史記 / 秦始皇本紀
丞相李斯曰:「五帝不相復,三代不相襲,各以治,非其相反,時變異也。今陛下創大業,建萬世之功,固非愚儒所知。且越言乃三代之事,何足法也?異時諸侯并爭,厚招游學。今天下已定,法令出一,百姓當家則力農工,士則學習法令辟禁。今諸生不師今而學古,以非當世,惑亂黔首。丞相臣斯昧死言:古者天下散亂,莫之能一,是以諸侯并作,語皆道古以害今,飾虛言以亂實,人善其所私學,以非上之所建立。今皇帝并有天下,別黑白而定一尊。私學而相與非法教,人聞令下,則各以其學議之,入則心非,出則巷議,夸主以為名,異取以為高,率群下以造謗。如此弗禁,則主勢降乎上,黨與成乎下。禁之便。臣請史官非秦記皆燒之。非博士官所職,天下敢有藏詩、書、百家語者,悉詣守、尉雜燒之。有敢偶語詩書者棄市。以古非今者族。吏見知不舉者與同罪。令下三十日不燒,黥為城旦。所不去者,醫藥卜筮種樹之書。若有欲學法令者,以吏為師。」制曰:「可。」三十五年,除道,道九原抵雲陽,塹山堙谷,直通之。於是始皇以為咸陽人多,先王之宮廷小,吾聞周文王都豐,武王都鎬,豐鎬之閒,帝王之都也。乃營作朝宮渭南上林苑中。
新字:丞相李斯曰:「五帝不相復,三代不相襲,各以治,非其相反,時変異也。今陛下創大業,建万世之功,固非愚儒所知。且越言乃三代之事,何足法也?異時諸侯并争,厚招游学。今天下已定,法令出一,百姓当家則力農工,士則学習法令辟禁。今諸生不師今而学古,以非当世,惑乱黔首。丞相臣斯昧死言:古者天下散乱,莫之能一,是以諸侯并作,語皆道古以害今,飾虚言以乱実,人善其所私学,以非上之所建立。今皇帝并有天下,別黒白而定一尊。私学而相与非法教,人聞令下,則各以其学議之,入則心非,出則巷議,夸主以為名,異取以為高,率群下以造謗。如此弗禁,則主勢降乎上,党与成乎下。禁之便。臣請史官非秦記皆焼之。非博士官所職,天下敢有蔵詩、書、百家語者,悉詣守、尉雑焼之。有敢偶語詩書者棄市。以古非今者族。吏見知不舉者与同罪。令下三十日不焼,黥為城旦。所不去者,医薬卜筮種樹之書。若有欲学法令者,以吏為師。」制曰:「可。」三十五年,除道,道九原抵雲陽,塹山堙谷,直通之。於是始皇以為咸陽人多,先王之宮廷小,吾聞周文王都豊,武王都鎬,豊鎬之閒,帝王之都也。乃営作朝宮渭南上林苑中。
書き下し
丞相李斯曰く、「五帝は相復せず、三代は相襲はず、各以て治む。其の相反するに非ず、時変異なればなり。今陛下大業を創め、万世の功を建つ。固より愚儒の知る所に非ず。且つ越の言は乃ち三代の事なり、何ぞ法るに足らんや。異時諸侯并び争ひ、厚く游学を招く。今天下已に定まり、法令一より出づ。百姓は家に当たりては則ち農工に力め、士は則ち法令辟禁を学習す。今諸生今を師とせずして古を学び、以て当世を非り、黔首を惑乱す。丞相臣斯昧死して言ふ。古は天下散乱し、之を能く一にする莫し。是を以て諸侯并び作り、語るに皆古を道ひて以て今を害し、虚言を飾りて以て実を乱し、人其の私学する所を善しとして、以て上の建立する所を非る。今皇帝天下を并有し、黒白を別ちて一尊を定む。私学して相与に法教を非り、人令の下るを聞けば、則ち各其の学を以て之を議し、入りては則ち心に非とし、出でては則ち巷に議し、主に夸りて以て名と為し、取を異にして以て高しと為し、群下を率ゐて以て謗りを造る。此の如くして禁ぜずんば、則ち主の勢ひ上に降り、党与下に成らん。之を禁ずるを便とす。