史記 / 孝武本紀
今年豐廡未有報,鼎曷為出哉?」有司皆曰:「聞昔大帝興神鼎一,一者一統,天地萬物所系終也。黃帝作寶鼎三,象天地人也。禹收九牧之金,鑄九鼎,皆嘗鬺烹上帝鬼神。遭聖則興,遷于夏商。周德衰,宋之社亡,鼎乃淪伏而不見。頌云『自堂徂基,自羊徂牛;鼐鼎及鼒,不虞不驁,胡考之休』。今鼎至甘泉,光潤龍變,承休無疆。合茲中山,有黃白雲降蓋,若獸為符,路弓乘矢,集獲壇下,報祠大饗。惟受命而帝者心知其意而合德焉。鼎宜見於祖禰,藏於帝廷,以合明應。」制曰:「可。」入海求蓬萊者,言蓬萊不遠,而不能至者,殆不見其氣。上乃遣望氣佐侯其氣雲。其秋,上幸雍,且郊。或曰「五帝,泰一之佐也。宜立泰一而上親郊之」。上疑未定。齊人公孫卿曰:「今年得寶鼎,其冬辛巳朔旦冬至,與黃帝時等。」卿有札書曰:「黃帝得寶鼎宛朐,問於鬼臾區。區對曰:『帝得寶鼎神筴,是歲己酉朔旦冬至,得天之紀,終而復始。』於是黃帝迎日推筴,後率二十歲得朔旦冬至,凡二十推,三百八十年。黃帝僊登于天。」卿因所忠欲奏之。所忠視其書不經,疑其妄書,謝曰:「寶鼎事已決矣,尚何以為!」卿因嬖人奏之。上大說,召問卿。對曰:「受此書申功,申功已死。」上曰:「申功何人也?」
新字:今年豊廡未有報,鼎曷為出哉?」有司皆曰:「聞昔大帝興神鼎一,一者一統,天地万物所系終也。黄帝作宝鼎三,象天地人也。禹収九牧之金,鋳九鼎,皆嘗鬺烹上帝鬼神。遭聖則興,遷于夏商。周徳衰,宋之社亡,鼎乃淪伏而不見。頌云『自堂徂基,自羊徂牛;鼐鼎及鼒,不虞不驁,胡考之休』。今鼎至甘泉,光潤竜変,承休無疆。合茲中山,有黄白雲降蓋,若獣為符,路弓乗矢,集獲壇下,報祠大饗。惟受命而帝者心知其意而合徳焉。鼎宜見於祖祢,蔵於帝廷,以合明応。」制曰:「可。」入海求蓬萊者,言蓬萊不遠,而不能至者,殆不見其気。上乃遣望気佐侯其気雲。其秋,上幸雍,且郊。或曰「五帝,泰一之佐也。宜立泰一而上親郊之」。上疑未定。斉人公孫卿曰:「今年得宝鼎,其冬辛巳朔旦冬至,与黄帝時等。」卿有札書曰:「黄帝得宝鼎宛朐,問於鬼臾区。区対曰:『帝得宝鼎神筴,是歳己酉朔旦冬至,得天之紀,終而復始。』於是黄帝迎日推筴,後率二十歳得朔旦冬至,凡二十推,三百八十年。黄帝僊登于天。」卿因所忠欲奏之。所忠視其書不経,疑其妄書,謝曰:「宝鼎事已決矣,尚何以為!」卿因嬖人奏之。上大説,召問卿。対曰:「受此書申功,申功已死。」上曰:「申功何人也?」
書き下し
今年豊廡にして未だ報有らず、鼎曷為れぞ出づるや。」と。有司皆曰く、「聞く昔大帝神鼎一を興す、一は一統なり、天地万物の系りて終はる所なり。黄帝宝鼎三を作る、天地人に象るなり。禹九牧の金を収め、九鼎を鋳る、皆嘗て上帝鬼神に鬺烹(しやうはう)す。聖に遭へば則ち興り、夏・商に遷る。周の徳衰へ、宋の社亡び、鼎乃ち淪伏して見えず。頌に云ふ『堂より基に徂き、羊より牛に徂く。鼐鼎及び鼒、虞れず驁らず、胡考の休』と。今鼎甘泉に至る、光潤龍変し、休を承くること疆り無し。茲の中山に合ひ、黄白の雲降りて蓋ふ有り、獣の符と為るが若く、路弓乗矢、壇下に集獲し、報祠大饗す。惟れ命を受けて帝たる者のみ心に其の意を知りて徳に合ふ。