洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條
而奴兒胡虜猖獗久矣、吞噬其種類、始見于神宗本紀萬曆十一年夏五月矣、而淸三朝實錄曰、削平諸部而統一之、軍威益振、始攻明、取遼東廣寧諸部、則滅明之謀、不一朝一夕卽可見矣、而陽明子年二十九時、嘗上陳言邊務疏、此旣豫恐夷狄奪中國如金元之勢也、君相如用其策、則豈其奪國易易哉、以其不用之故、浸淫遂成金元之勢、而流賊王嘉允高迎祥起延綏、實崇禎元年矣、而魏忠賢黨喬應甲朱童蒙釀其禍、卽載于史傳、又加之以劉懋減驛站、盜賊飢民紛起、至不可救治、此西土之人皆所知也、
新字:而奴児胡虜猖獗久矣、呑噬其種類、始見于神宗本紀万暦十一年夏五月矣、而清三朝実録曰、削平諸部而統一之、軍威益振、始攻明、取遼東広寧諸部、則滅明之謀、不一朝一夕即可見矣、而陽明子年二十九時、嘗上陳言辺務疏、此既予恐夷狄奪中国如金元之勢也、君相如用其策、則豈其奪国易易哉、以其不用之故、浸淫遂成金元之勢、而流賊王嘉允高迎祥起延綏、実崇禎元年矣、而魏忠賢党喬応甲朱童蒙醸其禍、即載于史伝、又加之以劉懋減駅站、盗賊飢民紛起、至不可救治、此西土之人皆所知也、
書き下し
而して奴児胡虜の猖獗すること久し。其の種類を呑噬すること、始めて神宗本紀万暦十一年夏五月に見ゆ。而して清の三朝実録に曰く、諸部を削平して之を統一し、軍威益々振るひ、始めて明を攻め、遼東広寧の諸部を取ると。則ち明を滅ぼすの謀、一朝一夕ならざること即ち見るべし。而して陽明子、年二十九の時、嘗て陳言辺務疏を上る。此れ既に豫め夷狄の中国を奪ふこと金元の勢の如きを恐るるなり。君相如し其の策を用ゐば、則ち豈に其の国を奪ふこと易易たらんや。其の用ゐざるの故を以て、浸淫して遂に金元の勢を成す。而して流賊王嘉允・高迎祥の延綏に起こるは、実に崇禎元年なり。而して魏忠賢の党、喬応甲・朱童蒙其の禍を醸すこと、即ち史伝に載す。又之に加ふるに劉懋の駅站を減ずるを以てし、盗賊飢民紛起して、救治すべからざるに至る。此れ西土の人皆知る所なり。
現代語訳
さて、奴児の夷狄(満洲の勢力)がのさばるようになって久しい。その同族を併呑したことは、『明史』神宗本紀の万暦十一年(1583)夏五月に初めて見える。そして清の『三朝実録』には「諸部を平定して統一し、軍の威勢はますます盛んになり、初めて明を攻め、遼東・広寧の諸部を取った」とある。明を滅ぼす計画が一朝一夕のものでなかったことがわかる。陽明子は二十九歳のとき、「陳言辺務疏」(辺境防備についての上奏)をたてまつった。これはすでに、夷狄が金や元のような勢いで中国を奪うことをあらかじめ恐れたものである。君主や宰相がもしその策を用いていたなら、国を奪われることがどうしてあれほど容易であったろうか。それを用いなかったために、じわじわと広がり、ついに金・元のような勢いとなった。流賊の王嘉允・高迎祥が延綏で蜂起したのは、まさに崇禎元年(1628)である。魏忠賢の一党である喬応甲・朱童蒙がその禍を醸成したことは、史書の伝に載っている。さらに劉懋が駅站(宿駅)を削減したことが加わり、盗賊や飢えた民が次々に起こって、手のつけようがなくなった。これは中国の人ならみな知っていることである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 扁鵲倉公列伝潘満如の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに深く小さく弱く、其の卒然として合合するなり。是れ脾気なり。右の脈口の気至ること緊小にして、瘕気を見るなり。次を以て相乗ず。故に三十日にして死す。三陰倶に摶つ者は、法の如し。倶には摶たざる者は、決は急期に在り。一たび摶ち一たび代はる者は、近し。故に其の三陰摶ち、血を溲すること前の如くして止む。陽虚侯の相趙章病み、臣意を召す。衆医皆以て寒中と為す。臣意其の脈を診して曰く、「迵風なり」と。迵風なる者は、飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらず。法に曰く、「五日にして死す」と。而るに後十日にして乃ち死す。病は之を酒に得たり。趙章の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに、脈来ること滑なり。是れ内風の気なり。飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらざる者は、法として五日にして死す。皆前の分界の法なり。後十日にして乃ち死し、期を過ぐる所以の者は、其の人粥を嗜む。故に中蔵実す。中蔵実す、故に期を過ぐ。師言ひて曰く、「穀に安んずる者は期を過ぎ、穀に安んぜざる者は期に及ばず」と。済北王病み、臣意を召して其の脈を診せしむ。曰く、「風蹶して胸満つ」と。即ち為に薬酒を為る。三石を尽くして、病已ゆ。之を汗出でて地に伏すに得たり。済北王の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切する時、風気なり、心脈濁る。病法に「過ぎて其の陽に入り、陽気尽きて陰気入る」と。陰気入りて張れば、則ち寒気上りて熱気下る。故に胸満つ。汗出でて地に伏す者は、其の脈を切するに、気陰なり。陰気なる者は、病必ず中に入り、出づること瀺水に及ぶなり。斉の北宮司空の命婦出於病む。衆医皆以て風中に入り、病は主として肺に在りと為し、其の足の少陽の脈を刺す。臣意其の脈を診して曰く、「病は気疝にして、膀胱に客たり。前後に溲するに難くして、溺赤し。病寒気を見れば則ち遺溺し、人をして腹腫れしむ」と。出於の病は之を溺せんと欲して得ず、因りて以て接内するに得たり。
