士道要論 / 士道・実学に志す心と外国の風をまねる弊
加藤主計頭のみなり、そのころのことゆへひろく學ばれしにはあらねど、きゝしるところをふみ行はれしこと今の學者にはるかにまさるべし、烈祖成績に二將の事を論じて文運のひらかんずる兆なりといへり、さもありなん、されば、士たるものゝ、學は、近くは、東照宮の遺法により、遠くは、大鷦鷯の帝(仁德天皇)菟道の稚郎子の皇子のごとく實學に志すべし、中昔の御代にては、天智の帝、鎌足、道眞、の大臣などこそは實學の功もあり玉ひけれど、その餘は君臣ともに、ひたふるに隋唐華靡の風をしたひたまひて、衣冠官制さへ唐風になづらひ、禮樂文物はうるはしけれど、虚文のみにて眞の聖人の道を行ひたまへる人々は見えず、これ櫝を買て玉を還すといふ譬のごとくにていひ甲斐なし、誠に聖人の道を學たまはんとならば經典にて事たりぬべし、遣唐使などたて玉ふには及ぶまじ、いたづらに、外國末世の弊風を學びて、皇國醇朴の風を失ひ、そのうへ仁柔なる佛法をむねとして、王法をみだりたまひしかば、文弱の風に流れて王室の衰とはなりぬ、學問はもと唐の風をまねぶにあらず、もろこしの道を學ぶなり、
新字:加藤主計頭のみなり、そのころのことゆへひろく学ばれしにはあらねど、きゝしるところをふみ行はれしこと今の学者にはるかにまさるべし、烈祖成績に二将の事を論じて文運のひらかんずる兆なりといへり、さもありなん、されば、士たるものゝ、学は、近くは、東照宮の遺法により、遠くは、大鷦鷯の帝(仁徳天皇)菟道の稚郎子の皇子のごとく実学に志すべし、中昔の御代にては、天智の帝、鎌足、道真、の大臣などこそは実学の功もあり玉ひけれど、その余は君臣ともに、ひたふるに隋唐華靡の風をしたひたまひて、衣冠官制さへ唐風になづらひ、礼楽文物はうるはしけれど、虚文のみにて真の聖人の道を行ひたまへる人々は見えず、これ櫝を買て玉を還すといふ譬のごとくにていひ甲斐なし、誠に聖人の道を学たまはんとならば経典にて事たりぬべし、遣唐使などたて玉ふには及ぶまじ、いたづらに、外国末世の弊風を学びて、皇国醇朴の風を失ひ、そのうへ仁柔なる仏法をむねとして、王法をみだりたまひしかば、文弱の風に流れて王室の衰とはなりぬ、学問はもと唐の風をまねぶにあらず、もろこしの道を学ぶなり、
書き下し
加藤主計頭のみなり、そのころのことゆへひろく學ばれしにはあらねど、きゝしるところをふみ行はれしこと今の學者にはるかにまさるべし、烈祖成績に二將の事を論じて文運のひらかんずる兆なりといへり、さもありなん、されば、士たるものゝ、學は、近くは、東照宮の遺法により、遠くは、大鷦鷯の帝(仁德天皇)菟道の稚郎子の皇子のごとく實學に志すべし、中昔の御代にては、天智の帝、鎌足、道眞、の大臣などこそは實學の功もあり玉ひけれど、その餘は君臣ともに、ひたふるに隋唐華靡の風をしたひたまひて、衣冠官制さへ唐風になづらひ、禮樂文物はうるはしけれど、虚文のみにて眞の聖人の道を行ひたまへる人々は見えず、これ櫝を買て玉を還すといふ譬のごとくにていひ甲斐なし、誠に聖人の道を學たまはんとならば經典にて事たりぬべし、遣唐使などたて玉ふには及ぶまじ、いたづらに、外國末世の弊風を學びて、皇國醇朴の風を失ひ、そのうへ仁柔なる佛法をむねとして、王法をみだりたまひしかば、文弱の風に流れて王室の衰とはなりぬ、學問はもと唐の風をまねぶにあらず、もろこしの道を學ぶなり、
現代語訳
加藤主計頭(清正)だけです。その頃のことなので広く学ばれたわけではありませんが、聞き知ったところを踏み行われたことは、今の学者にはるかに勝るでしょう。『烈祖成績』は二将のことを論じて、文運が開こうとする兆しだと言っています。そうでしょう。だから士たる者の学は、近くは東照宮の遺法により、遠くは大鷦鷯の帝(仁徳天皇)や菟道稚郎子の皇子のように実学に志すべきです。中昔の御代では、天智の帝、鎌足、道真の大臣などは実学の功もおありでしたが、その他は君臣ともにひたすら隋・唐の華美な風を慕われ、衣冠・官制まで唐風になぞらえ、礼楽・文物は麗しいものの、虚飾の文ばかりで、真の聖人の道を行われた人々は見えません。これは「櫝を買って玉を還す」という譬えのようで、言っても仕方がありません。本当に聖人の道をお学びになろうとするなら経典で事足りたはずで、遣唐使などをお立てになるには及ばなかったでしょう。むやみに外国の末世の悪い風を学んで、皇国の醇朴な風を失い、そのうえ仁柔な仏法を第一として王法を乱されたので、文弱の風に流れて王室の衰えとなりました。学問はもともと唐の風を真似ることではなく、もろこし(中国)の道を学ぶことです。
解説
この章句が説くこと
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