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史記 / 呉太伯世家

十一年,吳王使太子夫差伐楚,取番。楚恐而去郢徙鄀。十五年,孔子相魯。十九年夏,吳伐越,越王句踐迎撃之槜李。越使死士挑戰,三行造吳師,呼,自剄。吳師觀之,越因伐吳,敗之姑蘇,傷吳王闔廬指,軍卻七里。吳王病傷而死。闔廬使立太子夫差,謂曰:「爾而忘句踐殺汝父乎?」對曰:「不敢!」三年,乃報越。王夫差元年,以大夫伯嚭爲太宰。習戰射,常以報越爲志。二年,吳王悉精兵以伐越,敗之夫椒,報姑蘇也。越王句踐乃以甲兵五千人棲於會稽,使大夫種因吳太宰嚭而行成,請委國爲臣妾。吳王將許之,伍子胥諫曰:「昔有過氏殺斟灌以伐斟尋,滅夏后帝相。帝相之妃后緡方娠,逃於有仍而生少康。少康爲有仍牧正。有過又欲殺少康,少康奔有虞。有虞思夏德,於是妻之以二女而邑之於綸,有田一成,有衆一旅。後遂收夏衆,撫其官職。使人誘之,遂滅有過氏,復禹之績,祀夏配天,不失舊物。今吳不如有過之彊,而句踐大於少康。今不因此而滅之,又將寬之,不亦難乎!且句踐爲人能辛苦,今不滅,後必悔之。」吳王不聽,聽太宰嚭,卒許越平,與盟而罷兵去。七年,吳王夫差聞齊景公死而大臣爭寵,新君弱,乃興師北伐齊。

新字:十一年,呉王使太子夫差伐楚,取番。楚恐而去郢徙鄀。十五年,孔子相魯。十九年夏,呉伐越,越王句践迎撃之槜李。越使死士挑戦,三行造呉師,呼,自剄。呉師観之,越因伐呉,敗之姑蘇,傷呉王闔廬指,軍却七里。呉王病傷而死。闔廬使立太子夫差,謂曰:「爾而忘句践殺汝父乎?」対曰:「不敢!」三年,乃報越。王夫差元年,以大夫伯嚭為太宰。習戦射,常以報越為志。二年,呉王悉精兵以伐越,敗之夫椒,報姑蘇也。越王句践乃以甲兵五千人棲於会稽,使大夫種因呉太宰嚭而行成,請委国為臣妾。呉王将許之,伍子胥諫曰:「昔有過氏殺斟灌以伐斟尋,滅夏后帝相。帝相之妃后緡方娠,逃於有仍而生少康。少康為有仍牧正。有過又欲殺少康,少康奔有虞。有虞思夏徳,於是妻之以二女而邑之於綸,有田一成,有衆一旅。後遂収夏衆,撫其官職。使人誘之,遂滅有過氏,復禹之績,祀夏配天,不失旧物。今呉不如有過之彊,而句践大於少康。今不因此而滅之,又将寛之,不亦難乎!且句践為人能辛苦,今不滅,後必悔之。」呉王不聴,聴太宰嚭,卒許越平,与盟而罷兵去。七年,呉王夫差聞斉景公死而大臣争寵,新君弱,乃興師北伐斉。

書き下し

十一年、呉王、太子夫差をして楚を伐たしめ、番を取る。楚恐れて郢を去りて鄀に徙る。十五年、孔子魯に相たり。十九年夏、呉、越を伐つ。越王句践、之を槜李に迎へ撃つ。越、死士をして戦ひを挑ましむ。三行して呉の師に造り、呼びて自剄す。呉の師之を観る。越因りて呉を伐ち、之を姑蘇に敗り、呉王闔廬の指を傷つけ、軍卻くこと七里。呉王、傷を病みて死す。闔廬、太子夫差を立てしめ、謂ひて曰く、「爾而ち句践の汝の父を殺せしを忘れんか」と。対へて曰く、「敢てせず」と。三年にして乃ち越に報ゆ。王夫差の元年、大夫伯嚭を以て太宰と為す。戦射を習ひ、常に越に報ゆるを以て志と為す。二年、呉王悉く精兵もて以て越を伐ち、之を夫椒に敗り、姑蘇に報ゆ。越王句践乃ち甲兵五千人を以て会稽に棲み、大夫種をして呉の太宰嚭に因りて成を行はしめ、国を委ねて臣妾と為らんことを請ふ。呉王将に之を許さんとす。伍子胥諫めて曰く、「昔、有過氏、斟灌を殺して以て斟尋を伐ち、夏后帝相を滅す。帝相の妃后緡方に娠み、有仍に逃れて少康を生む。少康、有仍の牧正と為る。有過又少康を殺さんと欲す。少康、有虞に奔る。有虞、夏の徳を思ひ、是に於て之に妻はすに二女を以てして之を綸に邑せしむ。田一成有り、衆一旅有り。後遂に夏の衆を収め、其の官職を撫す。人をして之を誘はしめ、遂に有過氏を滅し、禹の績を復し、夏を祀りて天に配し、旧物を失はず。今、呉は有過の彊きに如かずして、句践は少康より大なり。今此に因りて之を滅さずして、又将に之を寛さんとす、亦難からずや。且つ句践は人と為り能く辛苦す。今滅さずんば、後必ず之を悔いん」と。呉王聴かず、太宰嚭に聴き、卒に越の平を許し、与に盟ひて兵を罷めて去る。七年、呉王夫差、斉の景公死して大臣寵を争ひ、新君弱しと聞き、乃ち師を興して北のかた斉を伐つ。

