史記 / 封禅書
所謂寒門者,谷口也。黃帝采首山銅,鑄鼎於荊山下。鼎既成,有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎,群臣後宮從上者七十餘人,龍乃上去。餘小臣不得上,乃悉持龍髯,龍髯拔,墮,墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天,乃抱其弓與胡髯號,故後世因名其處曰鼎湖,其弓曰烏號。』」於是天子曰:「嗟乎!吾誠得如黃帝,吾視去妻子如脫屣耳。」乃拜卿為郎,東使候神於太室。上遂郊雍,至隴西,西登崆峒,幸甘泉。令祠官寬舒等具太一祠壇,祠壇放薄忌太一壇,壇三垓。五帝壇環居其下,各如其方,黃帝西南,除八通鬼道。太一,其所用如雍一畤物,而加醴棗脯之屬,殺一貍牛以為俎豆牢具。而五帝獨有俎豆醴進。其下四方地,為醊食群神從者及北斗云。已祠,胙餘皆燎之。其牛色白,鹿居其中,彘在鹿中,水而洎之。祭日以牛,祭月以羊彘特。太一祝宰則衣紫及繡。五帝各如其色,日赤,月白。十一月辛巳朔旦冬至,昧爽,天字始郊拜太一。朝朝日,夕夕月,則揖;而見太一如雍郊禮。其贊饗曰:「天始以寶鼎神策授皇帝,朔而又朔,終而復始,皇帝敬拜見焉。」而衣上黃。其祠列火滿壇,壇旁亨炊具。有司云「祠上有光焉」。
新字:所謂寒門者,谷口也。黄帝采首山銅,鋳鼎於荊山下。鼎既成,有竜垂胡髯下迎黄帝。黄帝上騎,群臣後宮従上者七十余人,竜乃上去。余小臣不得上,乃悉持竜髯,竜髯抜,堕,堕黄帝之弓。百姓仰望黄帝既上天,乃抱其弓与胡髯号,故後世因名其処曰鼎湖,其弓曰烏号。』」於是天子曰:「嗟乎!吾誠得如黄帝,吾視去妻子如脱屣耳。」乃拝卿為郎,東使候神於太室。上遂郊雍,至隴西,西登崆峒,幸甘泉。令祠官寛舒等具太一祠壇,祠壇放薄忌太一壇,壇三垓。五帝壇環居其下,各如其方,黄帝西南,除八通鬼道。太一,其所用如雍一畤物,而加醴棗脯之属,殺一貍牛以為俎豆牢具。而五帝独有俎豆醴進。其下四方地,為醊食群神従者及北斗云。已祠,胙余皆燎之。其牛色白,鹿居其中,彘在鹿中,水而洎之。祭日以牛,祭月以羊彘特。太一祝宰則衣紫及繍。五帝各如其色,日赤,月白。十一月辛巳朔旦冬至,昧爽,天字始郊拝太一。朝朝日,夕夕月,則揖;而見太一如雍郊礼。其賛饗曰:「天始以宝鼎神策授皇帝,朔而又朔,終而復始,皇帝敬拝見焉。」而衣上黄。其祠列火満壇,壇旁亨炊具。有司云「祠上有光焉」。
書き下し
所謂寒門とは、谷口なり。黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鋳る。鼎既に成り、龍有りて胡髯を垂れて下りて黄帝を迎ふ。黄帝上りて騎り、群臣・後宮の従ひて上る者七十余人、龍乃ち上り去る。余の小臣は上るを得ず、乃ち悉く龍の髯を持つ。龍の髯抜けて堕ち、黄帝の弓を堕とす。百姓仰ぎ望み、黄帝既に天に上れば、乃ち其の弓と胡髯とを抱きて号す。故に後世因りて其の処を名づけて鼎湖と曰ひ、其の弓を烏号と曰ふ』」と。是に於て天子曰く、「嗟乎、吾誠に黄帝の如くなるを得ば、吾妻子を去るを視ること屣を脱ぐが如きのみ」と。乃ち卿を拝して郎と為し、東のかた使ひして神を太室に候はしむ。上遂に雍に郊し、隴西に至り、西のかた崆峒に登り、甘泉に幸す。祠官寛舒等に令して太一の祠壇を具へしむ。祠壇は薄忌の太一の壇に放ひ、壇は三垓。五帝の壇は環りて其の下に居り、各々其の方の如く、黄帝は西南、八通の鬼道を除く。太一は、其の用ふる所は雍の一畤の物の如くして、醴・棗・脯の属を加へ、一貍牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝には独り俎豆・醴の進むる有り。其の下の四方の地は、醊食と為して群神の従者及び北斗を祠ると云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿は其の中に居り、彘は鹿の中に在り、水にして之を洎す。