鼎は宜しく祖禰に見え、帝廷に蔵し、以て明応に合ふべし。」と。制して曰く、「可なり。」と。海に入りて蓬莱を求むる者、言ふ蓬莱遠からず、而して至る能はざる者は、殆ど其の気を見ざればなりと。上乃ち望気の佐を遣はして其の気を候はしむと云ふ。其の秋、上雍に幸し、且に郊せんとす。或るひと曰く「五帝は、泰一の佐なり。宜しく泰一を立てて上親ら之を郊すべし」と。上疑ひて未だ定めず。斉人公孫卿曰く、「今年宝鼎を得、其の冬辛巳朔旦冬至、黄帝の時と等し。」と。卿に札書有りて曰く、「黄帝宝鼎を宛(侯)[朐]に得、鬼臾区に問ふ。区対へて曰く、『(黄)帝宝鼎神筴を得たり、是の歳己酉朔旦冬至、天の紀を得、終はりて復た始まる。』と。是に於て黄帝日を迎へ筴を推す、後率ね二十歳にして朔旦冬至を得、凡そ二十推、三百八十年なり。黄帝僊して天に登る。」と。卿所忠に因りて之を奏せんと欲す。所忠其の書の経ならざるを視、其の妄書なるを疑ひ、謝して曰く、「宝鼎の事已に決せり、尚ほ何を以て為さん。」と。卿嬖人に因りて之を奏す。上大いに説び、召して卿に問ふ。対へて曰く、「此の書を申功に受く、申功已に死せり。」と。上曰く、「申功は何人ぞや。」と。
現代語訳
(天子は続けた。)「今年は豊作だったが、まだ神に感謝の祭りをしていない。それなのに鼎はどうして現れたのか」。役人たちは皆言った。「聞くところでは、昔、泰帝(伏羲とも)は神鼎を一つ作った。一は天下統一を表し、天地万物が結びついて帰着するところである。黄帝は宝鼎を三つ作り、天・地・人にかたどった。禹は九つの州の長から金属を集めて九つの鼎を鋳造し、どれも上帝や鬼神のために供え物を煮るのに用いた。聖人に出会うと鼎は現れ、夏・殷へと受け継がれた。周の徳が衰え、宋の社(土地神の祭壇)が滅びると、鼎は沈んで姿を隠してしまった。詩経の頌に『堂から庭の基まで行き、羊から牛へと供え物を改める。大きな鼎から小さな鼎まで整え、騒がず驕らず、長寿の福を受ける』とある。いま鼎が甘泉宮に届き、光沢があって龍のように変化し、限りない福を受けている。ちょうど中山で黄色と白の雲が降りてきて覆い、獣が現れて瑞兆となり、大きな弓と四本の矢で祭壇の下にその獣を仕留め、大いに感謝の祭りを行った。天命を受けて帝となった者だけが、心でその意味を知り、その徳に合うのだ。鼎は祖先の廟にお見せし、帝の宮廷に納めて、はっきりとした天の応えにかなうようにすべきである」。主上は詔して「よろしい」と言った。海に入って蓬萊山を探している者たちは、蓬萊は遠くないのに行き着けないのは、おそらくその雲気が見えないからだと言った。そこで主上は雲気を望み見る補佐役を派遣して、その気を探らせたという。その秋、主上は雍に出かけて郊祀を行おうとした。ある者が言った。「五帝は泰一の補佐である。泰一の祭壇を立て、主上が自らそれを郊祀するべきだ」。主上は迷ってまだ決めなかった。斉の人公孫卿が言った。「今年宝鼎を得たが、今年の冬は辛巳の日が朔日(一日)で冬至に当たり、黄帝の時と同じだ」。公孫卿は木札に書いた書物を持っていて、それにはこうあった。「黄帝は宝鼎を宛朐で得て、鬼臾区に尋ねた。鬼臾区は答えた。