士道要論 / 士心・民の労苦に報いる心と心の学
いつも百姓の力を勞して人をやしなへるに及ざるをいましめたり、恥かしきことならずや、おのれある時、兩三士と野外にいでゝ、あそびしに、折ふし秋のすゑつかたにて、百姓どもいそがしく稻をとりこみてありければ、同行の人にむかひていひけるは、おのおのもろともに、百石二百石の祿賜りてやすく世をわたり、かくあそびありくことは、上は君の御恩をいだゞき、下は百姓のかくはたらくゆへならずや、あのとほり、妻子もろとも晝夜のさかひもなくはたらくもの十家二十家ならでは、わがともがら一家をやしなふこと能はず、しかるにうか〱と日をくらして職分を怠らば、天罰を蒙るべしといひしことありき、されば、士たるもの勞心なくてかなはざることなり、かつさしいづることはよからねど、程子も命士以上のもの物を愛するをもて心とせよといひて、士たるものゝかぎりは、この勞心ありてこそ眞の士といふべけれ、それ己を治るも心なり、人を治るもこゝろなり、物を愛するも心なり、その餘の百事心にあづからぬもなければ、こゝろの學なくばかなふまじ、心の學といはゞ、禪學のごとく思はめど、禪學は山林枯槁の人のまなぶ道にて、
新字:いつも百姓の力を労して人をやしなへるに及ざるをいましめたり、恥かしきことならずや、おのれある時、両三士と野外にいでゝ、あそびしに、折ふし秋のすゑつかたにて、百姓どもいそがしく稲をとりこみてありければ、同行の人にむかひていひけるは、おのおのもろともに、百石二百石の禄賜りてやすく世をわたり、かくあそびありくことは、上は君の御恩をいだゞき、下は百姓のかくはたらくゆへならずや、あのとほり、妻子もろとも昼夜のさかひもなくはたらくもの十家二十家ならでは、わがともがら一家をやしなふこと能はず、しかるにうか〱と日をくらして職分を怠らば、天罰を蒙るべしといひしことありき、されば、士たるもの労心なくてかなはざることなり、かつさしいづることはよからねど、程子も命士以上のもの物を愛するをもて心とせよといひて、士たるものゝかぎりは、この労心ありてこそ真の士といふべけれ、それ己を治るも心なり、人を治るもこゝろなり、物を愛するも心なり、その余の百事心にあづからぬもなければ、こゝろの学なくばかなふまじ、心の学といはゞ、禅学のごとく思はめど、禅学は山林枯槁の人のまなぶ道にて、
書き下し
いつも百姓の力を勞して人をやしなへるに及ざるをいましめたり、恥かしきことならずや、おのれある時、兩三士と野外にいでゝ、あそびしに、折ふし秋のすゑつかたにて、百姓どもいそがしく稻をとりこみてありければ、同行の人にむかひていひけるは、おのおのもろともに、百石二百石の祿賜りてやすく世をわたり、かくあそびありくことは、上は君の御恩をいだゞき、下は百姓のかくはたらくゆへならずや、あのとほり、妻子もろとも晝夜のさかひもなくはたらくもの十家二十家ならでは、わがともがら一家をやしなふこと能はず、しかるにうか〱と日をくらして職分を怠らば、天罰を蒙るべしといひしことありき、されば、士たるもの勞心なくてかなはざることなり、かつさしいづることはよからねど、程子も命士以上のもの物を愛するをもて心とせよといひて、士たるものゝかぎりは、この勞心ありてこそ眞の士といふべけれ、それ己を治るも心なり、人を治るもこゝろなり、物を愛するも心なり、その餘の百事心にあづからぬもなければ、こゝろの學なくばかなふまじ、心の學といはゞ、禪學のごとく思はめど、禪學は山林枯槁の人のまなぶ道にて、
現代語訳
いつも百姓が力を労して人を養っていることには及ばない、と戒めています。恥ずかしいことではありませんか。私はあるとき、二、三人の士と野外に出て遊んだことがありました。折しも秋の終わりごろで、百姓たちが忙しく稲を取り入れていたので、同行の人に向かって言いました。「私たちがそろって百石、二百石の禄を賜って安らかに世を渡り、こうして遊び歩いていられるのは、上は主君の御恩をいただき、下は百姓がこのように働くからではないでしょうか。あのとおり、妻子ともども昼夜の区別なく働く者が十軒、二十軒でなくては、われわれ一家を養うことはできません。それなのにうかうかと日を暮らして職分を怠るなら、天罰を受けるでしょう」と言ったことがありました。ですから士たる者は、労心がなくてはなりません。そのうえ、出しゃばることはよくないけれども、程子も「命士以上の者は物を愛するのをもって心とせよ」と言って、士たる者はみなこの労心があってこそ本当の士と言えるのです。そもそも己を治めるのも心、人を治めるのも心、物を愛するのも心です。その他の百事で心に関わらないものはないので、心の学がなくてはなりません。心の学というと、禅学のように思うかもしれませんが、禅学は山林で枯れ果てた人が学ぶ道であって、
解説
この章句が説くこと
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『士道要論』・士心・恒心と労心、士に求められる務めとありて、死生の際にのぞんでも貧苦艱難の場に居てもうごかざるこゝろなり、勞心とは、孟子に或勞心。或勞力。勞力者食人。勞心者食於人。食於人者治人。食人者治於人。とありて、民をふびんに思ひてきづかふこゝろなり、されば、恒心は士の節操なり、勞心は士の經濟なり、たゞし經濟は民人社稷を司どるものゝ、行ふべきことにて、其職ならでさし出るはいかにと疑ふべけれど、左にあらず、おほよそ、士たるものは四民の首に居て、耕やさずして食ひ、織らずして衣るものなれば、などか耕し織るものゝ、勞にむくゆるの術なかるべけんや、されど、孟子に窮獨善其身。達兼善天下。とありて、同じ士にも窮達のたがひあれば、其時によりて行ひのたがひもあるべし、その位にあらでその政をはかるは、孔子もいましめたまひてさし出ることはよからず、されど、天下を兼ね善くする術も常に心得おかではにはかに行ふことはかなふまじければ、古へをかうがへ道をまなび、文武に達し置べし、これみな天下をよくする術にて、窮達たがひはあるまじ、呂東萊の官箴に、勞心不如勞力とありて、士の心を勞して職分をつくすこと、