日を祭るには牛を以てし、月を祭るには羊彘の特を以てす。太一の祝宰は則ち紫及び繍を衣る。五帝は各々其の色の如く、日は赤、月は白。十一月辛巳朔旦冬至、昧爽、天子始めて太一を郊拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕して、則ち揖す。而して太一を見ること雍の郊の礼の如し。其の賛饗に曰く、「天始めて宝鼎・神策を以て皇帝に授く。朔にして又朔、終りて復た始まる。皇帝敬みて拝見す」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠は列火壇に満ち、壇の旁に亨炊の具あり。有司云ふ、「祠の上に光有り」と。
現代語訳
いわゆる寒門とは、谷口のことである。黄帝は首山の銅を採って、荊山の麓で鼎を鋳た。鼎ができあがると、あごひげを垂らした龍が降りてきて黄帝を迎えた。黄帝がその背に乗ると、群臣や後宮の者で一緒に乗った者は七十人余りで、龍はそのまま昇っていった。残りの身分の低い臣下たちは乗ることができず、みな龍のひげにつかまった。すると龍のひげが抜けて落ち、黄帝の弓も落ちた。民は空を仰ぎ見て、黄帝がすでに天に昇ってしまうと、その弓と龍のひげを抱いて泣き叫んだ。それで後世、その場所を鼎湖と名づけ、その弓を烏号(うごう)と呼んだのだ』」。これを聞いて天子は言った。「ああ、私が本当に黄帝のようになれるなら、妻子を捨て去ることなど、履物を脱ぐようなものだ」。そこで公孫卿を郎に任じ、東の太室山へ遣わして神の訪れをうかがわせた。天子はそのまま雍で郊祭を行い、隴西に至り、西の崆峒山(こうどうざん)に登り、甘泉宮に行った。祭祀官の寛舒らに命じて太一の祭壇を準備させた。祭壇は謬忌の太一の壇にならい、三段に築いた。五帝の壇はその下を囲むように、それぞれの方角に配置し、黄帝の壇は西南に置き、八方に通じる神の道を開いた。太一の祭に用いる物は雍の一つの畤の供え物と同じとし、甘酒・棗・干し肉などを加え、ヤク(旄牛)を一頭殺して祭器に盛る供え物とした。五帝には祭器と甘酒だけを供えた。その下の四方の地には、神々の従者と北斗のために連ねて供え物を並べて祭ったという。祭りが終わると、供え物の残りはすべて焼いた。その牛の色は白で、鹿をその牛の腹の中に入れ、豚を鹿の腹の中に入れ、水に浸して煮た。太陽を祭るには牛を用い、月を祭るには羊か豚を一頭用いた。太一の祭祀官は紫と刺繍の衣を着た。五帝の祭祀官はそれぞれの帝の色の衣を着、太陽の祭祀官は赤、月の祭祀官は白を着た。十一月辛巳の朔の明け方の冬至、夜明け前に、天子は初めて太一を郊外で拝した。朝には太陽を拝し、夕べには月を拝して、会釈した。太一を拝する礼は雍の郊祭と同じにした。その祝詞には「天は初めて宝鼎と神策を皇帝に授けた。朔が巡ってはまた朔が巡り、終わってはまた始まる。皇帝はつつしんで拝見する」とあった。衣服は黄色を尊んだ。その祭りでは並べた火が祭壇いっぱいに燃え、壇の傍らには煮炊きの道具が置かれた。役人は「祭りの上に光があった」と言った。
解説
関連する章句
-
史記 孝武本紀卿曰く、「申功は、斉人なり。安期生と通じ、黄帝の言を受く、書無し、独り此の鼎書有り。曰く『漢興りて復た黄帝の時に当たる。漢の聖者は高祖の孫且つ曾孫に在り。宝鼎出でて神と通じ、封禅す。封禅せる七十二王、唯だ黄帝のみ泰山に上りて封ずることを得たり』と。申功曰く、『漢の主も亦当に上りて封ずべし、上りて封ずれば則ち能く僊して天に登らん。黄帝の時万諸侯、而して神霊の封は七千に居る。天下の名山八、而して三は蛮夷に在り、五は中国に在り。中国の華山・首山・太室・泰山・東萊、此の五山は黄帝の常に遊び、神と会せし所なり。黄帝且つ戦ひ且つ僊を学ぶ。百姓の其の道を非とするを患ひ、乃ち鬼神を非とする者を断斬す。百余歳にして然る後に神と通ずるを得たり。黄帝雍に上帝を郊し、宿すること三月。