現代語訳

十一年、呉王は太子の夫差に楚を討たせ、番(はん)を奪った。楚は恐れて郢を捨て、鄀(じゃく)に都を移した。十五年、孔子が魯の宰相となった。十九年の夏、呉は越を討った。越王句践はこれを槜李(すいり)で迎え撃った。越は決死の兵に戦いを挑ませ、三列になって呉軍の前に進み出ると、叫んで自ら首をはねた。呉軍がそれにあっけにとられて見ている隙に、越は呉を攻め、姑蘇で呉を破り、呉王闔廬の指を傷つけ、呉軍は七里退いた。呉王はその傷がもとで死んだ。闔廬は太子の夫差を立てさせ、こう言った。「お前は句践がお前の父を殺したことを忘れるか」。夫差は答えた。「決して忘れません」。三年後、ついに越に報復した。王夫差の元年、大夫の伯嚭を太宰(宰相)とした。兵士に戦と弓を習わせ、いつも越への報復を志としていた。二年、呉王は精兵を総動員して越を討ち、夫椒(ふしょう)で越を破り、姑蘇の仇を返した。越王句践は鎧を着た兵五千人を率いて会稽山に立てこもり、大夫の種(文種)に呉の太宰伯嚭を通じて講和を申し入れさせ、国を委ねて夫婦ともに臣下・下女となりたいと願い出た。呉王はこれを許そうとした。伍子胥が諫めて言った。「昔、有過(ゆうか)氏は斟灌(しんかん)を殺して斟尋(しんじん)を討ち、夏の帝相を滅ぼした。帝相の妃の后緡(こうびん)はちょうど身ごもっていて、有仍(ゆうじょう)に逃れて少康を生んだ。少康は有仍の牧畜を管理する長となった。有過はさらに少康を殺そうとしたので、少康は有虞に逃げた。有虞は夏の徳を慕って、二人の娘を少康に嫁がせ、綸(りん)の地を与えた。田地はわずか十里四方、民衆はわずか五百人であった。その後、少康はついに夏の民衆を集め、その官職を整えた。人を送り込んで有過氏を誘い出し、ついにこれを滅ぼし、禹の功業を回復し、夏の祖先を祭って天に配し、昔のものを失わなかった。今、呉は有過ほど強くなく、句践は少康より大きな力を持っている。今この機会に越を滅ぼさずに許そうとしている。それでは後で難しいことになるのではないか。そのうえ句践は苦労に耐えることのできる人物である。今滅ぼさなければ、後で必ず後悔するだろう」。呉王は聞き入れず、太宰伯嚭の言うことを聞いて、ついに越の講和を許し、盟約を結んで兵を引き揚げた。七年、呉王夫差は、斉の景公が死んで大臣たちが寵愛を争い、新しい君主が弱いと聞き、兵を起こして北の斉を討った。

解説

呉越の宿命の対決が始まります。越王句践は決死の兵に呉軍の前で自ら首をはねさせるという奇策で呉を破り、呉王闔廬はその傷がもとで死にました。息子の夫差は「父の仇を忘れるか」との遺言に「決して忘れません」と答え、三年後に夫椒で越を破って句践を会稽山に追い詰めます。ここで句践は、太宰伯嚭を通じて臣下になるから許してほしいと講和を求めました。伍子胥は、わずか十里四方の土地から夏王朝を再興した少康の故事を引き、「苦労に耐えられる句践を今滅ぼさなければ必ず後悔する」と強く諫めます。しかし夫差は賄賂を受けた伯嚭の言葉に従い、講和を許して、関心を北の斉に向けました。とどめを刺すべき時に情けをかけ、目を別の獲物に移す判断が、後の破滅につながっていきます。

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