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史記 / 孝武本紀

於是上令長安則作蜚廉桂觀,甘泉則作益延壽觀,使卿持節設具而候神人,乃作通天臺,置祠具其下,將招來神僊之屬。於是甘泉更置前殿,始廣諸宮室。夏,有芝生殿防內中。天子為塞河,興通天臺,若有光雲,乃下詔曰:「甘泉防生芝九莖,赦天下,毋有復作。」其明年,伐朝鮮。夏,旱。公孫卿曰:「黃帝時封則天旱,乾封三年。」上乃下詔曰:「天旱,意乾封乎?其令天下尊祠靈星焉。」其明年,上郊雍,通回中道,巡之。春,至鳴澤,從西河歸。其明年冬,上巡南郡,至江陵而東。登禮潛之天柱山,號曰南嶽。浮江,自尋陽出樅陽,過彭蠡,祀其名山川。北至瑯邪,并海上。四月中,至奉高修封焉。初,天子封泰山,泰山東北阯古時有明堂處,處險不敞。上欲治明堂奉高旁,未曉其制度。濟南人公玊帶上黃帝時明堂圖。明堂圖中有一殿,四面無壁,以茅蓋,通水,圜宮垣為複道,上有樓,從西南入,命曰昆侖,天子從之入,以拜祠上帝焉。於是上令奉高作明堂汶上,如帶圖。及五年修封,則祠泰一、五帝於明堂上坐,令高皇帝祠坐對之。祠后土於下房,以二十太牢。天子從昆侖道入,始拜明堂如郊禮。禮畢,燎堂下。而上又上泰山,有祕祠其顛。

新字:於是上令長安則作蜚廉桂観,甘泉則作益延寿観,使卿持節設具而候神人,乃作通天台,置祠具其下,将招来神僊之属。於是甘泉更置前殿,始広諸宮室。夏,有芝生殿防内中。天子為塞河,興通天台,若有光雲,乃下詔曰:「甘泉防生芝九茎,赦天下,毋有復作。」其明年,伐朝鮮。夏,旱。公孫卿曰:「黄帝時封則天旱,乾封三年。」上乃下詔曰:「天旱,意乾封乎?其令天下尊祠霊星焉。」其明年,上郊雍,通回中道,巡之。春,至鳴沢,従西河帰。其明年冬,上巡南郡,至江陵而東。登礼潜之天柱山,号曰南嶽。浮江,自尋陽出樅陽,過彭蠡,祀其名山川。北至瑯邪,并海上。四月中,至奉高修封焉。初,天子封泰山,泰山東北阯古時有明堂処,処険不敞。上欲治明堂奉高旁,未暁其制度。済南人公玊帯上黄帝時明堂図。明堂図中有一殿,四面無壁,以茅蓋,通水,圜宮垣為複道,上有楼,従西南入,命曰昆侖,天子従之入,以拝祠上帝焉。於是上令奉高作明堂汶上,如帯図。及五年修封,則祠泰一、五帝於明堂上坐,令高皇帝祠坐対之。祠后土於下房,以二十太牢。天子従昆侖道入,始拝明堂如郊礼。礼畢,燎堂下。而上又上泰山,有秘祠其顛。

書き下し

是に於て上長安に令して則ち蜚廉桂観を作り、甘泉には則ち益延寿観を作り、卿をして節を持し具を設けて神人を候はしむ、乃ち通天台を作り、祠具を其の下に置き、将に神僊の属を招来せんとす。是に於て甘泉更めて前殿を置き、始めて諸々の宮室を広くす。夏、芝の殿防の内中に生ずる有り。天子河を塞ぎ、通天台を興すが為に、光雲有るが若し、乃ち詔を下して曰く、「甘泉の防に芝九茎を生ず、天下に赦し、復作有る毋かれ。」と。其の明年、朝鮮を伐つ。夏、旱す。公孫卿曰く、「黄帝の時封ずれば則ち天旱す、封を乾かすこと三年。」と。上乃ち詔を下して曰く、「天旱す、意ふに封を乾かすか。其れ天下をして尊んで霊星を祠らしめよ。」と。其の明年、上雍に郊し、回中の道を通じ、之を巡る。春、鳴沢に至り、西河より帰る。其の明年冬、上南郡を巡り、江陵に至りて東す。潜の天柱山に登礼し、号して南嶽と曰ふ。江に浮かび、尋陽より樅陽に出で、彭蠡を過ぎ、其の名山川を祀る。北のかた瑯邪に至り、海上に并ふ。四月中、奉高に至りて封を修む。初め、天子泰山に封ず、泰山の東北の阯に古時明堂有りし処あり、処険にして敞(ひろ)からず。上明堂を奉高の旁に治めんと欲す、未だ其の制度を暁らず。済南の人公玊帯黄帝の時の明堂の図を上る。明堂の図中に一殿有り、四面に壁無く、茅を以て蓋ひ、水を通じ、宮垣を圜らせて複道を為り、上に楼有り、西南より入る、命じて昆侖と曰ふ、天子之に従ひて入り、以て上帝を拝祠す。是に於て上奉高をして明堂を汶上に作らしむること、帯の図の如くす。五年に封を修むるに及び、則ち泰一・五帝を明堂の上坐に祠り、高皇帝の祠坐をして之に対せしむ。后土を下房に祠り、二十の太牢を以てす。天子昆侖の道より入り、始めて明堂に拝すること郊の礼の如くす。礼畢り、堂下に燎く。而して上又泰山に上り、其の顛に秘祠有り。