臣請ふ、史官の秦記に非ざるものは皆之を焼かん。博士官の職とする所に非ずして、天下に敢へて詩・書・百家の語を蔵する者有らば、悉く守・尉に詣りて雑へて之を焼かしめん。敢へて詩書を偶語する者有らば棄市せん。古を以て今を非る者は族せん。吏見知して挙げざる者は与に罪を同じくせん。令下りて三十日にして焼かずんば、黥して城旦と為さん。去らざる所の者は、医薬・卜筮・種樹の書なり。若し法令を学ばんと欲する有らば、吏を以て師と為せ」と。制して曰く、「可なり」と。三十五年、道を除き、九原に道して雲陽に抵り、山を塹り谷を堙め、直ちに之に通ず。是に於て始皇以為へらく咸陽は人多く、先王の宮廷小なりと。吾聞く、周の文王は豊に都し、武王は鎬に都す、豊鎬の間は、帝王の都なりと。乃ち朝宮を渭南の上林苑中に営作す。
現代語訳
丞相の李斯は言った。「五帝はそれぞれ前代を繰り返さず、三代(夏・殷・周)もそれぞれ前代を受け継がず、それぞれのやり方で治めた。互いに逆らおうとしたのではなく、時代が変わったからである。今、陛下は大いなる事業を創始し、万世に続く功業を打ち立てた。もとより愚かな儒者どもにわかることではない。しかも淳于越の言うことは三代の昔のことで、どうして手本にする必要があろうか。かつて諸侯が並び争っていた時代には、遊説の学者を厚遇して招いた。今、天下はすでに定まり、法令は一つのところから出ている。民は家にあっては農業や工業に励み、士人は法令や禁令を学べばよい。ところが今、学者たちは今の世に学ばずに古を学び、それによって当世を非難し、民を惑わせ乱している。丞相である私、斯は死を覚悟して申し上げる。昔は天下が散り散りに乱れ、一つにまとめる者がいなかった。そのため諸侯が並び立ち、誰もが古を持ち出して今を害し、根拠のない言葉を飾り立てて実情を乱し、人々は自分が私的に学んだことを良しとして、お上の定めたことを非難した。今、皇帝は天下を併せ持ち、白黒をはっきりさせて、ただ一つの権威を定めた。それなのに私的に学んだ者たちが寄ってたかって法や教えを非難し、命令が下ったと聞けば、それぞれの学問によってあれこれ論じ、朝廷に入れば心の中で非難し、外に出れば町中で議論し、君主を非難することで名声を得ようとし、人と違う見解を取ることを高尚だとし、下々の者を率いて誹謗を作り出している。このようなことを禁じなければ、上では君主の権威が衰え、下では徒党が形成されるであろう。これを禁じるのがよい。私は次のようにしたい。史官の記録のうち秦の記録でないものはすべて焼く。博士官の職務として扱うもの以外で、天下にあえて『詩』『書』や諸子百家の書物を所蔵する者があれば、すべて郡の守・尉のもとに持参させて焼かせる。あえて『詩』『書』について語り合う者があれば、処刑して市中にさらす。古を持ち出して今を非難する者は一族皆殺しにする。役人でそれを知りながら摘発しない者は同罪とする。命令が下って三十日たっても焼かない者は、入れ墨をして城壁の築造の労役に送る。焼かずに残すのは、医薬・占い・農業の書物である。もし法令を学びたい者があれば、役人を師とせよ。」皇帝は制して言った。「よし。」三十五年、道を切り開き、九原から雲陽に至る道を通し、山を削り谷を埋めて、まっすぐにつないだ。そこで始皇帝は、咸陽は人が多く、先王の宮殿は小さいと考えた。そして「周の文王は豊に都を置き、武王は鎬に都を置いたと聞く。豊と鎬の間こそ帝王の都である」と言って、渭水の南の上林苑の中に新しい宮殿を造営した。
