長短経 / 正論
周衰、禮廢樂壊大小相踰、管仲之家、遂偹三歸。循法守正者、見侮于世、奢溢僣差者、謂之顯榮。自子夏門人之髙弟也、猶云、‘出見紛華盛麗而悦、入聞夫子之道而樂、二者心戰、未能决。’而况中庸以下、漸漬於失教、被服于成俗乎?孔子必正名於衛、所居不合、豈不哀哉!”
新字:周衰、礼廃楽壊大小相踰、管仲之家、遂備三帰。循法守正者、見侮于世、奢溢僣差者、謂之顕栄。自子夏門人之高弟也、猶云、‘出見紛華盛麗而悦、入聞夫子之道而楽、二者心戦、未能決。’而況中庸以下、漸漬於失教、被服于成俗乎?孔子必正名於衛、所居不合、豈不哀哉!”
書き下し
周衰えて、礼廃れ楽壊れ、大小相い踰ゆ。管仲の家、遂に三帰を備う。法に循い正を守る者は、世に侮られ、奢溢僭差なる者は、之を顕栄と謂う。子夏の門人の高弟自りするも、猶お云う「出でては紛華盛麗を見て悦び、入りては夫子の道を聞きて楽しむ。二者、心に戦い、未だ決する能わず」と。而るに況んや中庸以下の、失教に漸漬し、成俗に被服せるをや。孔子は必ず名を衛に正さんとせしも、居る所合わず。豈に哀しからずや」と。
現代語訳
周が衰えて礼は廃れ楽は壊れ、身分の大小が互いに越え合った。管仲の家はついに三帰の台を備えた。法に従い正しさを守る者は世に侮られ、奢りたけって身分を越える者は栄えていると呼ばれた。子夏の門人の中でも優れた者でさえこう言った。「外に出て華やかで美しいものを見ると喜び、家に入って先生の道を聞くと楽しい。この二つが心の中で戦って、決着がつかない」。まして中くらいから下の、崩れた教えに浸り、出来上がった風俗を着込んでいる者ならなおさらである。孔子は衛で名を正そうとしたが、置かれた立場が合わなかった。哀しいことではないか」。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
論語・八佾篇子曰く、『管仲の器、小なる哉!』或るひと曰く、『管仲は倹なりや。』曰く、『管氏に三帰有り、官事は摂ねず、焉んぞ倹なるを得ん。』曰く、『然らば則ち管仲は礼を知るや。』曰く、『邦君、塞門を樹つ、管氏も亦塞門を樹つ。邦君、両君の好を為すに反坫有り、管氏も亦反坫有り。管氏にして礼を知らば、孰か礼を知らざらん。』
-
『中朝事実』附錄・功過の評価と礼の則、識語或ひと疑ふ、太子、先に弑逆の過有り、奚ぞ後の善を以て其の大罪を掩はむ。今論ずる所、最も其の短を護るに似たりと。 愚謂へらく、天地の道は、寛大にして克く容る。故に高明厚博にして息む無く、神聖法る。故に悠久にして疆り無し。嘗て聞く、伯夷の悪を悪むや、悪人と言ふこと、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如しと。然れども夫子は旧悪を念はざるを以て之を称す。春秋の書たる、乱臣賊子を懲らさむが為なり。而るに楚の穆王、其の君父を弑す。夫子は厳しく其の罪を書す。修好に及びて、其の臣の名を書し、使と称し、其の爵を書す。管仲は其の讎を相く。九合に及びて、仁を以て与す。若し問ふ所の説ならば、乃ち君を弑し讎を相くるの罪、豈に修好・九合の後に掩ふべけむや。而るに夫子の筆の言、此の如し。蓋し馬子の弑逆、太子は討たず。猶ほ晏嬰、遂に援けて弑君の謀を与り聞くがごとし。