『帝は宝鼎と神聖な暦の計算法を得られた。この年は己酉の日が朔日で冬至に当たり、天の紀(暦の根本)を得たのであり、終わってはまた始まる』。そこで黄帝は日を迎えて暦を推算し、その後およそ二十年ごとに朔日が冬至に当たる年を得て、二十回推算し、三百八十年に及んだ。黄帝は仙人となって天に昇った」。公孫卿は所忠を通じてこれを奏上しようとした。所忠はその書物がまともな典籍ではないのを見て、でたらめの書ではないかと疑い、断って言った。「宝鼎の件はもう決着した。いまさら何をしようというのか」。公孫卿は寵臣を通じて奏上した。主上は大いに喜び、公孫卿を呼んで尋ねた。公孫卿は答えた。「この書は申功から授かった。申功はもう死んでいる」。主上は言った。「申功とは何者か」。
解説
関連する章句
-
史記 封禅書其の秋、上、雍に幸し、且に郊せんとす。或ひと曰く、「五帝は太一の佐なり。宜しく太一を立てて上親ら之を郊すべし」と。上疑ひて未だ定めず。斉人公孫卿曰く、「今年宝鼎を得、其の冬辛巳朔旦冬至、黄帝の時と等し」と。卿に札書有りて曰く、「黄帝、宝鼎を宛朐に得て、鬼臾区に問ふ。鬼臾区対へて曰く、『黄帝、宝鼎・神策を得たり。是の歳、己酉朔旦冬至、天の紀を得、終りて復た始まる』と。是に於て黄帝、日を迎へ策を推し、後率ね二十歳にして復た朔旦冬至、凡そ二十推、三百八十年にして、黄帝僊して天に登る」と。卿、所忠に因りて之を奏せんと欲す。所忠、其の書の経ならざるを視、其の妄書なるを疑ひ、謝して曰く、「宝鼎の事は已に決せり、尚ほ何を以て為さん」と。卿、嬖人に因りて之を奏す。上大いに説び、乃ち卿を召して問ふ。対へて曰く、「此の書を申公に受く。申公は已に死す」と。上曰く、「申公は何人ぞや」と。卿曰く、「申公は斉人なり。安期生と通じ、黄帝の言を受く。書無く、独り此の鼎書有り。曰く『漢興りて復た黄帝の時に当る』と。曰く『漢の聖者は高祖の孫且つ曾孫に在り。宝鼎出でて神と通じ、封禅す。封禅せし七十二王、唯黄帝のみ泰山に上りて封ずるを得たり』と。申公曰く、『漢の主も亦当に上りて封ずべし。上りて封ずれば能く僊して天に登らん。黄帝の時、万諸侯ありて、神霊の封は七千に居る。天下の名山八、而して三は蛮夷に在り、五は中国に在り。中国は華山・首山・太室・泰山・東萊、此の五山は黄帝の常に游び、神と会する所なり。黄帝且つ戦ひ且つ僊を学ぶ。百姓の其の道を非とする者を患へ、乃ち鬼神を非とする者を断斬す。百余歳にして然る後に神と通ずるを得たり。黄帝、雍に上帝を郊し、宿すること三月。鬼臾区、号して大鴻と曰ひ、死して雍に葬る、故に鴻冢是れなり。其の後、黄帝、万霊を明廷に接す。明廷とは甘泉なり。
-
史記 封禅書神未だ至らずして百鬼集まる。然れども頗る能く之を使ふ。其の後、装して行を治め、東して海に入り、其の師を求むと云ふ。大、見えて数月にして、六印を佩び、貴きこと天下を震はす。而して海上の燕・斉の間、捥を搤りて自ら禁方有り、能く神僊すと言はざる莫し。其の夏六月中、汾陰の巫錦、民の為に魏脽の后土の営の旁に祠り、地の鉤の状の如きを見る。掊ちて視れば鼎を得たり。鼎、衆鼎に大いに異なり、文鏤ありて款識無し。