鬼臾区大鴻と号し、死して雍に葬る、故に鴻冢是なり。其の後黄帝万霊に明廷に接す。明廷とは、甘泉なり。所謂寒門とは、谷口なり。黄帝首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鋳る。鼎既に成り、龍の胡髯を垂れて下り黄帝を迎ふる有り。黄帝上り騎る、群臣後宮の従ひて龍に上る者七十余人、乃ち上り去る。余の小臣上るを得ず、乃ち悉く龍髯を持つ、龍髯抜け、黄帝の弓を墮す。百姓仰ぎ望む黄帝既に天に上る、乃ち其の弓と龍の胡髯とを抱きて号す。故に後世因りて其の処を名づけて鼎湖と曰ひ、其の弓を烏号と曰ふ。』と。」と。是に於て天子曰く、「嗟乎、吾誠に黄帝の如くなるを得ば、吾妻子を去ること屣を脱するが如く視るのみ。」と。乃ち卿を拝して郎と為し、東のかた太室に神を候はしむ。上遂に雍に郊し、隴西に至り、西のかた空桐に登り、甘泉に幸す。祠官寛舒等をして泰一の祠壇を具へしむ、壇は薄忌の泰一壇に放(なら)ひ、壇は三垓なり。五帝の壇は環りて其の下に居り、各々其の方の如くし、黄帝は西南にし、八通の鬼道を除く。
-
史記 封禅書其の秋、上、雍に幸し、且に郊せんとす。或ひと曰く、「五帝は太一の佐なり。宜しく太一を立てて上親ら之を郊すべし」と。上疑ひて未だ定めず。斉人公孫卿曰く、「今年宝鼎を得、其の冬辛巳朔旦冬至、黄帝の時と等し」と。卿に札書有りて曰く、「黄帝、宝鼎を宛朐に得て、鬼臾区に問ふ。鬼臾区対へて曰く、『黄帝、宝鼎・神策を得たり。是の歳、己酉朔旦冬至、天の紀を得、終りて復た始まる』と。是に於て黄帝、日を迎へ策を推し、後率ね二十歳にして復た朔旦冬至、凡そ二十推、三百八十年にして、黄帝僊して天に登る」と。卿、所忠に因りて之を奏せんと欲す。所忠、其の書の経ならざるを視、其の妄書なるを疑ひ、謝して曰く、「宝鼎の事は已に決せり、尚ほ何を以て為さん」と。卿、嬖人に因りて之を奏す。上大いに説び、乃ち卿を召して問ふ。対へて曰く、「此の書を申公に受く。申公は已に死す」と。上曰く、「申公は何人ぞや」と。卿曰く、「申公は斉人なり。安期生と通じ、黄帝の言を受く。書無く、独り此の鼎書有り。曰く『漢興りて復た黄帝の時に当る』と。曰く『漢の聖者は高祖の孫且つ曾孫に在り。宝鼎出でて神と通じ、封禅す。封禅せし七十二王、唯黄帝のみ泰山に上りて封ずるを得たり』と。申公曰く、『漢の主も亦当に上りて封ずべし。上りて封ずれば能く僊して天に登らん。黄帝の時、万諸侯ありて、神霊の封は七千に居る。天下の名山八、而して三は蛮夷に在り、五は中国に在り。中国は華山・首山・太室・泰山・東萊、此の五山は黄帝の常に游び、神と会する所なり。黄帝且つ戦ひ且つ僊を学ぶ。百姓の其の道を非とする者を患へ、乃ち鬼神を非とする者を断斬す。百余歳にして然る後に神と通ずるを得たり。黄帝、雍に上帝を郊し、宿すること三月。鬼臾区、号して大鴻と曰ひ、死して雍に葬る、故に鴻冢是れなり。其の後、黄帝、万霊を明廷に接す。明廷とは甘泉なり。
-
史記 孝武本紀今年豊廡にして未だ報有らず、鼎曷為れぞ出づるや。」と。有司皆曰く、「聞く昔大帝神鼎一を興す、一は一統なり、天地万物の系りて終はる所なり。黄帝宝鼎三を作る、天地人に象るなり。禹九牧の金を収め、九鼎を鋳る、皆嘗て上帝鬼神に鬺烹(しやうはう)す。聖に遭へば則ち興り、夏・商に遷る。周の徳衰へ、宋の社亡び、鼎乃ち淪伏して見えず。頌に云ふ『堂より基に徂き、羊より牛に徂く。鼐鼎及び鼒、虞れず驁らず、胡考の休』と。今鼎甘泉に至る、光潤龍変し、休を承くること疆り無し。茲の中山に合ひ、黄白の雲降りて蓋ふ有り、獣の符と為るが若く、路弓乗矢、壇下に集獲し、報祠大饗す。惟れ命を受けて帝たる者のみ心に其の意を知りて徳に合ふ。鼎は宜しく祖禰に見え、帝廷に蔵し、以て明応に合ふべし。」と。制して曰く、「可なり。」と。海に入りて蓬莱を求むる者、言ふ蓬莱遠からず、而して至る能はざる者は、殆ど其の気を見ざればなりと。