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政談 / 金銀錢員數減少する仔細の事

寛文の中頃よりはや世界そろ〳〵と輕くなる筋に赴きけると見えて、伊丹播磨守御勘定頭したりしとき私かにねんころにしたる人にささやきたりしは、公儀の御使用入るを量りて出るを考ふるに、最早出る方多く成りて、御藏の金を毎年一二萬兩ほとつゝ足すなり、御代久しく傳りたる後は御使人難義を致すへしと申したりしことを父の語りし、是より御くらひたものあきたる故にや、御先々前御代のとき日光御社參のこと兩度迄仰出されたりしかとも、御物入りの所にて差支へて事やむ、されども終に御社參なきことを御氣の毒に思召れて御役人に普ねく了簡を申し上けしむるとき、荻原近江守御社參の上に御上洛有りても御物入りに手支へあるましき愚按あるとな申し立てゝ、元祿金銀吹改めて御藏に金滿ちたり、程なく大地震にて御藏の金皆御普請に入り、その金民間に擴かり、民間に金多くなる故人深く奢り商人深利を得、一人の身一軒の家にても物入りの品多くなり、又竈の數一軒は二軒に殖え行けは四軒五軒に殖えたり、御城下の端〳〵に家居建續きたること、又田舍の末々迄商人一面に行き亘りたること、某し覺えても元祿以後のことなり、

新字:寛文の中頃よりはや世界そろ〳〵と軽くなる筋に赴きけると見えて、伊丹播磨守御勘定頭したりしとき私かにねんころにしたる人にささやきたりしは、公儀の御使用入るを量りて出るを考ふるに、最早出る方多く成りて、御蔵の金を毎年一二万両ほとつゝ足すなり、御代久しく伝りたる後は御使人難義を致すへしと申したりしことを父の語りし、是より御くらひたものあきたる故にや、御先々前御代のとき日光御社参のこと両度迄仰出されたりしかとも、御物入りの所にて差支へて事やむ、されども終に御社参なきことを御気の毒に思召れて御役人に普ねく了簡を申し上けしむるとき、荻原近江守御社参の上に御上洛有りても御物入りに手支へあるましき愚按あるとな申し立てゝ、元禄金銀吹改めて御蔵に金満ちたり、程なく大地震にて御蔵の金皆御普請に入り、その金民間に擴かり、民間に金多くなる故人深く奢り商人深利を得、一人の身一軒の家にても物入りの品多くなり、又竈の数一軒は二軒に殖え行けは四軒五軒に殖えたり、御城下の端〳〵に家居建続きたること、又田舎の末々迄商人一面に行き亘りたること、某し覚えても元禄以後のことなり、

書き下し

寛文の中頃よりはや世界そろ〳〵と軽くなる筋に赴きけると見えて、伊丹播磨守御勘定頭したりしとき私かにねんころにしたる人にささやきたりしは、公儀の御使用入るを量りて出るを考ふるに、最早出る方多く成りて、御蔵の金を毎年一二万両ほとつゝ足すなり、御代久しく伝りたる後は御使人難義を致すへしと申したりしことを父の語りし、是より御くらひたものあきたる故にや、御先々前御代のとき日光御社参のこと両度迄仰出されたりしかとも、御物入りの所にて差支へて事やむ、されども終に御社参なきことを御気の毒に思召れて御役人に普ねく了簡を申し上けしむるとき、荻原近江守御社参の上に御上洛有りても御物入りに手支へあるましき愚按あるとな申し立てゝ、元禄金銀吹改めて御蔵に金満ちたり、程なく大地震にて御蔵の金皆御普請に入り、その金民間に擴かり、民間に金多くなる故人深く奢り商人深利を得、一人の身一軒の家にても物入りの品多くなり、又竈の数一軒は二軒に殖え行けは四軒五軒に殖えたり、御城下の端〳〵に家居建続きたること、又田舎の末々迄商人一面に行き亘りたること、某し覚えても元禄以後のことなり、

現代語訳

寛文の中頃から早くも、世の中の財政がそろそろ軽くなる方向へ向かっていたと見えて、伊丹播磨守が御勘定頭をしていたとき、ひそかに親しくしていた人にささやいたことには、「公儀のご使用を、入るを量って出るを考えてみると、もはや出る方が多くなって、御蔵の金を毎年一二万両ほどずつ足している。御代が長く続いた後は、お使い手が難儀をなさるであろう」と申したことを、父が語った。これより御蔵がひたすら空いていったゆえであろうか、三代前の御代のとき、日光御社参のことが二度まで仰せ出されたけれども、ご出費の段で差し支えてとりやめとなった。けれども、ついに御社参がないことを気の毒に思し召されて、御役人に広く考えを申し上げさせたとき、荻原近江守が、御社参の上に御上洛があってもご出費に差し支えのない愚案があると申し立てて、元禄金銀を吹き改めて、御蔵に金が満ちた。ほどなく大地震があって、御蔵の金はみな御普請に入り、その金が民間に広がり、民間に金が多くなったので、人々は深く奢り、商人は深く利を得て、一人の身、一軒の家でも物入りの品が多くなった。また竈(世帯)の数も、一軒が二軒に増え、増えていけば四軒五軒に増えた。御城下の端々まで家が建ち続いたこと、また田舎の末々まで商人が一面に行き渡ったことは、私の覚えでも元禄以後のことである。

解説

徂徠は幕府財政の推移を、父から聞いた勘定頭のささやきから語り起こす。寛文の頃すでに歳出が歳入を上回り、蔵の金で補っていた。日光社参の費用に窮した末、荻原近江守の献策で元禄の改鋳が行われ蔵は満ちたが、大地震の普請でその金が民間に流れ、奢りと商人の利、世帯の増加、城下の拡大を招いたという。財政の穴埋め策が社会の姿まで変えたという見立てである。現代でも、資金の一時的な注入が消費や組織の膨張を生み、元に戻せない構造を残すことがある。

この章句が説くこと

財政改鋳奢り通貨商人荻原重秀

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