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史記 / 暦書

而新垣平以望氣見,頗言正曆服色事,貴幸,後作亂,故孝文帝廢不復問。至今上即位,招致方士,唐都分其天部,而巴落下閎運算轉曆,然後日辰之度與夏正同。乃改元,更官號,封泰山。因詔御史曰:「乃者,有司言星度之未定也,廣延宣問,以理星度,未能詹也。蓋聞昔者黃帝合而不死,名察度驗,定清濁,起五部,建氣物分數。然蓋尚矣。書缺樂弛,朕甚閔焉。朕唯未能循明也,紬績日分,率應水德之勝。今日順夏至,黃鐘為宮,林鐘為徵,太蔟為商,南呂為羽,姑洗為角。自是以後,氣復正,羽聲復清,名復正變,以至子日當冬至,則陰陽離合之道行焉。十一月甲子朔旦冬至已詹,其更以七年為太初元年。年名『焉逢攝提格』,月名『畢聚』,日得甲子,夜半朔旦冬至。」太初元年,歲名「焉逢攝提格」,月名「畢聚」,日得甲子,夜半朔旦冬至。無大餘,無小餘;無大餘,無小餘;焉逢攝提格太初元年。大餘五十四,小餘三百四十八;大餘五,小餘八;端蒙單閼二年。閏十三大餘四十八,小餘六百九十六;大餘十,小餘十六;游兆執徐三年。大餘十二,小餘六百三;大餘十五,小餘二十四;彊梧大荒落四年。大餘七,小餘十一;大餘二十一,無小餘;徒維敦牂天漢元年。

新字:而新垣平以望気見,頗言正暦服色事,貴幸,後作乱,故孝文帝廃不復問。至今上即位,招致方士,唐都分其天部,而巴落下閎運算転暦,然後日辰之度与夏正同。乃改元,更官号,封泰山。因詔御史曰:「乃者,有司言星度之未定也,広延宣問,以理星度,未能詹也。蓋聞昔者黄帝合而不死,名察度験,定清濁,起五部,建気物分数。然蓋尚矣。書欠楽弛,朕甚閔焉。朕唯未能循明也,紬績日分,率応水徳之勝。今日順夏至,黄鐘為宮,林鐘為徴,太蔟為商,南呂為羽,姑洗為角。自是以後,気復正,羽声復清,名復正変,以至子日当冬至,則陰陽離合之道行焉。十一月甲子朔旦冬至已詹,其更以七年為太初元年。年名『焉逢摂提格』,月名『畢聚』,日得甲子,夜半朔旦冬至。」太初元年,歳名「焉逢摂提格」,月名「畢聚」,日得甲子,夜半朔旦冬至。無大余,無小余;無大余,無小余;焉逢摂提格太初元年。大余五十四,小余三百四十八;大余五,小余八;端蒙単閼二年。閏十三大余四十八,小余六百九十六;大余十,小余十六;游兆執徐三年。大余十二,小余六百三;大余十五,小余二十四;彊梧大荒落四年。大余七,小余十一;大余二十一,無小余;徒維敦牂天漢元年。

書き下し

而して新垣平、望気を以て見え、頗る正暦服色の事を言ひ、貴幸せらる、後に乱を作す、故に孝文帝廃して復た問はず。今上即位するに至り、方士を招致し、唐都其の天部を分かち、而して巴の落下閎算を運らし暦を転じ、然る後に日辰の度、夏正と同じ。乃ち元を改め、官号を更め、泰山を封ず。因りて御史に詔して曰く、「乃者、有司言ふ、星度の未だ定まらざるなりと、広く延きて宣問し、以て星度を理むるも、未だ詹る能はざるなり。蓋し聞く、昔者黄帝は合して死せず、名察度験し、清濁を定め、五部を起こし、気物の分数を建つと。然れども蓋し尚し。書欠け楽弛み、朕甚だ焉を閔ふ。朕唯未だ循明する能はざるなり、日分を紬績し、率ね水徳の勝に応ず。今日夏至に順ひ、黄鐘を宮と為し、林鐘を徴と為し、太蔟を商と為し、南呂を羽と為し、姑洗を角と為す。是より以後、気復た正しく、羽声復た清く、名復た正変し、以て子の日の冬至に当たるに至れば、則ち陰陽離合の道行はれん。十一月甲子朔旦冬至已に詹る、其れ更めて七年を以て太初元年と為せ。年は『焉逢摂提格』と名づけ、月は『畢聚』と名づけ、日は甲子を得、夜半朔旦冬至なり」と。太初元年、歳は「焉逢摂提格」と名づけ、月は「畢聚」と名づけ、日は甲子を得、夜半朔旦冬至なり。大余無し、小余無し。大余無し、小余無し。焉逢摂提格、太初元年。大余は五十四、小余は三百四十八。大余は五、小余は八。端蒙単閼、二年。閏十三。大余は四十八、小余は六百九十六。大余は十、小余は十六。游兆執徐、三年。大余は十二、小余は六百三。大余は十五、小余は二十四。彊梧大荒落、四年。大余は七、小余は十一。大余は二十一、小余無し。徒維敦牂、天漢元年。