而して其の礼を建て章を創め、以て天下の人心を化するは、豈に修好・九合の属ならむや。護其の短なる者は、一家の私言にして、公議に非ざるなり。 或ひと疑ふ、中華の礼儀の制は、一定の事無く、代代変易す、何ぞやと。 愚謂へらく、礼には一定の則有りて、一定の事無し。是れ乃ち礼の実なり。時に治乱有り、地に豊凶有り、人に長幼交代有り、事に倹奢有り、物に始終・新旧・有余・不足有り。豈に一定の事を以てせむや。故に一定の則を以て其の宜しきを制し、天地人物の性情に通ず。是れ神聖の礼なり。豈に唯だ中華のみならむや。外国の聖聖も亦然り。故に或いは賢を尚び、或いは文を尚び、或いは文質並び行ふ。周は農を以て興り、天子后妃必ず親ら耕蚕して、農桑を導く。漢は始めて元旦の賀礼を行ひ、君臣相和するを以てするの属は、皆一代の制なり。周礼は万代の模範にして、夫子は顔子に告ぐるに、夏の時を行ふを以てす。然れば乃ち事とは、今日の時物の通情に在るのみ。代代の変易、怪しむべからず。 蓋し当時、中朝事実の上梓するや、先づ上下の二巻を以て、将に跋文及び附録に刻まむとす。故有りて止む。此の書は、乃ち其の板下の筆工の書なり。而して今、附録の二枚を亡ふ。故に写本に従ひて書して以て補ふ。且つ写本は、跋文を附録の尾に附す。今や、板本の丁数に隨ひ、諸を附録の前に寘く。時に安政乙卯仲冬、長島元長謹みて誌す。
-
史記 斉太公世家是の歳、晋、太子申生を殺す。三十五年夏、諸侯に葵丘に会す。周の襄王、宰孔をして桓公に文武の胙・彤弓矢・大路を賜ひ、拝する無からしめんとす。桓公之を許さんと欲す。管仲曰く「不可なり」と。乃ち下拝して賜を受く。秋、復た諸侯に葵丘に会す。益々驕色有り。周、宰孔をして会せしむ。諸侯頗る叛く者有り。晋侯病み、後れ、宰孔に遇ふ。宰孔曰く、「斉侯驕れり。弟ら行く無かれ」と。之に従ふ。是の歳、晋の献公卒す。里克、奚斉・卓子を殺す。秦の穆公、夫人を以て公子夷吾を入れて晋君と為す。桓公是に於て晋の乱を討ち、高梁に至り、隰朋をして晋君を立てしめて還る。是の時、周室微にして、唯斉・楚・秦・晋のみ彊たり。晋は初め会に与るも、献公死して国内乱る。秦の穆公は辟遠にして、中国の会盟に与らず。楚の成王は初めて荊蛮を収めて之を有し、夷狄もて自ら置く。唯独り斉のみ中国の会盟を為す。而して桓公能く其の徳を宣ぶ、故に諸侯賓会す。是に於て桓公称して曰く、「寡人南のかた伐ちて召陵に至り、熊山を望む。北のかた山戎・離枝・孤竹を伐つ。西のかた大夏を伐ち、流沙を渉る。馬を束ね車を懸けて太行に登り、卑耳山に至りて還る。諸侯寡人に違ふ莫し。寡人、兵車の会三たび、乗車の会六たび、九たび諸侯を合せ、天下を一匡す。昔、三代の命を受くるも、何を以てか此に異なる有らんや。吾、泰山に封じ、梁父に禅せんと欲す」と。管仲固く諫むるも、聴かず。乃ち桓公に説くに遠方の珍怪の物至りて乃ち封ずるを得るを以てす。桓公乃ち止む。三十八年、周の襄王の弟帯、戎・翟と合謀して周を伐つ。斉、管仲をして戎を周に平がしむ。周、上卿の礼を以て管仲を礼せんと欲す。管仲頓首して曰く、「臣は陪臣なり、安んぞ敢てせん」と。三たび譲りて、乃ち下卿の礼を受けて以て見ゆ。三十九年、周の襄王の弟帯、来りて斉に奔る。斉、仲孫をして王に請ひ、帯の為に謝せしむ。襄王怒りて聴かず。