之を怪しみ、吏に言ふ。吏、河東太守勝に告げ、勝以聞す。天子、使をして巫の鼎を得たるに姦詐無きかを験問せしめ、乃ち礼を以て祠り、鼎を迎へて甘泉に至らしめ、従行して、上之を薦む。中山に至る。曣温にして、黄雲有りて焉を蓋ふ。麃の過ぐる有り、上自ら之を射、因りて以て祭ると云ふ。長安に至り、公卿大夫皆議して宝鼎を尊ばんことを請ふ。天子曰く、「間者、河溢れ、歳数々登らず、故に后土を巡祭し、百姓の為に穀を育まんことを祈る。今歳豊廡なるも未だ報いず、鼎曷為れぞ出でたるや」と。有司皆曰く、「聞く、昔泰帝、神鼎一を興す。一は壹統、天地万物の係りて終る所なり。黄帝、宝鼎三を作り、天地人に象る。禹、九牧の金を収め、九鼎を鋳る。皆嘗て上帝鬼神に亨鬺す。聖に遭へば則ち興り、鼎は夏・商に遷る。周の徳衰へ、宋の社亡び、鼎乃ち淪没し、伏して見はれず。頌に云ふ、『堂より基に徂き、羊より牛に徂く。鼐鼎及び鼒、呉ならず驁らず、胡考の休』と。今、鼎甘泉に至り、光潤龍変し、休を承くること疆り無し。茲の中山に合して、黄白雲の降りて蓋ふ有り、獣の若きは符と為り、路弓乗矢、集ひて壇下に獲、報祠大いに享く。唯命を受けて帝たる者のみ、心に其の意を知りて徳に合す。鼎は宜しく祖禰に見はし、帝廷に蔵して、以て明応に合すべし」と。制して曰く、「可なり」と。海に入りて蓬萊を求むる者、蓬萊遠からざるも、能く至らざる者は、殆ど其の気を見ざればなりと言ふ。上乃ち望気の佐を遣はして其の気を候はしむと云ふ。
-
史記 孝武本紀卿曰く、「申功は、斉人なり。安期生と通じ、黄帝の言を受く、書無し、独り此の鼎書有り。曰く『漢興りて復た黄帝の時に当たる。漢の聖者は高祖の孫且つ曾孫に在り。宝鼎出でて神と通じ、封禅す。封禅せる七十二王、唯だ黄帝のみ泰山に上りて封ずることを得たり』と。申功曰く、『漢の主も亦当に上りて封ずべし、上りて封ずれば則ち能く僊して天に登らん。黄帝の時万諸侯、而して神霊の封は七千に居る。天下の名山八、而して三は蛮夷に在り、五は中国に在り。中国の華山・首山・太室・泰山・東萊、此の五山は黄帝の常に遊び、神と会せし所なり。黄帝且つ戦ひ且つ僊を学ぶ。百姓の其の道を非とするを患ひ、乃ち鬼神を非とする者を断斬す。百余歳にして然る後に神と通ずるを得たり。黄帝雍に上帝を郊し、宿すること三月。鬼臾区大鴻と号し、死して雍に葬る、故に鴻冢是なり。其の後黄帝万霊に明廷に接す。明廷とは、甘泉なり。所謂寒門とは、谷口なり。黄帝首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鋳る。鼎既に成り、龍の胡髯を垂れて下り黄帝を迎ふる有り。黄帝上り騎る、群臣後宮の従ひて龍に上る者七十余人、乃ち上り去る。余の小臣上るを得ず、乃ち悉く龍髯を持つ、龍髯抜け、黄帝の弓を墮す。百姓仰ぎ望む黄帝既に天に上る、乃ち其の弓と龍の胡髯とを抱きて号す。故に後世因りて其の処を名づけて鼎湖と曰ひ、其の弓を烏号と曰ふ。』と。」と。是に於て天子曰く、「嗟乎、吾誠に黄帝の如くなるを得ば、吾妻子を去ること屣を脱するが如く視るのみ。」と。乃ち卿を拝して郎と為し、東のかた太室に神を候はしむ。上遂に雍に郊し、隴西に至り、西のかた空桐に登り、甘泉に幸す。祠官寛舒等をして泰一の祠壇を具へしむ、壇は薄忌の泰一壇に放(なら)ひ、壇は三垓なり。五帝の壇は環りて其の下に居り、各々其の方の如くし、黄帝は西南にし、八通の鬼道を除く。