解説
関連する章句
-
史記 李斯列伝官廷尉に至る。二十余年、竟に天下を并せ、主を尊びて皇帝と為し、斯を以て丞相と為す。郡県の城を夷げ、其の兵刃を銷かし、復た用ひざるを示す。秦をして尺土の封無からしめ、子弟を立てて王と為さず、功臣を諸侯と為す者無く、後に戦攻の患ひ無からしむ。始皇の三十四年、咸陽宮に置酒す。博士僕射周青臣等、始皇の威徳を頌す。斉人淳于越進み諫めて曰く、「臣之を聞く、殷周の王たること千余歳、子弟功臣を封じて自ら支輔と為す。今陛下海内を有つも、而して子弟は匹夫たり。卒に田常・六卿の患ひ有らば、臣に輔弼無し。何を以て相救はんや。事古を師とせずして能く長久なる者は、聞く所に非ざるなり。今青臣等又面諛して以て陛下の過ちを重ぬ。忠臣に非ざるなり」と。始皇其の議を丞相に下す。丞相其の説を謬とし、其の辞を絀け、乃ち書を上りて曰く、「古者天下散乱し、能く相一にする莫し。是を以て諸侯並び作り、語は皆古を道ひて以て今を害し、虚言を飾りて以て実を乱し、人其の私学する所を善しとして、以て上の建立する所を非とす。今陛下天下を并有し、白黒を別ちて一尊を定む。而るに私学乃ち相与に法教の制を非とし、令の下るを聞けば、即ち各々其の私学を以て之を議し、入りては則ち心に非とし、出でては則ち巷に議し、主を非として以て名と為し、趣を異にして以て高しと為し、群下を率ゐて以て謗りを造る。此の如くにして禁ぜずんば、則ち主の勢は上に降り、党与は下に成らん。之を禁ずるは便なり。臣請ふ、諸々の文学・詩書・百家の語を有する者は、蠲除して之を去らしめん。令到りて満三十日にして去らずんば、黥して城旦と為さん。去らざる所の者は、医薬・卜筮・種樹の書なり。若し学ばんと欲する者有らば、吏を以て師と為さん」と。始皇其の議を可とし、詩書百家の語を収め去りて以て百姓を愚にし、天下をして古を以て今を非とする無からしむ。法度を明らかにし、律令を定むること、皆始皇を以て起こる。文書を同じくす。
-
史記 秦始皇本紀秦に亡矢遺鏃の費無くして、天下の諸侯已に困しむ。是に於て従散じ約解け、争ひて地を割きて秦に奉ず。秦余力有りて其の敝を制し、亡を追ひ北を逐ひ、伏尸百万、流血櫓を漂はす。利に因り便に乗じ、天下を宰割し、河山を分裂す。彊国は服を請ひ、弱国は入朝す。孝文王・荘襄王に延及し、国を享くること日浅く、国家事無し。秦王に至るに及び、六世の余烈を続ぎ、長策を振るひて宇内を御し、二周を呑みて諸侯を亡ぼし、至尊を履みて六合を制し、棰拊を執りて以て天下を鞭笞し、威は四海を振るふ。南のかた百越の地を取り、以て桂林・象郡と為す。百越の君首を俛れ頸を系け、命を下吏に委ぬ。乃ち蒙恬をして北のかた長城を築きて藩籬を守らしめ、匈奴を却くること七百余里。胡人敢へて南に下りて馬を牧さず、士敢へて弓を彎きて怨みに報いず。是に於て先王の道を廃し、百家の言を焚き、以て黔首を愚にす。名城を墮ち、豪俊を殺し、天下の兵を収めて之を咸陽に聚め、鋒を銷して鐻を鋳、以て金人十二と為し、以て黔首の民を弱む。然る後に華を斬りて城と為し、河に因りて津と為し、億丈の城に拠り、不測の谿に臨みて以て固めと為す。良将勁弩要害の処を守り、信臣精卒利兵を陳ねて誰何す。天下以て定まる。秦王の心、自ら以為へらく関中の固め、金城千里、子孫帝王万世の業なりと。秦王既に没して、余威殊俗に振るふ。陳渉は、罋牖縄枢の子、甿隷の人にして、遷徙の徒なり。才能は中人に及ばず、仲尼・墨翟の賢、陶朱・猗頓の富有るに非ず。足を行伍の間に躡み、什伯の中に倔起し、罷散の卒を率ゐ、数百の衆を将ゐて、転じて秦を攻む。木を斬りて兵と為し、竿を掲げて旗と為す。天下雲のごとく集まり響きのごとく応じ、糧を贏ひて景のごとく従ひ、山東の豪俊遂に并び起こりて秦族を亡ぼす。且つ夫れ天下は小弱に非ざるなり。雍州の地、殽函の固めは自若たり。
