巳、楚の兵と合戦す。楚の兵敗れ、得臣余兵を収めて去る。甲午、晋の師還りて衡雍に至り、王宮を践土に作る。初め、鄭楚を助く。楚敗れて、懼れ、人をして晋侯に盟はんことを請はしむ。晋侯鄭伯と盟ふ。五月丁未、楚の俘を周に献ず。駟介百乗、徒兵千。天子王子虎をして晋侯に命じて伯と為さしめ、大輅、彤弓矢百、玈弓矢千、秬鬯一卣、珪瓚、虎賁三百人を賜ふ。晋侯三たび辞し、然る後に稽首して之を受く。周晋の文侯の命を作る、「王若(かく)のごとく曰く、父義和、丕いに顕らかなる文・武、能く明徳を慎み、昭らかに上に登り、布きて聞こゆること下に在り。維れ時れ上帝厥の命を文・武に集む。朕が身を恤み、予一人を継ぎて永く其れ位に在らしめよ」と。是に於て晋の文公伯と称す。癸亥、王子虎諸侯を王庭に盟はしむ。晋楚の軍を焚く。火数日息まず。文公嘆ず。左右曰く、「楚に勝ちて君猶ほ憂ふるは、何ぞや」と。文公曰く、「吾聞く、能く戦ひ勝ちて安んずる者は唯だ聖人のみと。是を以て懼る。
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史記 晋世家従亡の賤臣壺叔曰く、「君三たび賞を行ふも、賞臣に及ばず。敢て罪を請ふ」と。文公報じて曰く、「夫れ我を導くに仁義を以てし、我を防ぐに徳恵を以てす。此れ上賞を受く。我を輔くるに行ひを以てし、卒に以て成立す。此れ次賞を受く。矢石の難、汗馬の労、此れ復た次賞を受く。若し力を以て我に事へて吾が欠を補ふこと無き者は、此れ復た次賞を受く。三賞の後、故に且に子に及ばんとす」と。晋人之を聞き、皆説ぶ。二年春、秦河上に軍し、将に王を入れんとす。趙衰曰く、「覇を求むるは王を入れて周を尊ぶに如くは莫し。周・晋は同姓なり。晋先んじて王を入れずして、後に秦之を入れば、以て天下に令する毋からん。方今王を尊ぶは、晋の資なり」と。三月甲辰、晋乃ち兵を発して陽樊に至り、温を囲み、襄王を周に入る。四月、王の弟帯を殺す。周の襄王晋に河内の陽樊の地を賜ふ。四年、楚の成王及び諸侯宋を囲む。宋の公孫固晋に如きて急を告ぐ。先軫曰く、「施しに報い覇を定むるは、今に在り」と。狐偃曰く、「楚新たに曹を得て初めて衛に婚す。若し曹・衛を伐たば、楚必ず之を救はん。則ち宋免れん」と。是に於て晋三軍を作る。趙衰郤縠を挙げて中軍に将たらしめ、郤臻之を佐く。狐偃をして上軍に将たらしめ、狐毛之を佐く。趙衰に命じて卿と為す。欒枝下軍に将たり、先軫之を佐く。荀林父戎に御し、魏犫右と為る。往きて伐つ。冬十二月、晋の兵先づ山東に下り、而して原を以て趙衰を封ず。五年春、晋の文公曹を伐たんと欲し、道を衛に仮る。衛人許さず。還りて河南より度り、曹を侵し、衛を伐つ。正月、五鹿を取る。二月、晋侯・斉侯斂盂に盟ふ。衛侯晋に盟はんことを請ふ。晋人許さず。衛侯楚と与せんと欲す。国人欲せず。故に其の君を出だして以て晋を説ばしむ。衛侯襄牛に居り、公子買衛を守る。楚衛を救ふも、卒へず。晋侯曹を囲む。
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『春秋左氏伝』僖公二十八年 三舎を退く子玉伯棼をして戰を請はしめて曰く、「敢へて必ずしも功有らんとするに非ず、願はくは以って讒慝の口を間執せん」と。王怒り、少しく之に師を與ふ。……晉師退く。軍吏曰く、「君を以って臣を辟くるは、辱なり。且つ楚師老いたり、何の故に退くか」と。子犯曰く、「師は直なれば壯と為し、曲なれば老と為す、豈に久しきに在らんや。楚の惠微かりせば此に及ばず、三舍を退きて之を辟くるは、報ゆる所以なり。惠に背き言を食み、以って其の讎に亢(あた)らば、我曲にして楚直なり、其の眾素より飽く、老と謂ふ可からず。我退きて楚還らば、我將に何をか求めん。若し其れ還らずんば、君退きて臣犯す、曲彼に在らん」と。三舍を退く。楚眾止まらんと欲するも、子玉可かず。