-
史記 孝武本紀泰一の用ゐる所は、雍の一畤の物の如く、而して醴棗脯の属を加へ、一犛牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝は独り俎豆醴の進有り。其の下の四方の地は、餟食の為に群神の従者及び北斗を云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿其の中に居り、彘鹿の中に在り、水にて之を洎(ひた)す。日を祭るに牛を以てし、月を祭るに羊彘特を以てす。泰一の祝宰は則ち紫及び繡を衣る。五帝は各々其の色の如くし、日は赤、月は白。十一月辛已朔旦冬至、昧爽、天子始めて郊して泰一を拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕すれば、則ち揖す。而して泰一に見ゆること雍の礼の如くす。其の贊饗に曰く、「天始めて宝鼎神筴を以て皇帝に授く、朔にして又朔、終はりて復た始まる、皇帝敬ひて拝し焉に見ゆ。」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠火を列ねて壇に満たし、壇の旁に烹炊の具あり。有司云ふ「祠上に光有り」と。公卿言ふ「皇帝始めて泰一に雲陽に郊見す、有司瑄玉嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて、黄気上りて天に属す。」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福兆祥なり、宜しく此の地の光域に因りて泰畤の壇を立て以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、(祀)[秋]及び臘の間に祠らしめん。三歳に天子一たび郊見せん。」と。其の秋、南越を伐たんが為に、泰一に告禱し、牡荊を以て幡に日月北斗登龍を画き、以て天一三星に象り、泰一の鋒と為し、名づけて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍使ひして敢へて海に入らず、泰山に之きて祠る。上人をして微かに随ひて験せしむるに、実に見る所無し。五利妄りに其の師を見たりと言ふ、其の方尽き、多く讎(あた)らず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏城の上に見る、物有り雉の若く、城上を往来す。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや。」と。
-
『墨子』節葬下是の故に子墨子曰く、郷に吾が本と言えらく、意うに亦た其の言をして、其の謀を用いて、厚葬久喪を計るに、誠に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からんか。則ち仁なり、義なり、孝子の事なり。人の為に謀る者は、勸めざる可からざるなり。意うに亦た其の言に法り、其の謀を用いて、人の若きの厚葬久喪、實に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からざらんか。則ち仁に非ざるなり、義に非ざるなり、孝子の事に非ざるなり。人の為に謀る者は、沮まざる可からざるなり。是の故に以て國家を富まさんことを求むるも、甚だ貧を得たり。以て人民を衆くせんと欲するも、甚だ寡を得たり。以て刑政を治めんと欲するも、甚だ亂を得たり。以て大國の小國を攻むるを禁止せんことを求むるも、既已に不可なり。以て上帝鬼神の福を千めんと欲するも、又た禍を得たり。上、之を堯舜禹湯文武の道に稽うるに、政、之に逆らう。下、之を桀紂幽厲の事に稽うるに、猶お節を合わするがごとし。若し此を以て觀れば、則ち厚葬久喪は、其れ聖王の道に非ざるなり。
-
論語・陽貨篇子曰く、道に聴きて塗に説くは、徳を之れ棄つるなり。
-
説苑・君道湯曰く、「薬食は先ず卑に嘗めしめ、然る後に貴に至る。薬言は先ず貴に献じ、然る後に卑に聞こゆ」と。故に薬卑に嘗めしめ、然る後に貴に至るは、教えなり。薬言貴に献じ、然る後に卑に聞こゆるは、道なり。故に人をして食を味わしめて然る後に食する者は、其の味を得ること多し。人をして言を味わしめて然る後に言を聞く者は、其の言を得ること少なし。是を以て明王の言は、必ず自ら他に之を聴かしめ、必ず自ら他に之を聞かしめ、必ず自ら他に之を択ばしめ、必ず自ら他に之を取らしめ、必ず自ら他に之を聚めしめ、必ず自ら他に之を蔵せしめ、必ず自ら他に之を行わしむ。故に道は数ば之を取るを以て明と為し、数ば之を行うを以て章と為し、数ば之を万物に施すを以て蔵と為す。是の故に道を求むる者は目を以てせずして心を以てし、道を取る者は手を以てせずして耳を以てす。
-
論語・衛霊公篇子曰く、吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。如し誉むる所有らば、其れ試みる所有らん。斯の民や、三代の直道にして行いし所以なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る