中朝事実 / 附錄・功過の評価と礼の則、識語
或疑。太子先有弑逆之過。奚以後善掩其大罪乎。今所論。最似護其短也。 愚謂。天地之道。寬大克容。故高明厚博而無息。神聖法焉。故悠久而無疆。嘗聞。伯夷之惡惡。與惡人言。如以朝衣朝冠。坐於塗炭。然夫子以不念舊惡稱之矣。春秋爲書也。爲懲亂臣賊子。而楚穆王弑其君父。夫子嚴書其罪。及修好。其臣書名稱使。書其爵。管仲相其讎。及九合。以仁與焉。若所問之說。乃弑君相讎之罪。豈掩修好九合之後乎。而夫子之筆言如此。蓋馬子之弑逆。太子不討。猶晏嬰遂援與聞弑君之謀。而其建禮剏章。以化天下之人心。豈修好九合之屬乎哉。如護其短者。一家之私言。而非公議也。 或疑。中華禮儀之制。無一定之事。代代變易。何乎。 愚謂。禮有一定之則。而無一定之事。是乃禮之實也。時有治亂。地有豐凶。人有長幼交代。事有儉奢。物有始終・新舊・有餘・不足。豈以一定之事乎。故以一定之則制其宜。通天地人物之性情。是神聖之禮也。豈唯中華乎。外國之聖聖亦然。故或尙賢。或尙文。或文質並行。周以農興。天子后妃必親耕蠶。而導農桑。漢始行元旦賀禮。以君臣相和之屬。皆一代之制也。周禮者。萬代之模範。而夫子告顏子。以行夏之時。然乃事者。在今日時物之通情而已。代代之變易。不可怪焉。 蓋當時中朝事實之上梓也。先以上下之二卷。將刻於跋文及附錄焉。有故而止矣。此書。乃其板下之筆工書也。而今亡附錄之二枚。故從寫本而書以補焉。且寫本者。附跋文於附錄之尾。今也。隨板本之丁數。而寘諸附錄前。于時安政乙卯仲冬。長島元長謹誌。
新字:或疑。太子先有弑逆之過。奚以後善掩其大罪乎。今所論。最似護其短也。 愚謂。天地之道。寛大克容。故高明厚博而無息。神聖法焉。故悠久而無疆。嘗聞。伯夷之悪悪。与悪人言。如以朝衣朝冠。坐於塗炭。然夫子以不念旧悪称之矣。春秋為書也。為懲乱臣賊子。而楚穆王弑其君父。夫子厳書其罪。及修好。其臣書名称使。書其爵。管仲相其讎。及九合。以仁与焉。若所問之説。乃弑君相讎之罪。豈掩修好九合之後乎。而夫子之筆言如此。蓋馬子之弑逆。太子不討。猶晏嬰遂援与聞弑君之謀。而其建礼剏章。以化天下之人心。豈修好九合之属乎哉。如護其短者。一家之私言。而非公議也。 或疑。中華礼儀之制。無一定之事。代代変易。何乎。 愚謂。礼有一定之則。而無一定之事。是乃礼之実也。時有治乱。地有豊凶。人有長幼交代。事有倹奢。物有始終・新旧・有余・不足。豈以一定之事乎。故以一定之則制其宜。通天地人物之性情。是神聖之礼也。豈唯中華乎。外国之聖聖亦然。故或尚賢。或尚文。或文質並行。周以農興。天子后妃必親耕蠶。而導農桑。漢始行元旦賀礼。以君臣相和之属。皆一代之制也。周礼者。万代之模範。而夫子告顔子。以行夏之時。然乃事者。在今日時物之通情而已。代代之変易。不可怪焉。 蓋当時中朝事実之上梓也。先以上下之二巻。将刻於跋文及附録焉。有故而止矣。此書。乃其板下之筆工書也。而今亡附録之二枚。故従写本而書以補焉。且写本者。附跋文於附録之尾。今也。随板本之丁数。而寘諸附録前。于時安政乙卯仲冬。長島元長謹誌。
書き下し
或ひと疑ふ、太子、先に弑逆の過有り、奚ぞ後の善を以て其の大罪を掩はむ。今論ずる所、最も其の短を護るに似たりと。 愚謂へらく、天地の道は、寛大にして克く容る。故に高明厚博にして息む無く、神聖法る。故に悠久にして疆り無し。嘗て聞く、伯夷の悪を悪むや、悪人と言ふこと、朝衣朝冠を以て塗炭に坐するが如しと。然れども夫子は旧悪を念はざるを以て之を称す。春秋の書たる、乱臣賊子を懲らさむが為なり。而るに楚の穆王、其の君父を弑す。夫子は厳しく其の罪を書す。修好に及びて、其の臣の名を書し、使と称し、其の爵を書す。管仲は其の讎を相く。九合に及びて、仁を以て与す。若し問ふ所の説ならば、乃ち君を弑し讎を相くるの罪、豈に修好・九合の後に掩ふべけむや。而るに夫子の筆の言、此の如し。蓋し馬子の弑逆、太子は討たず。猶ほ晏嬰、遂に援けて弑君の謀を与り聞くがごとし。而して其の礼を建て章を創め、以て天下の人心を化するは、豈に修好・九合の属ならむや。護其の短なる者は、一家の私言にして、公議に非ざるなり。 