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史記 晋世家隨会曰く、「昔文公の楚と城濮に戦ふや、成王帰りて子玉を殺す。而して文公乃ち喜ぶ。今楚已に我が師を敗る。又其の将を誅せば、是れ楚を助けて仇を殺すなり」と。乃ち止む。四年、先縠首計を以て晋の軍を河上に敗る。誅せられんことを恐れ、乃ち翟に奔り、翟と晋を伐たんことを謀る。晋覚り、乃ち縠を族す。縠は、先軫の子なり。五年、鄭を伐つ。楚を助けしが為の故なり。是の時楚の荘王彊し。晋の兵を河上に挫きしを以てなり。六年、楚宋を伐つ。宋来たりて急を晋に告ぐ。晋之を救はんと欲す。伯宗謀りて曰く、「楚は、天方に之を開く。当たるべからず」と。乃ち解揚をして紿(あざむ)きて宋を救ふと為さしむ。鄭人執へて楚に与ふ。楚厚く賜ひ、其の言を反さしめ、宋をして急ぎ下らしめんとす。解揚紿きて之を許し、卒に晋君の言を致す。楚之を殺さんと欲す。或いは諫む。乃ち解揚を帰す。七年、晋隨会をして赤狄を滅ぼさしむ。八年、郤克をして斉に使ひせしむ。斉の頃公の母楼上より観て之を笑ふ。然る所以の者は、郤克は僂(せむし)にして、魯の使ひは蹇(あしなへ)、衛の使ひは眇(すがめ)なり。故に斉も亦た人をして之の如くならしめて以て客を導く。郤克怒り、帰りて河上に至りて曰く、「斉に報いざれば、河伯之を視よ」と。国に至り、君に請ひて、斉を伐たんと欲す。景公其の故を問ひ知りて曰く、「子の怨み、安んぞ以て国を煩はすに足らん」と。聴かず。魏文子老を請ひて休み、郤克を辟く。克政を執る。九年、楚の荘王卒す。晋斉を伐つ。斉太子彊をして晋に質たらしむ。晋の兵罷む。十一年春、斉魯を伐ち、隆を取る。魯急を衛に告ぐ。衛と魯と皆郤克に因りて急を晋に告ぐ。晋乃ち郤克・欒書・韓厥をして兵車八百乗を以て魯・衛と共に斉を伐たしむ。夏、頃公と砹に戦ひ、頃公を傷つけ困しむ。頃公乃ち其の右と位を易へ、下りて飲を取り、以て脱して去るを得たり。斉の師敗走す。晋北ぐるを追ひて斉に至る。頃公宝器を献じて以て平らがんことを求む。聴かず。郤克曰く、「必ず蕭桐姪子を得て質と為さん」と。
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史記 晋世家乃ち止み、遂に行く。曹を過ぐ。曹の共公礼せず、重耳の駢脅を観んと欲す。曹の大夫釐負羈曰く、「晋の公子は賢にして、又同姓なり。窮して来たりて我を過ぐ。奈何ぞ礼せざる」と。共公其の謀に従はず。負羈乃ち私かに重耳に食を遺り、璧を其の下に置く。重耳其の食を受け、其の璧を還す。去りて宋を過ぐ。宋の襄公新たに兵を楚に困しめられ、泓に傷つく。重耳の賢なるを聞き、乃ち国礼を以て重耳に礼す。宋の司馬公孫固咎犯に善く、曰く、「宋は小国にして新たに困しむ。以て入らんことを求むるに足らず。更に大国に之け」と。乃ち去る。鄭を過ぐ。鄭の文公礼せず。鄭の叔瞻其の君を諫めて曰く、「晋の公子は賢にして、其の従者は皆国の相なり。且つ又同姓なり。鄭の出は厲王よりし、晋の出は武王よりす」と。鄭君曰く、「諸侯の亡公子の此を過ぐる者衆し。安んぞ尽く礼すべけんや」と。叔瞻曰く、「君礼せずんば、之を殺すに如かず。且に後に国の患と為らんとす」と。鄭君聴かず。重耳去りて楚に之く。楚の成王適諸侯の礼を以て之を待す。重耳謝して敢て当たらず。趙衰曰く、「子亡げて外に在ること十余年、小国すら子を軽んず。況んや大国をや。今楚は大国にして固く子を遇す。子其れ譲ること毋かれ。此れ天子を開くなり」と。遂に客礼を以て之に見ゆ。成王厚く重耳を遇す。重耳甚だ卑くす。成王曰く、「子即し国に反らば、何を以て寡人に報いん」と。重耳曰く、「羽毛歯角玉帛は、君王の余す所なり。未だ報ゆる所以を知らず」と。王曰く、「然りと雖も、何を以て不穀に報いん」と。重耳曰く、「即し已むを得ずして、君王と兵車を以て平原広沢に会せば、請ふ王を辟くること三舎ならん」と。楚の将子玉怒りて曰く、「王晋の公子を遇すること至って厚し。今重耳の言孫(したが)はず。請ふ之を殺さん」と。成王曰く、「晋の公子は賢にして外に困しむこと久し。従者は皆国器なり。此れ天の置く所なり。庸ぞ殺すべけんや。且つ言何を以て之を易へん」と。
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