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『士道要論』・士心・外へ走る学問と心を正す学問心をとりきめたりとも人倫の道に遠ければこゝにいへるすぢとは大にたがへり、されど、後世の學、あるいは禮樂文章をもて學とし、或博覽强記をもて學とし、或訓詁考據をもて學とす、これらも學のかたはしなれど、もぱら是をもて學とせば、外に馳するの弊ありて、己を治め人を治るの本だてとは成がたかるべし、いまこれらの學にむかへていへれば、心の學とはいふなり、もとより禪學とはちがひ、又陸象山、王陽明などのいへるすぢともたがへり、近世一種の心學といへるものあり、愚夫愚婦のためには手近きをしへといふべけれど、士大夫の學には柔和すぎてよからず、こゝにいへる心の學は前後の論をみてしるべし、とにもかくにも、心よりよからずば何でもよきことはあらじ、孔孟の學も心をはなれていづくよりかいできたらんや、ゆへに孟子に、學問之道無他。求其放心而已矣。とあり、眞の學問といはゞ、心を正し意を誠にするより外はあるまじ、しかわあれど、目あてなくていたづらに心のみをもとめなば禪學ともなるべし、邪術ともなるべし、されば、私心をもとむべからずして、道心をこそもとむべけれ、
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『士道要論』・士心・心の源を澄ませる志と治己治人氣節すでに立てば善士といふべし、されど、氣節の源は心にいづれば、其源をさらへてこそその流れも淸かるべけれ、人の身は、四支百體そなはりておの〱その慾あり、心のたしかならずば氣節もたちがたかるべし、故に心は方寸のうちにありといへども、一身の主宰たれば、心をはなれてなしかはもつてよかるべき、まづ士のこゝろはいかにすべきといはゞ、道にこゝろざすをもてよしとす、ゆへに論語に士志於道の語あり、さて志の字はもと士心の二字をあはせたる文字なれば、士たるものゝ、心には、志なくてかなはぬことなり、また志とさへいへば道に志すより外なし、道にこゝろざゝば己を治め人を治めて、かしこきよりかしこからんと思ふべし、孔子の子路の君子をとへるにこたえて、脩己以敬。脩己以安人。とのたまへり、これ己を治め人を治むることなり、宋の周子の語に士希賢。々希聖。々希天。といへり、これかしこきよりかしこからんとするなり、かく士たるもの己を治め人を治むる志をたもつには、恒心あり、勞心あり、恒心とは、孟子に無恒產而有恒心者。惟士而已矣。
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『士道要論』・士道・人の心に備わる道心を明らかにする士たるもの己を治め人を治るには、まづ心を治むべけれど、私心にてはよからず、道心にこそあるべけれ、道心はみな人々の心にそなはるものにて、即性なり、性はたれもあしきものなく皆よしといへど、かの人欲のわたくしに蔽はれてくらみたるものぞ多き、そのうちには、よきといふ人はくらからぬものもあれど、此に明かなれば彼にくらくして、大空のくまなくはれわたりたるごとき人は聖人の外にはあらず、されば、聖人のみは道心全く明らかにおはしまして、その行ひ玉ひしことも、語りたまひしことも、即道となりて、世々の人のまもるべきをしへとはなれり、聖人の道とても人々の心になきことにはあらず、但偏僻と全體とのたがひあるのみ、凡人の私心偏見より見ては、おりには迂濶なることのやうに思ふをしへもあるべけれど、これはおのれがいたらぬところと思ひて、あつく聖人を信じてその道をかうがへあきらめ、今日人倫の上に及して、義の至當をもとむるこそ實の學問といふべけれ、眞の士道も、たゞこの道によりてこそ行ふべけれ、近世武辨の家にも、おのづから武士道といへる事ありき、
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『武人訓抄録』・士が人の長である理由一今來の俗士、すべて誤りおもふ旨あり、士人は農工商の長者となりて、三民の爲に養はれ、敬るゝ事、古今の通例なり、異なる所以あるにはあらずと、是誰が敎ぞや、をよそ士の人倫に長たる所以は、仁義忠信をもて己を脩め、愛威賞罰をもて人を治る職なるが故なり、孟子曰、勞心者治人、勞力者治於人、治於人者食人、治人者食於人、天下之通義也と、然れば則、士夫としては脩己治人服衆威敵の道、夙夜に怠らず心を勞すべき事也、頃刻も此に離るゝ時は、人長とはいふべからず、止戈の家に生れたらん者は、騎竹の童子といへども、まづ此旨を辨知すべし、剏て武備の學に志を歸する人におゐてをや、吾門の學者、苟も其過失あらば、すみやかに改め、愼んで其職分を守らるべし、しからずんば神武の學徒とは爲べからず、
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