或ひと疑ふ、中華の礼儀の制は、一定の事無く、代代変易す、何ぞやと。 愚謂へらく、礼には一定の則有りて、一定の事無し。是れ乃ち礼の実なり。時に治乱有り、地に豊凶有り、人に長幼交代有り、事に倹奢有り、物に始終・新旧・有余・不足有り。豈に一定の事を以てせむや。故に一定の則を以て其の宜しきを制し、天地人物の性情に通ず。是れ神聖の礼なり。豈に唯だ中華のみならむや。外国の聖聖も亦然り。故に或いは賢を尚び、或いは文を尚び、或いは文質並び行ふ。周は農を以て興り、天子后妃必ず親ら耕蚕して、農桑を導く。漢は始めて元旦の賀礼を行ひ、君臣相和するを以てするの属は、皆一代の制なり。周礼は万代の模範にして、夫子は顔子に告ぐるに、夏の時を行ふを以てす。然れば乃ち事とは、今日の時物の通情に在るのみ。代代の変易、怪しむべからず。 蓋し当時、中朝事実の上梓するや、先づ上下の二巻を以て、将に跋文及び附録に刻まむとす。故有りて止む。此の書は、乃ち其の板下の筆工の書なり。而して今、附録の二枚を亡ふ。故に写本に従ひて書して以て補ふ。且つ写本は、跋文を附録の尾に附す。今や、板本の丁数に隨ひ、諸を附録の前に寘く。時に安政乙卯仲冬、長島元長謹みて誌す。
現代語訳
ある人は疑う。太子には先に弑逆の過ちがある。どうして後の善で、その大罪を覆えようか。今論じているのは、その短所を庇うもののように見えるのではないかと。 私が思うに、天地の道は寛大でよく包容する。だから高く明るく厚く広く、休むことがない。神聖はこれに則る。だから悠久で限りがない。聞いたことがある。伯夷が悪を憎むさまは、悪人と話すのに、朝廷の衣冠を着て泥と炭の上に座るようなものだと。それでも孔子は、旧悪を心に留めなかったとして伯夷を称えた。春秋という書は、乱臣賊子を懲らしめるためのものである。楚の穆王は君父を弑した。孔子は厳しくその罪を書いた。しかし友好を修めるに及んで、その臣の名を書き、使いと称し、その爵位を書いた。管仲は自分の仇を助けた。諸侯を九度会合させるに及んで、孔子は仁をもって認めた。もし問われた説のとおりなら、君を弑し仇を助けた罪は、修好や九合の後に覆い隠せることになろう。しかし孔子の筆は、このように書いた。馬子の弑逆を太子は討たなかった。ちょうど晏嬰が、結局は助けて、君を弑する謀を聞くのに関わったのと同じである。しかしその礼を建て章を創り、天下の人心を化したことは、どうして修好や九合の類であろうか。短所を庇うというのは、一家の私言であって、公議ではない。 ある人は疑う。中華の礼儀の制は、一定の事がなく、代々変わるのはなぜかと。 私が思うに、礼には一定の則はあるが、一定の事はない。これが礼の実である。時には治と乱があり、土地には豊と凶があり、人には長幼の交代があり、事には倹約と奢侈があり、物には始まりと終わり、新旧、余りと不足がある。どうして一定の事で決められようか。だから一定の則によってその宜しきを制し、天地人物の性情に通じる。これが神聖の礼である。中華だけのことではない。外国の聖人たちもまたそうである。だから賢を尚ぶ世もあり、文を尚ぶ世もあり、文と質が並び行われる世もある。周は農で興り、天子と后妃は必ず自ら耕し蚕を養って農桑を導いた。漢ははじめて元旦の賀礼を行い、君臣が相和するようにした。これらはみな一代の制である。周礼は万代の模範であるが、孔子は顔回に、夏の暦を行うように告げた。とすれば、事とは今日の時と物の通情にあるのみである。代々の変化を怪しんではならない。 当時、中朝事実を出版するにあたり、まず上下二巻を、跋文と附録とともに刻もうとした。事情があって止んだ。この書はその板下の筆工が書いたものである。今、附録の二枚が失われている。そこで写本に従って書いて補った。また写本は跋文を附録の末尾に付けている。今は板本の丁数に従い、跋文を附録の前に置いた。時に安政二年乙卯の仲冬、長島元長が謹んで記した。
解説

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