-
史記 秦始皇本紀始皇終始五徳の伝を推し、以為へらく周は火徳を得たり、秦周の徳に代はる、勝たざる所に従ふと。方今水徳の始めなり。年始を改め、朝賀は皆十月朔よりす。衣服・旄旌・節旗は皆黒を上ぶ。数は六を以て紀と為し、符・法冠は皆六寸、而して輿は六尺、六尺を歩と為し、六馬に乗る。河を更名して徳水と曰ひ、以て水徳の始めと為す。剛毅戾深にして、事は皆法に決し、刻削して仁恩和義毋く、然る後に五徳の数に合ふ。是に於て法を急にし、久しき者も赦さず。丞相綰等言ふ、「諸侯初めて破れ、燕・斉・荊の地遠く、為に王を置かずんば、以て之を填むる毋し。請ふ諸子を立てんことを、唯だ上幸ひに許せ」と。始皇其の議を群臣に下す。群臣皆以て便と為す。廷尉李斯議して曰く、「周の文武の封ずる所の子弟同姓甚だ衆し。然る後に属疏遠となり、相攻撃すること仇讎の如く、諸侯更相誅伐し、周の天子禁止する能はず。今海内陛下の神霊に頼りて一統し、皆郡県と為る。諸子功臣は公の賦税を以て重く之を賞賜せば、甚だ足りて制し易し。天下に異意無きは、則ち安寧の術なり。諸侯を置くは便ならず」と。始皇曰く、「天下共に戦闘の休まざるに苦しむは、侯王有るを以てなり。宗廟に頼り、天下初めて定まる。又復た国を立つるは、是れ兵を樹つるなり。而して其の寧息を求むるは、豈に難からずや。廷尉の議是なり」と。天下を分かちて以て三十六郡と為し、郡に守・尉・監を置く。民を更名して「黔首」と曰ふ。大いに酺す。天下の兵を収め、之を咸陽に聚め、銷して以て鐘鐻・金人十二と為す。重さ各千石、廷宮の中に置く。法度・衡石・丈尺を一にす。車は軌を同じくす。書は文字を同じくす。地は東は海に至りて朝鮮に暨び、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は河に拠りて塞と為し、陰山に并ひて遼東に至る。天下の豪富を咸陽に徙すこと十二万戸。諸廟及び章台・上林は皆渭南に在り。
-
史記 秦始皇本紀権勢を貪ること此の如きに至る。未だ為に僊薬を求む可からず」と。是に於て乃ち亡げ去る。始皇亡ぐるを聞き、乃ち大いに怒りて曰く、「吾前に天下の書の用に中らざる者を収めて尽く之を去る。悉く文学方術の士を召すこと甚だ衆く、以て太平を興さんと欲し、方士は練りて以て奇薬を求めんと欲す。今聞く、韓衆去りて報ぜず、徐巿等費すこと巨万を以て計ふるも、終に薬を得ず、徒だ姦利もて相告ぐること日に聞こゆと。盧生等は吾之を尊び賜ふこと甚だ厚し。今乃ち我を誹謗し、以て吾が不徳を重ぬ。諸生の咸陽に在る者、吾人をして廉問せしむるに、或いは訞言を為して以て黔首を乱す」と。是に於て御史をして悉く諸生を案問せしむ。諸生伝へて相告引し、乃ち自ら禁を犯す者四百六十余人を除き、皆之を咸陽に阬にし、天下をして之を知らしめ、以て後を懲らす。益謫を発して辺に徙す。始皇の長子扶蘇諫めて曰く、「天下初めて定まり、遠方の黔首未だ集まらず。