洗心洞箚記 / 卷下・第百三條
明早天晴、登天台山、盡四明之最高、而俯視東北、則乃湖也、疇昔所經歷之至險、皆入眼中、風浪靜而遠邇朗、實一大圓鏡也、漁舟點點如黶子、帆檣數千、東去西來、易乎平地、似無可危懼者焉、於是門生謂余曰、昨憂悔危懼抑夢乎、亦天譴吾師乎、余曰、否、非夢而眞境也、非天譴而金玉我也、何者非逢其變、則焉窺得眞良知眞誠敬哉、又焉得眞對伊川陽明兩先生哉、故曰、眞境而非夢也、金玉我而非天譴也、然則福而非禍也、賢輩亦毋徒追思憂悔危懼之事而可也、無益于身心也、且賢輩盍復視夫城邑乎、其亦在杖屨底、如蜂窩蟻垤者、富貴貧賤所同棲也、故我則却得小魯之興、心廣而身裕、眼豁而脚輕、賢輩亦宜共同是興味焉、
新字:明早天晴、登天台山、尽四明之最高、而俯視東北、則乃湖也、疇昔所経歴之至険、皆入眼中、風浪静而遠邇朗、実一大円鏡也、漁舟点点如黶子、帆檣数千、東去西来、易乎平地、似無可危懼者焉、於是門生謂余曰、昨憂悔危懼抑夢乎、亦天譴吾師乎、余曰、否、非夢而真境也、非天譴而金玉我也、何者非逢其変、則焉窺得真良知真誠敬哉、又焉得真対伊川陽明両先生哉、故曰、真境而非夢也、金玉我而非天譴也、然則福而非禍也、賢輩亦毋徒追思憂悔危懼之事而可也、無益于身心也、且賢輩盍復視夫城邑乎、其亦在杖屨底、如蜂窩蟻垤者、富貴貧賤所同棲也、故我則却得小魯之興、心広而身裕、眼豁而脚軽、賢輩亦宜共同是興味焉、
書き下し
明早天晴る。天台山に登り、四明の最高を尽くして、東北を俯視すれば、則ち乃ち湖なり。疇昔経歴する所の至険、皆眼中に入る。風浪静かにして遠邇朗らかなり、実に一大円鏡なり。漁舟点点として黶子の如く、帆檣数千、東に去り西に来たり、平地よりも易く、危懼すべき者無きに似たり。是に於て門生余に謂ひて曰く、昨の憂悔危懼は抑々夢か、亦た天吾が師を譴むるか、と。余曰く、否、夢に非ずして真境なり、天譴に非ずして我を金玉にするなり。何となれば其の変に逢ふに非ざれば、則ち焉んぞ真の良知真の誠敬を窺ひ得んや、又焉んぞ真に伊川陽明両先生に対するを得んや。故に曰く、真境にして夢に非ざるなり、我を金玉にして天譴に非ざるなり。然らば則ち福にして禍に非ざるなり。賢輩も亦た徒に憂悔危懼の事を追思すること毋くして可なり、身心に益無きなり。且つ賢輩盍ぞ復た夫の城邑を視ざる。其れ亦た杖屨の底に在りて、蜂窩蟻垤の如き者、富貴貧賤の同じく棲む所なり。故に我は則ち却って小魯の興を得て、心広く身裕かに、眼豁けて脚軽し。賢輩も亦た宜しく共に是の興味を同じうすべし、と。
現代語訳
翌朝は晴れた。天台山(比叡山)に登り、四明(四明ヶ岳)の頂上まで行って東北を見下ろすと、そこは湖である。昨日通った最も険しい所が、みな目の中に入る。風も波も静かで遠近ともに明るく、まことに一つの大きな丸い鏡のようであった。漁舟は点々と黶子(ほくろ)のように散らばり、数千の帆柱が東へ去り西へ来て、平地よりもたやすく行き交い、危ぶみ恐れるものなど何もないかのようである。そこで門生が私に言った。「昨日の憂い悔い危ぶみ恐れは、いったい夢だったのでしょうか。それとも天が先生をとがめたのでしょうか」。私は言った。「いや、夢ではなく真の境地であり、天のとがめではなく私を金玉のように磨いてくれたのだ。なぜなら、その変事に出会わなければ、どうして本当の良知、本当の誠敬をうかがい得ようか。またどうして本当に伊川・陽明の両先生に向き合うことができようか。だから、真の境地であって夢ではない、私を金玉にしたのであって天のとがめではない、と言うのだ。そうであれば、これは福であって禍ではない。君たちも、いたずらに憂悔危懼のことを思い返さないのがよい。身心に益がないからだ。それに君たちは、あの町々をもう一度見てごらん。杖と履物の下にあって、蜂の巣や蟻塚のようなところに、富める者も貴い者も貧しい者も賤しい者も一緒に住んでいる。だから私はかえって、孔子が東山に登って魯を小さく見たという興趣を得て、心は広く身はゆったりし、目は開け脚は軽い。