上乃ち望気の佐を遣はして其の気を候はしむと云ふ。其の秋、上雍に幸し、且に郊せんとす。或るひと曰く「五帝は、泰一の佐なり。宜しく泰一を立てて上親ら之を郊すべし」と。上疑ひて未だ定めず。斉人公孫卿曰く、「今年宝鼎を得、其の冬辛巳朔旦冬至、黄帝の時と等し。」と。卿に札書有りて曰く、「黄帝宝鼎を宛(侯)[朐]に得、鬼臾区に問ふ。区対へて曰く、『(黄)帝宝鼎神筴を得たり、是の歳己酉朔旦冬至、天の紀を得、終はりて復た始まる。』と。是に於て黄帝日を迎へ筴を推す、後率ね二十歳にして朔旦冬至を得、凡そ二十推、三百八十年なり。黄帝僊して天に登る。」と。卿所忠に因りて之を奏せんと欲す。所忠其の書の経ならざるを視、其の妄書なるを疑ひ、謝して曰く、「宝鼎の事已に決せり、尚ほ何を以て為さん。」と。卿嬖人に因りて之を奏す。上大いに説び、召して卿に問ふ。対へて曰く、「此の書を申功に受く、申功已に死せり。」と。上曰く、「申功は何人ぞや。」と。
-
史記 封禅書天子以為へらく化して去り死せずと、而して黄錘の史寛舒をして其の方を受けしむ。蓬萊の安期生を求むるも能く得る莫く、而して海上の燕・斉の怪迂の方士、多く更々来りて神事を言ふ。亳人謬忌、太一を祠る方を奏して曰く、「天神の貴き者は太一、太一の佐を五帝と曰ふ。古は天子、春秋を以て太一を東南の郊に祭り、太牢を用ふること七日、壇を為りて八通の鬼道を開く」と。是に於て天子、太祝に令して其の祠を長安の東南郊に立て、常に奉祠すること忌の方の如くせしむ。其の後、人の上書する有り、言ふ、「古は天子三年に壱たび太牢を用ひて神の三一、天一・地一・太一を祠る」と。天子之を許し、太祝に令して之を忌の太一の壇上に領祠せしむること、其の方の如し。後人復た上書する有り、言ふ、「古は天子常に春を以て解祠し、黄帝を祠るに一梟・破鏡を用ひ、冥羊には羊を用ひて祠り、馬行には一青牡馬を用ひ、太一・沢山君・地長には牛を用ひ、武夷君には乾魚を用ひ、陰陽使者には一牛を以てす」と。祠官に令して之を領すること其の方の如くし、而して忌の太一の壇の旁に祠る。其の後、天子の苑に白鹿有り、其の皮を以て幣と為し、以て瑞応を発し、白金を造る。其の明年、雍に郊し、一角の獣を獲たり、麃の若く然り。有司曰く、「陛下粛祗して郊祀し、上帝報享して、一角の獣を錫ふ、蓋し麟なりと云ふ」と。是に於て以て五畤に薦め、畤ごとに一牛を加へて以て燎く。諸侯に白金を錫ひ、風するに符応の天に合するを以てす。是に於て済北王、以為へらく天子且に封禅せんとすと、乃ち上書して太山及び其の旁の邑を献ず。天子、他県を以て之を償ふ。常山王罪有りて遷さる。天子其の弟を真定に封じ、以て先王の祀を続がしめ、而して常山を以て郡と為す。然る後に五岳皆天子の郡に在り。其の明年、斉人少翁、鬼神の方を以て上に見ゆ。
-
史記 孝武本紀泰一の用ゐる所は、雍の一畤の物の如く、而して醴棗脯の属を加へ、一犛牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝は独り俎豆醴の進有り。其の下の四方の地は、餟食の為に群神の従者及び北斗を云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿其の中に居り、彘鹿の中に在り、水にて之を洎(ひた)す。日を祭るに牛を以てし、月を祭るに羊彘特を以てす。泰一の祝宰は則ち紫及び繡を衣る。五帝は各々其の色の如くし、日は赤、月は白。十一月辛已朔旦冬至、昧爽、天子始めて郊して泰一を拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕すれば、則ち揖す。而して泰一に見ゆること雍の礼の如くす。其の贊饗に曰く、「天始めて宝鼎神筴を以て皇帝に授く、朔にして又朔、終はりて復た始まる、皇帝敬ひて拝し焉に見ゆ。」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠火を列ねて壇に満たし、壇の旁に烹炊の具あり。