現代語訳

そこで主上は、長安には蜚廉観と桂観を、甘泉には益延寿観を造らせ、公孫卿に符節を持たせて供え物を並べ、神人の現れるのを待たせた。さらに通天台を造り、その下に祭具を置いて、神仙の類を招き寄せようとした。そこで甘泉宮には新たに前殿を設け、初めて多くの宮殿を広げた。夏、霊芝が宮殿の堤防の内側に生えた。天子は黄河を塞ぎ、通天台を建てたので、光る雲があったようだとして、詔を下した。「甘泉の堤防に九本の茎の霊芝が生えた。天下に大赦を行い、労役刑の者を働かせてはならない」。その翌年、朝鮮を討った。夏、ひでりがあった。公孫卿が言った。「黄帝の時代には、封の祭りを行うと天がひでりになった。封の土を乾かすのに三年かかったのだ」。主上はそこで詔を下した。「天がひでりなのは、封の土を乾かすためであろうか。天下に霊星(農業の星)を尊んで祀らせよ」。その翌年、主上は雍で郊祀を行い、回中の道を開いて巡行した。春、鳴沢に至り、西河を通って帰った。その翌年の冬、主上は南郡を巡行し、江陵まで行って東へ向かった。潜の天柱山に登って礼を行い、南嶽と名づけた。長江に船を浮かべ、尋陽から樅陽に出て、彭蠡湖を過ぎ、その地の名山や川を祀った。北へ向かって瑯邪に至り、海沿いに進んだ。四月、奉高に至って封禅の祭りを繰り返し行った。これより前、天子が泰山で封を行ったとき、泰山の東北のふもとに昔明堂があった場所があったが、地形が険しくて広くなかった。主上は奉高の近くに明堂を造りたいと思ったが、その制度が分からなかった。済南の人公玊帯が黄帝の時代の明堂の図を献上した。その図には一つの殿堂があり、四方に壁がなく、茅で屋根を葺き、周りに水をめぐらし、宮殿の垣を囲んで二階建ての通路を造り、その上に楼閣があって、西南から入るようになっていて、昆侖と名づけられていた。天子はそこから入って上帝を拝し祀るのである。そこで主上は奉高に命じて、汶水のほとりに公玊帯の図の通りに明堂を造らせた。五年(前106年)に再び封禅を行ったときには、泰一と五帝を明堂の上座に祀り、高皇帝の祭壇をそれに向かい合わせた。后土は下の部屋で祀り、二十組の最上の供え物を用いた。天子は昆侖の通路から入り、初めて明堂で郊祀と同じ礼をもって拝した。礼が終わると、堂の下で供え物を焼いた。主上はさらに泰山に登り、その頂上で秘密の祭りを行った。

解説

公孫卿の勧めで高楼や宮殿が次々に造られ、封禅が繰り返されていく段です。仙人は高楼を好むという公孫卿の言葉を受け、武帝は長安に蜚廉観・桂観、甘泉に益延寿観や通天台を建て、甘泉宮を大きく広げました。霊芝が生えれば吉兆として大赦を行い、封禅の後にひでりが起これば、公孫卿は「黄帝の時も封の土を乾かすためにひでりになった」と説明します。本来なら天の戒めと受け止めるべき災害まで、都合よく正当化されてしまうのです。後半では、黄帝の時代の図と称するものに基づいて明堂が建てられ、高祖を上帝と並べて祀る制度が整えられました。武帝は各地を巡行し、封禅を繰り返します。一つの思い込みが、巨額の建設事業と制度を次々に生み出していく過程を、司馬遷は淡々と積み上げて描いています。

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