諸生皆孔子を誦法す。今上皆法を重くして之を縄す。臣天下の安からざることを恐る。唯だ上之を察せよ」と。始皇怒り、扶蘇をして北のかた蒙恬を上郡に監せしむ。三十六年、熒惑心を守る。墜星有りて東郡に下り、地に至りて石と為る。黔首或いは其の石に刻して曰く「始皇帝死して地分かれん」と。始皇之を聞き、御史を遣はして逐問せしむるも、服する莫し。尽く石の旁らの居人を取りて之を誅し、因りて其の石を燔銷す。始皇楽しまず、博士をして僊真人の詩を為らしめ、及び行きて天下に游ぶ所、伝へて楽人に令して之を歌弦せしむ。秋、使者関東より夜華陰の平舒の道を過ぐ。人有りて璧を持ちて使者を遮りて曰く、「吾が為に滈池君に遺れ」と。因りて言ひて曰く、「今年祖龍死せん」と。使者其の故を問ふ。因りて忽ち見えず、其の璧を置きて去る。使者璧を奉じて具に以て聞す。始皇默然たること良久しくして、曰く、「山鬼は固より一歳の事を知るに過ぎざるなり」と。退きて言ひて曰く、「祖龍とは、人の先なり」と。
-
史記 秦始皇本紀恵は諸産に被び、久しく并せて来たりて田し、所に安んぜざる莫し。群臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、儀矩を垂著す。因りて韓終・侯公・石生をして僊人不死の薬を求めしむ。始皇北辺を巡り、上郡より入る。燕人盧生使ひして海に入りて還り、鬼神の事を以て、因りて録図書を奏す。曰く「秦を亡ぼす者は胡なり」と。始皇乃ち将軍蒙恬をして兵三十万人を発して北のかた胡を撃たしめ、河南の地を略取す。三十三年、諸の嘗て逋亡せし人・贅婿・賈人を発して陸梁の地を略取し、桂林・象郡・南海と為し、以て適遣して戍らしむ。西北のかた匈奴を斥逐す。楡中より河に并ひて以東、之を陰山に属し、以て三十四県と為し、河上に城きて塞と為す。又蒙恬をして河を渡りて高闕・陽山・北仮の中を取り、亭障を築きて以て戎人を逐はしむ。謫を徙して、之を初県に実たす。禁じて祠るを得ざらしむ。明星西方に出づ。三十四年、獄吏の直ならざる者を適して、長城及び南越の地を築かしむ。始皇酒を咸陽宮に置き、博士七十人前みて寿を為す。僕射周青臣進みて頌して曰く、「他時秦の地千里に過ぎず。陛下の神霊明聖に頼り、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照らす所、賓服せざる莫し。諸侯を以て郡県と為し、人人自ら安楽にして、戦争の患ひ無く、之を万世に伝ふ。上古より陛下の威徳に及ばず」と。始皇悦ぶ。博士の斉人淳于越進みて曰く、「臣聞く、殷・周の王たること千余歳、子弟功臣を封じ、自ら枝輔と為すと。今陛下海内を有つも、而も子弟匹夫と為る。卒に田常・六卿の臣有らば、輔拂無くして、何を以て相救はんや。事古を師とせずして能く長久なる者は、聞く所に非ざるなり。今青臣又面諛して以て陛下の過ちを重ぬ、忠臣に非ず」と。始皇其の議を下す。
-