有司云ふ「祠上に光有り」と。公卿言ふ「皇帝始めて泰一に雲陽に郊見す、有司瑄玉嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて、黄気上りて天に属す。」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福兆祥なり、宜しく此の地の光域に因りて泰畤の壇を立て以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、(祀)[秋]及び臘の間に祠らしめん。三歳に天子一たび郊見せん。」と。其の秋、南越を伐たんが為に、泰一に告禱し、牡荊を以て幡に日月北斗登龍を画き、以て天一三星に象り、泰一の鋒と為し、名づけて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍使ひして敢へて海に入らず、泰山に之きて祠る。上人をして微かに随ひて験せしむるに、実に見る所無し。五利妄りに其の師を見たりと言ふ、其の方尽き、多く讎(あた)らず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏城の上に見る、物有り雉の若く、城上を往来す。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや。」と。
-
史記 封禅書其の来年冬、上議して曰く、「古は先づ兵を振ひ旅を沢し、然る後に封禅す」と。乃ち遂に北のかた朔方を巡り、兵十余万を勒し、還りて黄帝の冢を橋山に祭り、兵を須如に釈く。上曰く、「吾聞く、黄帝は死せずと。今冢有るは、何ぞや」と。或ひと対へて曰く、「黄帝已に僊して天に上り、群臣其の衣冠を葬る」と。既に甘泉に至り、且に泰山に事を用ひんとするが為に、先づ太一に類祠す。宝鼎を得しより、上、公卿諸生と封禅を議す。封禅は用ふること希にして曠絶し、其の儀礼を知る莫し。而して群儒、封禅・尚書・周官・王制の望祀・射牛の事を采る。斉人丁公、年九十余、曰く、「封禅とは、不死の名に合するなり。秦の皇帝は上りて封ずるを得ず。陛下必ず上らんと欲せば、稍く上れば即ち風雨無く、遂に上りて封ぜん」と。上是に於て乃ち諸儒をして射牛を習はしめ、封禅の儀を草せしむ。数年にして、且に行はんとするに至る。天子既に公孫卿及び方士の言を聞くに、黄帝以上の封禅は、皆怪物を致して神と通ず。黄帝以上に放ひて神僊人・蓬萊の士に接し、世に高くして徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既已に封禅の事を辨明する能はず、又詩書の古文に牽拘せられて騁する能はず。上、封禅の祠器を為りて群儒に示す。群儒或いは曰く「古と同じからず」と。徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふは魯の善きに如かず」と。周霸、属りて封禅の事を図る。是に於て上、偃・霸を絀け、而して尽く諸儒を罷めて用ひず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、中岳の太室に礼登す。従官山下に在りて、「万歳」と言ふ有るが若きを聞くと云ふ。上に問へば、上は言はず。下に問へば、下は言はず。是に於て三百戸を以て太室の奉祠に封じ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る。泰山の草木、葉未だ生ぜず。乃ち人をして石を上げて之を泰山の巓に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、八神を礼祠す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る