師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 封禅書

公卿言「皇帝始郊見太一云陽,有司奉瑄玉嘉牲薦饗。是夜有美光,及晝,黃氣上屬天」。太史公、祠官寬舒等曰:「神靈之休,祐福兆祥,宜因此地光域立太畤壇以明應。令太祝領,秋及臘閒祠。三歲天子一郊見。」其秋,為伐南越,告禱太一。以牡荊畫幡日月北斗登龍,以象太一三星,為太一鋒,命曰「靈旗」。為兵禱,則太史奉以指所伐國。而五利將軍使不敢入海,之泰山祠。上使人隨驗,實毋所見。五利妄言見其師,其方盡,多不讎。上乃誅五利。其冬,公孫卿候神河南,言見僊人跡緱氏城上,有物如雉,往來城上。天子親幸緱氏城視跡。問卿:「得毋效文成、五利乎?」卿曰:「僊者非有求人主,人主者求之。其道非少寬假,神不來。言神事,事如迂誕,積以歲乃可致也。」於是郡國各除道,繕治宮觀名山神祠所,以望幸矣。其春,既滅南越,上有嬖臣李延年以好音見。上善之,下公卿議,曰:「民閒祠尚有鼓舞樂,今郊祀而無樂,豈稱乎?」公卿曰:「古者祠天地皆有樂,而神祇可得而禮。」或曰:「太帝使素女鼓五十弦瑟,悲,帝禁不止,故破其瑟為二十五弦。」於是塞南越,禱祠太一、后土,始用樂舞,益召歌兒,作二十五弦及空侯琴瑟自此起。

新字:公卿言「皇帝始郊見太一云陽,有司奉瑄玉嘉牲薦饗。是夜有美光,及昼,黄気上属天」。太史公、祠官寛舒等曰:「神霊之休,祐福兆祥,宜因此地光域立太畤壇以明応。令太祝領,秋及臘閒祠。三歳天子一郊見。」其秋,為伐南越,告祷太一。以牡荊画幡日月北斗登竜,以象太一三星,為太一鋒,命曰「霊旗」。為兵祷,則太史奉以指所伐国。而五利将軍使不敢入海,之泰山祠。上使人随験,実毋所見。五利妄言見其師,其方尽,多不讎。上乃誅五利。其冬,公孫卿候神河南,言見僊人跡緱氏城上,有物如雉,往来城上。天子親幸緱氏城視跡。問卿:「得毋効文成、五利乎?」卿曰:「僊者非有求人主,人主者求之。其道非少寛仮,神不来。言神事,事如迂誕,積以歳乃可致也。」於是郡国各除道,繕治宮観名山神祠所,以望幸矣。其春,既滅南越,上有嬖臣李延年以好音見。上善之,下公卿議,曰:「民閒祠尚有鼓舞楽,今郊祀而無楽,豈称乎?」公卿曰:「古者祠天地皆有楽,而神祇可得而礼。」或曰:「太帝使素女鼓五十弦瑟,悲,帝禁不止,故破其瑟為二十五弦。」於是塞南越,祷祠太一、后土,始用楽舞,益召歌児,作二十五弦及空侯琴瑟自此起。

書き下し

公卿言ふ、「皇帝始めて太一を雲陽に郊見し、有司、瑄玉・嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて黄気上りて天に属す」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福の兆祥なり。宜しく此の地の光域に因りて太畤の壇を立てて以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、秋及び臘の間に祠り、三歳に天子一たび郊見せん」と。其の秋、南越を伐たんが為に、太一に告禱す。牡荊を以て幡に日月・北斗・登龍を画き、以て太一三星に象り、太一の鋒と為し、命じて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍の使、敢て海に入らず、泰山に之きて祠る。上、人をして随ひて験せしむるに、実に見る所毋し。五利妄りに其の師を見ると言ひ、其の方尽きて、多く讎はず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿、神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏の城上に見、物有りて雉の如く、城上を往来すと言ふ。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや」と。卿曰く、「僊者は人主に求むること有るに非ず、人主の者之を求む。其の道は少しく寛仮するに非ざれば、神来らず。神事を言ふは、事迂誕なるが如きも、積むに歳を以てすれば乃ち致す可きなり」と。是に於て郡国各々道を除き、宮観・名山の神祠の所を繕治し、以て幸を望む。其の春、既に南越を滅す。上に嬖臣李延年有り、好音を以て見ゆ。上之を善しとし、公卿に下して議せしめて曰く、「民間の祠すら尚ほ鼓舞の楽有り。今郊祀して楽無きは、豈に称はんや」と。公卿曰く、「古は天地を祠るに皆楽有りて、神祇得て礼す可し」と。或ひと曰く、「太帝、素女をして五十弦の瑟を鼓せしむ。悲しくして、帝禁ずるも止まず。故に其の瑟を破りて二十五弦と為す」と。是に於て南越を塞して、太一・后土に禱祠し、始めて楽舞を用ひ、益々歌児を召し、二十五弦及び空侯の琴瑟を作ること此より起る。