-
『五常訓』巻之四・礼一礼は中を得るをたつとぶ。中とは過不及なきを云ふ。管仲、晏子、此の両人、皆才力すぐれたりしかども、聖人の道を知らず。管仲は、身上よりおごりて、礼をうしなひ、晏子は倹約に過ぎて礼を失ふ。今の人、倹約なれば、吝嗇にして、なすべき礼法をも行はず。是を下に偏ると云ふ。下にせまるとは、わが身上より下なる人の行をするを云ふ。奢れば法制にそむきて、礼を失ふ。是を上を僭すと云ふ。上を僭すとは、わが身上の分に過ぎて、上なる人のふるまひをするを云ふ。故に礼は過不及なき工夫をなすべし。
-
史記 斉太公世家燕の荘公遂に桓公を送りて斉の境に入る。桓公曰く、「天子に非ずんば、諸侯相送るに境を出でず。吾以て燕に無礼なる可からず」と。是に於て溝を分ちて燕君の至る所を割きて燕に与へ、燕君に命じて復た召公の政を修め、貢を周に納れしむること、成・康の時の如し。諸侯之を聞き、皆斉に従ふ。二十七年、魯の湣公の母を哀姜と曰ふ。桓公の女弟なり。哀姜、魯の公子慶父に淫す。慶父、湣公を弑す。哀姜、慶父を立てんと欲す。魯人更めて釐公を立つ。桓公、哀姜を召して之を殺す。二十八年、衛の文公に狄の乱有り、急を斉に告ぐ。斉、諸侯を率ゐて楚丘に城きて衛君を立つ。二十九年、桓公、夫人蔡姫と船中に戯る。蔡姫水に習ひ、公を蕩かす。公懼れて之を止むるも、止めず。船を出でて怒り、蔡姫を帰すも、絶たず。蔡も亦怒り、其の女を嫁す。桓公聞きて怒り、師を興して往きて伐つ。三十年春、斉の桓公、諸侯を率ゐて蔡を伐つ。蔡潰ゆ。遂に楚を伐つ。楚の成王、師を興して問ひて曰く、「何の故に吾が地に渉るや」と。管仲対へて曰く、「昔、召康公、我が先君太公に命じて曰く、『五侯九伯、若実に之を征し、以て周室を夾輔せよ』と。我が先君に履を賜ふ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢の包茅入らず、王の祭具はらず。是を以て来り責む。昭王南征して復らず。是を以て来り問ふ」と。楚王曰く、「貢の入らざるは、之有り、寡人の罪なり。敢て共せざらんや。昭王の出でて復らざるは、君其れ之を水浜に問へ」と。斉の師進みて陘に次る。夏、楚王、屈完をして兵を将ゐて斉を捍がしむ。斉の師退きて召陵に次る。桓公、其の衆を以て屈完に矜る。屈完曰く、「君、道を以てせば則ち可なり。若し不ずんば、則ち楚は方城以て城と為し、江・漢以て溝と為す。君安んぞ能く進まんや」と。乃ち屈完と盟ひて去る。陳を過ぐ。陳の袁濤塗、斉を詐り、東方に出でしむ。覚る。秋、斉、陳を伐つ。
-
十八史略・『十八史略』斉・桓公(管仲の遺言)・管仲の遺言と側近の選び方仲病む。桓公、群臣の誰か相とすべきを問う。易牙は何如と。仲曰く、「子を殺して以て君に食らわしむ。人情に非ず。近づくべからず」と。開方は何如と。曰く、「親に倍きて以て君に適く。人情に非ず。近づくべからず」と。豎刁は何如と。曰く、「自ら宮して以て君に適く。人情に非ず。近づくべからず」と。仲死し、公、仲の言を用いず。三子、権を専らにす。公の内寵、夫人の如き者六、皆な子有り。公薨じ、五公子立つを争いて相攻む。公の尸、床に在りて殯斂する者無きこと六十七日、尸の蟲、戸より出づ。