君たちもこの興趣を共にするがよい」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷下・第百三條是に於て又詩を賦す。詩に曰く、四明独り湖東を尽くすのみならず、西のかた洛城を眺むれば眼界空し。人家十万塵喧絶え、只だ聴く一禽の冷風に歌ふを、と(最高は夏と雖も気秋末の如し)。胸中益々灑灑然として、一点の渣滓無きを覚ゆ。因りて謂ふ、吾が輩纔かに其の境に即きて、良知を呼び起こし、誠敬を存すれば、猶且つ至険を忘れ了り、而して嶽に登りて再び万死の処を顧みると雖も、心寒え股慄せず、而して湛湛悠悠として、却って聖人と同じきの興を心得たり。而るを況んや伊川先生の如き、昼夜に通じ、語黙を徹して、誠敬を存すれば、則ち其の謂ふ「堯舜の事と雖も、只だ是れ太虚中の一点の浮雲の日を過ぐるが如し」とは、実見にして虚論に非ざること、断じて知るべし。因りて適々先生の涪州の水厄を記し、遂に又余が湖上の事に及ぶ。此れ比べて参へ言ふに非ざるなり。只だ人をして良知を致すは即ち是れ誠敬を為すことにして、誠敬を存すれば則ち良知照照然として日月の如く、初めより二致無きことを知らしめんと欲するのみ。故に詳らかに述べて以て同志に告ぐ。従ふ所の門人は、白履、松誠之なり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三條門生家僮、既に悪酒に酔ふが如く、頭痛み眼眩み、其の心覆溺を慮る者の如し。予と雖も実に以て死せりと為す。故に憂悔危懼の念を起こさざるを得ず。是の時忽ち藤樹書院に於て作りし「人の此の知を致す無し」の句を憶ひ、心口相語りて曰く、此れ即ち其の良知を致さざるの人を責むるなり。而るに我は則ち憂悔危懼の念を起こす。若し自ら之を責めざれば、則ち躬を待つこと薄くして、人を責むること却って厚し、恕に非ざるなり。平生学ぶ所将た何くに在る、と。直ちに良知を呼び起こせば、則ち伊川先生の誠敬を存するの言も、亦た一時に并せ起こり来たる。因りて其の飄動の中に堅坐し、乃ち伊川陽明二先生に対するが如く、主一無適、我の我たるを忘る。何ぞ況んや狂瀾逆浪敢へて予が心に挂からんや。故に憂悔危懼の念、湯の雪に赴くが如く、立ちどころに消滅して痕無し。此より凝然として動かず、而して颶風も亦た自ら止み、桑風依然として舟を送り、終に坂本の西岸に著く。此れ豈に天に非ずや。時に夜既に二更なり。門生家僮皆回生の恩と為し、以て互ひに恙無きを賀し、遂に坂本に宿す。
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言志四録・言志後録 第二百五十一条 夢は我が心の象一善念萌す時は、其の夜必ず安眠して夢無し。夢有れば則ち或いは正人を見、或いは君父を見、或いは吉慶の事に値ふ。周官の正夢・喜夢の類の如し。又一妄念起る時は、其の夜必ず安眠せず、夢も亦雑夢多く、恍惚として変幻す。或いは小人を見、或いは婦女を見、或いは危難の事に値ふ。周官の畸夢・懼夢の類の如し。醒めて後自ら思察するに及べば、夢中に見る所の正人君父は、即ち我が心なり。吉慶の事も、即ち我が心なり。皆善念の結ぶ所の象なり。又其の見る所の小人婦女も、亦即ち我が心なり。危難の事も、亦即ち我が心なり。皆妄念の結ぶ所の象なり。蓋し一念の善妄の夢寐に形はるるなり。自ら反みざる可けんや。死生は昼夜の道なり。仏氏の地獄天堂の権教を設くるも、亦恐らくは心の真妄を説くならん。此の夢覚と相彷彿たること無きを得んや。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十六條陽明語録に曰く、一友侍す、眉間に憂思有り。先生顧みて他友に謂ひて曰く、良知は固より天に徹し地に徹し、近くは一身に徹す。人一身爽からずんば、許大の事を須ひず、第だ頭上一髪下垂すれば、渾身即ち快からずと為す。