説苑・反質秦の始皇既に天下を兼ねて、大いに侈靡し、位に即くこと三十五年猶お息まず、大馳道を治め、九原自り雲陽に抵り、山を塹り谷を堙めて直に之に通ず。先王の宮室の小なるを厭い、乃ち豐鎬の間、文武の處に於て、朝宮を營作す、渭南の山林苑中に前殿を作る、阿房東西五百步、南北五十丈、上は萬人を坐すべく、下は五丈の旗を建つべし、周りに閣道を為す。殿自り直ちに南山の嶺に抵りて以て闕と為し、複道を為し、阿房自り渭水を渡りて咸陽に屬し、以て天極に象り、閣道漢を絕ち、營室に抵るなり。又驪山の役を興し、三泉の底を錮め、關中の離宮三百所、關外四百所、皆鐘磐帷帳、婦女倡優有り。石闕を東海上朐山の界中に立て、以て秦の東門と為す。是に於て方士韓客侯生、齊客盧生有り、相與に謀りて曰く、「當今の時は以て居るべからず、上は刑殺を以て威と為すを樂しみ、天下罪を畏る。祿を持して敢えて盡忠せず、上は過を聞かずして日に驕り、下は懾伏して以て慢欺して容を取り、諫者用いられずして道を失うこと滋よ甚し。吾が黨久しく居らば、且に害せらる所と為らんとす。」乃ち相與に亡げ去る。始皇之を聞きて大いに怒り、曰く、「吾異日盧生を厚くし、爵を尊びて之に事えしむ、今乃ち我を誹謗す、吾諸生多く妖言を為して以て黔首を亂すと聞く。」乃ち御史をして悉く諸生を上げしむ、諸生傳えて相い告げ、法を犯す者四百六十餘人、皆之を坑にす。盧生は得ず、而して侯生後に得らる、始皇之を聞きて、召して之に見え、阿東の臺に升り、四通の街に臨み、將に數えて之を車裂かんとす。始皇侯生を望見して、大いに怒りて曰く、「老虜不良、而が主を誹謗し、迺ち敢えて復た我に見ゆるか!」侯生至りて、臺を仰ぎて言いて曰く、「臣聞く、死を知れば必ず勇なりと、陛下臣の一言を聽くを肯んぜんか?」始皇曰く、「若何をか言わんと欲する?之を言え!」侯生曰く、「臣聞く、禹誹謗の木を立つるは、以て過を知らんと欲すればなり。今陛下奢侈にして本を失い、淫泆にして末に趨き、宮室臺閣、連屬增累し、珠玉重寶、積襲して山を成し、錦繡文采、府に滿ちて餘り有り、婦女倡優、數巨萬人、鍾鼓の樂、流漫窮まり無く、酒食珍味、盤錯して前に有り、衣服輕暖、輿馬文飾、以て自ら奉ずる所、麗靡爛熳、勝げて極むべからず。黔首匱竭し、民力單盡し、尚お自ら知らず、又誹謗を急にし、嚴威もて下を克ち、下喑上聾、臣等故に去れり。臣等は臣が身を惜しまず、陛下の國の亡ぶるを惜しむのみ。聞く古の明王は、食は以て飽くに足り、衣は以て暖なるに足り、宮室は以て處るに足り、輿馬は以て行くに足る、故に上は天に棄てられず、下は黔首に棄てられず。堯は茅茨剪らず、采椽斲らず、土階三等にして、身を終うるまで樂しみし者は、俗其の文采の少なくして、質素の多きを以てなり。丹朱傲虐にして慢淫を好み、理化を修めず、遂に以て升らず。今陛下の淫、丹朱に萬し昆吾桀紂に十す、臣陛下の十亡を恐る、而して曾て一存だにせず。」始皇默然として之を久しくし、曰く、「汝何ぞ早く言わざる?」侯生曰く、「陛下の意、方に青雲に乘りて文章の觀に飄搖し、自ら賢とし自ら健とし、上五帝を侮り、下三王を凌ぎ、素樸を棄て、末技に就く、陛下の亡徵見えて久し。臣等言うも益無きを恐れ、而して自ら死を取る、故に逃れて敢えて言わず。今臣必ず死す、故に陛下の為に之を陳ぶ、陛下をして亡びざらしむる能わずと雖も、陛下自ら知らしめんと欲す。」始皇曰く、「吾以て變ずべきか?」侯生曰く、「形已に成れり、陛下坐して亡を待つのみ!若し陛下之を更めんと欲せば、能く堯と禹との如くならんか?然らずんば冀む無し。陛下の佐も又非なり、臣陛下の之を變ずるも存する能わざるを恐る。」始皇喟然として歎じ、遂に釋きて誅せず。後三年始皇崩ず、二世位に即き、三年にして秦亡ぶ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る