-
史記 封禅書所謂寒門とは、谷口なり。黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鋳る。鼎既に成り、龍有りて胡髯を垂れて下りて黄帝を迎ふ。黄帝上りて騎り、群臣・後宮の従ひて上る者七十余人、龍乃ち上り去る。余の小臣は上るを得ず、乃ち悉く龍の髯を持つ。龍の髯抜けて堕ち、黄帝の弓を堕とす。百姓仰ぎ望み、黄帝既に天に上れば、乃ち其の弓と胡髯とを抱きて号す。故に後世因りて其の処を名づけて鼎湖と曰ひ、其の弓を烏号と曰ふ』」と。是に於て天子曰く、「嗟乎、吾誠に黄帝の如くなるを得ば、吾妻子を去るを視ること屣を脱ぐが如きのみ」と。乃ち卿を拝して郎と為し、東のかた使ひして神を太室に候はしむ。上遂に雍に郊し、隴西に至り、西のかた崆峒に登り、甘泉に幸す。祠官寛舒等に令して太一の祠壇を具へしむ。祠壇は薄忌の太一の壇に放ひ、壇は三垓。五帝の壇は環りて其の下に居り、各々其の方の如く、黄帝は西南、八通の鬼道を除く。太一は、其の用ふる所は雍の一畤の物の如くして、醴・棗・脯の属を加へ、一貍牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝には独り俎豆・醴の進むる有り。其の下の四方の地は、醊食と為して群神の従者及び北斗を祠ると云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿は其の中に居り、彘は鹿の中に在り、水にして之を洎す。日を祭るには牛を以てし、月を祭るには羊彘の特を以てす。太一の祝宰は則ち紫及び繍を衣る。五帝は各々其の色の如く、日は赤、月は白。十一月辛巳朔旦冬至、昧爽、天子始めて太一を郊拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕して、則ち揖す。而して太一を見ること雍の郊の礼の如し。其の賛饗に曰く、「天始めて宝鼎・神策を以て皇帝に授く。朔にして又朔、終りて復た始まる。皇帝敬みて拝見す」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠は列火壇に満ち、壇の旁に亨炊の具あり。有司云ふ、「祠の上に光有り」と。
-
史記 孝武本紀五月、返りて甘泉に至る。有司言ふ宝鼎出づるを元鼎と為し、今年を以て元封元年と為さんと。其の秋、星有りて東井に茀す。後十余日、星有りて三能に茀す。望気の王朔言ふ、「候ふに独り其の星の出づること瓠の如く、食頃にして復た入るを見る。」と。有司言ひて曰く、「陛下漢家の封禅を建て、天其れ徳星を報ずと云ふ。」と。其の来年冬、雍の五帝に郊し、還りて、拝して泰一を祝祠す。贊饗して曰く、「徳星昭衍し、厥れ維れ休祥なり。寿星仍りて出で、淵耀光明なり。信星昭見す、皇帝敬ひて泰祝の饗を拝す。」と。