此の中那ぞ一物を容れ得んや、と。先生又曰く、其の良知の説に于けるは、百死千難の中より得来たる。是れ容易に見得て此に到るに非ず。此れ本と是れ学者究竟の話頭なり。已むを得ずして人の与に一口に説き尽くす。但だ恐る、学者之を得ること容易にして、只だ一種の光景と做して玩弄し、此の知に孤負せんことを、と。謹んで按ずるに、先生の良知は、易きが如くして難く、難きが如くして亦易し。前の一条を以て之を見れば、則ち光景に庶し、故に易きが如し。然れども一点も心に存せざるに至るは、則ち実に難し。王龍渓・王心斎及び羅近渓三先生の学は、蓋し此よりして入る。後の一条を以て之を見れば、則ち実践より来たる、故に難し。然れども難に甘んじ死を忘るれば、則ち事事妨礙有る無し。易きに非ずや。銭緒山・南瑞泉及び羅念菴三先生の学は、蓋し此よりして入る。其の末学各々弊無きにあらずと雖も、要するに其の性の近きより入りて、学脈を握り、教へを立て功を立つ。豈に先生の余沢に非ずや。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十五條是の故に吾先づ其の天を生じ地を生ずる等の説を略し、只だ右の三条を提げて、以て子弟に告げて曰く、慾海に陥溺し、頑劣不霊なること市儈の如しと雖も、其の争ふに当たりてや、猶ほ心を欺くと曰ひ、天理無しと曰ふ。則ち良知照照然として見るべし。其の人を責めて己を責めざるは、特に利欲之を障ふるのみ。先生其の闘争中の良心を拈じて、以て反つて講学の諸君子を喚醒し、而して又字を以て教へを乞ふ聾瘂に喩し、其をして自ら其の心の良を識認せしめて、稽首再拝して以て自得せしめ、而して又坐禅僧の母を思ふの念を問ひ、之をして涕泣拝謝し鉢を挈げて帰らしむ。其の余の属官の格物に答へ、父子の訟を聴きて、以て慟哭せしむる等の事義は、既に伝習録に載す。則ち焉を閲する者必ず之を知らん。此れ皆豈に愚夫婦と同じき的の学にして、小を語れば天下能く破る莫きの真修実験に非ずや。子弟輩心の良知を致して、怠らずんば則ち終に倶に大小載破する莫きの道を得ん。吁、区区たる浮論、何ぞ辨ずるに足らんや。
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『洗心洞箚記』箚記跋(松浦誠之)因りて誠之謹んで之を考ふるに、太虚と良知とは一のみ。其の公にして私無き処は即ち太虚、其の霊にして昧からざる処は即ち良知なり。而して其の公ならず霊ならざる所以の者は、皆夫の意見情識の欲之を蔽ふなり。宜なるかな先生の云云すること。故に吾人の其の欲を去るに於けるや、猶ほ鉱の冶に在り、璞の攻に在るがごときなり。気質を変化するの義有り、死生を一にするの義有り、虚偽を去るの義有り。而して真に反求して即ち之を去り、之を変化し、之を一にすれば、蔽ふ者尽く散ず。是に於いて其の公と霊と乃ち全く現る。猶ほ金の冶を出で、玉の攻を経て、其の精采光色固より外より鑠するに非ざるがごとし。断じて疑ひ無し。如し反求せずして、徒らに篤信を以てするのみならば、則ち善く学ぶに非ざるなり。誠之等の如き者、果して能く虚偽を去るを得るや否や。果して能く気質を変化するを得るや否や。果して能く死生を一にするを得るや否や。之を口にすと雖も之を躬にする能はずんば、実に師教に叛きて師門に益無し。嗚呼、世の豪傑の士、先生の声を聞きて未だ其の面と心とを知らざる者、一たび是の書を閲せば、即ち必ず期せずして合ひ、約せずして契ふこと、尤西川の王子に於けるが如き者有らん。是れ誠之等の夢想して敢へて一日も懐に忘れざる所の者なり。是れ誠之等の夢想して敢へて一日も懐に忘れざる所の者なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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