現代語訳

公卿たちは言った。「皇帝が初めて雲陽で太一を郊祭で拝し、役人が大きな玉と立派な犠牲を捧げて供えた。その夜には美しい光があり、昼になると黄色い気が立ちのぼって天に連なった」。太史公(司馬談)や祭祀官の寛舒らは言った。「神霊の恵みであり、幸いのめでたい兆しである。この地の光が現れた場所に太畤の祭壇を立てて、そのしるしを明らかにすべきである。太祝に管理させ、秋と臘の時期に祭り、三年に一度天子が郊祭に臨むようにしたい」。その秋、南越を討つために太一に祈って報告した。牡荊(ぼけい、にんじんぼく)の竿につけた旗に日・月・北斗・昇る龍を描いて太一の三つの星にかたどり、太一の先鋒とし、「霊旗」と名づけた。戦のために祈るときは、太史がこれを捧げ持って討つ国の方角を指した。一方、五利将軍(欒大)は海に入る勇気がなく、泰山に行って祭っていた。天子が人をつけて確かめさせると、実際には何も見ていなかった。五利将軍は師に会ったと偽り、その方術も尽きて、多くは言ったとおりにならなかった。そこで天子は五利将軍を誅殺した。その冬、公孫卿は河南で神の訪れをうかがい、緱氏(こうし)の城壁の上に仙人の足跡を見た、雉のようなものが城壁の上を行き来していたと言った。天子は自ら緱氏城に行って足跡を見た。そして公孫卿に尋ねた。「文成や五利のまねをしているのではあるまいな」。公孫卿は言った。「仙人が君主に何かを求めるのではなく、君主が仙人を求めるのだ。その道は少しゆとりをもって待たなければ、神は来ない。神のことを言うと、話は回りくどくでたらめなように聞こえるが、年月を積み重ねれば招くことができる」。そこで郡や国はそれぞれ道を整備し、宮殿や楼観、名山の神祠を修繕して、天子の行幸を待ち望んだ。その春、南越を滅ぼした。天子には寵臣の李延年がいて、音楽の才で目通りしていた。天子は彼を気に入り、公卿に議論させて言った。「民間の祭りでさえ太鼓や舞の音楽がある。今、郊祀に音楽がないのは、ふさわしいことだろうか」。公卿は言った。「古は天地を祭るのにみな音楽があり、それによって神々を礼をもって迎えることができた」。ある者は言った。「太帝が素女に五十弦の瑟(おおごと)を弾かせたところ、あまりに悲しく、帝が止めさせようとしても止まなかった。そこでその瑟を割って二十五弦にしたのだ」。こうして南越平定のお礼として太一と后土に祈り祭り、初めて音楽と舞を用い、さらに歌い手の少年を多く召し集めた。二十五弦の瑟や空侯(くご、竪琴)の類が作られたのは、これから始まった。

解説

太一の郊祀の後に現れた光を機に太畤の祭壇が立てられ、南越遠征の前には太一の星をかたどった「霊旗」が作られて、祭祀が軍事にも結びつきます。その一方で、厚遇の限りを受けた欒大は、海に入るのを恐れて泰山で祭っていただけだと確認され、誅殺されました。ところが武帝の夢は冷めず、次は公孫卿の「仙人の足跡」を見に自ら出かけます。「文成や五利のまねではないか」と念を押された公孫卿は、「ゆとりをもって待てば、年月を重ねて招ける」と答え、成果の期限を先へ先へと延ばす論法で身を守りました。郡や国は行幸を期待して道や神祠を整えます。成果が出ないことを「長期的な取り組みだから」と言い換えるのは、今も使われる論法です。期限と検証の基準を先に決めておく大切さがよく分かります。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る