現代語訳

さて新垣平は気を望み見る術によって(文帝に)目通りし、しきりに暦を正し服の色を改める事を説いて寵愛を受けたが、後に乱を起こした。そのため孝文帝は(改暦を)取りやめ、二度と問題にしなかった。今上(武帝)が即位すると、方士を招き、唐都に天の区分を分けさせ、巴郡の落下閎に計算させて暦を推算させた。そうしてはじめて日と星の度数が夏の暦と一致した。そこで元号を改め、官職の名を改め、泰山で封禅を行った。そして御史に詔を下した。「先ごろ役人が、星の度数がまだ定まっていないと申し出た。広く人を招いて問いただし、星の度数を整えようとしたが、まだ行き着くことができなかった。聞くところによれば、昔、黄帝は(天の運行と)合致して滅びることなく、名を明らかにし度数を験し、清音と濁音を定め、五部を起こし、気と物の分数を立てたという。しかしそれははるかに昔のことである。書物は欠け音楽は廃れ、朕はこれを深く憂えている。朕はまだそれを明らかに受け継ぐことができないでいるが、日の分数を糸を紡ぐように整理し、おおむね水徳の勝ちに応じるようにした。いま夏至に従って、黄鐘を宮、林鐘を徴、太蔟を商、南呂を羽、姑洗を角とする。これより以後、気は再び正しくなり、羽の音は再び清らかになり、名は再び正しく改まり、甲子の日が冬至に当たるに至れば、陰陽の離合の道が行われるであろう。十一月甲子の朔日の明け方が冬至となることはすでに確かめられた。そこで元封七年を改めて太初元年とせよ。年の名は『焉逢摂提格』、月の名は『畢聚』とし、日は甲子を得て、夜半が朔日の明け方で冬至となる。」太初元年は、年の名を「焉逢摂提格」、月の名を「畢聚」とし、日は甲子を得て、夜半が朔日の明け方で冬至となった。十一月朔日(天正)の大余はなし、小余はなし。冬至の大余はなし、小余はなし。焉逢摂提格の年、太初元年である。十一月朔日(天正)の大余は五十四、小余は三百四十八。冬至の大余は五、小余は八。端蒙単閼の年、太初二年である。この年は閏月があり十三か月。十一月朔日(天正)の大余は四十八、小余は六百九十六。冬至の大余は十、小余は十六。游兆執徐の年、太初三年である。十一月朔日(天正)の大余は十二、小余は六百三。冬至の大余は十五、小余は二十四。彊梧大荒落の年、太初四年である。十一月朔日(天正)の大余は七、小余は十一。冬至の大余は二十一、小余はなし。徒維敦牂の年、天漢元年である。

解説

前半は、武帝の太初改暦にいたる経緯です。文帝の時は、改暦を説いた新垣平が後に乱を起こしたため話が立ち消えになりました。武帝は方士を集め、唐都に天の区分を、落下閎に計算を担わせて暦を作り直し、元封七年を太初元年と改めて、十一月甲子の朔日の夜半がちょうど冬至となる、暦の起点として理想的な日を定めました。詔の中で武帝は、古の暦法が失われたことを嘆きつつ、自らの手で天と音律を合わせたと誇っています。後半からは、いわゆる暦術甲子篇の表が始まります。各年について、十一月朔日(天正)の大余・小余と、冬至の大余・小余を並べたもので、大余は干支で数えた日、小余は一日に満たない端数を表します。太初元年はすべての余りがゼロの、まさに起点の年です。基準点をきちんと決めることが、以後のすべての計算の土台になるのです。

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