其の春、公孫卿言ふ神人を東萊山に見る、「天子に見えん」と云ふが若しと。天子是に於て緱氏城に幸し、卿を拝して中大夫と為す。遂に東萊に至り、之に宿留すること数日、見る所毋し、大人の跡を見る。復た方士を遣はして神怪を求め芝薬を采らしむること千を以て数ふ。是の歳旱す。是に於て天子既に出でて名毋し、乃ち万里沙に禱り、過ぎて泰山を祠る。還りて瓠子に至り、自ら臨みて決河を塞ぎ、留まること二日、沈祠して去る。二卿をして卒を将ゐて決河を塞がしめ、河を二渠に徙し、禹の故跡に復す。是の時既に南越を滅ぼす、越人勇之乃ち言ふ「越人の俗鬼を信ず、而して其の祠は皆鬼を見る、数(しばしば)効有り。昔東甌王鬼を敬ひ、寿百六十歳に至る。後世謾怠す、故に衰秏す」と。乃ち越巫をして越祝の祠を立てしむ、台を安んじて壇無し、亦天神上帝百鬼を祠り、而して雞を以て卜す。上之を信ず、越祠の雞卜此より始めて用ゐらる。公孫卿曰く、「僊人見るべし、而して上往くこと常に遽かなり、故を以て見えず。今陛下観を為ること、緱氏城の如くし、脯棗を置かば、神人宜しく致すべし。且つ僊人は楼居を好む。」と。
-
史記 孝武本紀間者(このごろ)河皋陸に溢れ、隄繇息まず。朕天下に臨むこと二十有八年、天若し朕に士を遺りて大いに通ぜしむ。乾に『蜚龍』と称し、『鴻般に漸む』と、意ふに庶幾くは焉に与らん。其れ二千戸を以て地士将軍大を封じて楽通侯と為せ。」と。列侯の甲第、僮千人を賜ふ。乗輿の斥けし車馬帷帳器物を以て其の家に充つ。又衛長公主を以て之に妻はせ、金万斤を齎し、更めて其の邑を名づけて当利公主と曰ふ。天子親ら五利の第に如く。使者の存問して給する所、道に連属す。大主将相より以下、皆其の家に置酒し、之に献遺す。是に於て天子又玉印を刻して「天道将軍」と曰ひ、使をして羽衣を衣て、夜白茅の上に立たしめ、五利将軍も亦羽衣を衣て、白茅の上に立ちて印を受く、以て臣とせざるを示すなり。而して「天道」を佩ぶる者は、且に天子の為に天神を道(みちび)かんとするなり。是に於て五利常に夜其の家に祠り、以て神を下さんと欲す。神未だ至らずして百鬼集まる、然れども頗る能く之を使ふ。其の後装を治めて行き、東して海に入り、其の師を求むと云ふ。大見えて数月、六印を佩び、貴きこと天下を振るはす、而して海上燕斉の間、搤捥(やくわん)して自ら禁方有り、能く神僊すと言はざる莫し。其の夏六月中、汾陰の巫錦民の為に魏脽の后土の営の旁に祠る、地の鉤の状の如きを見、掊(ほ)りて視るに鼎を得たり。鼎大いに衆鼎に異なり、文鏤ありて款識毋し、之を怪しみ、吏に言ふ。吏河東の太守勝に告ぐ、勝以て聞す。天子使をして巫錦の鼎を得るに姦詐無きを験問せしめ、乃ち礼を以て祠り、鼎を迎へて甘泉に至らしめ、行に従ひて、上之を薦めんとす。中山に至る、晏温にして、黄雲有りて蓋ふ。麃過ぐる有り、上自ら之を射、因りて以て祭る云。長安に至る、公卿大夫皆議して宝鼎を尊ばんことを請ふ。天子曰く、「間者河溢れ、歳数(しばしば)登らず、故に巡りて后土を祭り、百姓の為に穀を育まんことを祈る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る