政談 / 出替り奉公人の締りの事
兎角武家柔に而かも愚かになり事の始終の呑込なく、又輕薄第一の風俗になりたる故、少し目高き人の家に件の欠落もの住み居れは勿論のこと、大抵同輩の者のかたに住居ても斷りを申し遣はすことを遠慮することに大方はなりたり、又夫を召しをきたるものも屆をうければ其の者はこの方をも今朝欠落したるなどゝ紛かし、當分八釜しき目をせぬ樣にするを利口なりとするたぐひ多し、左樣の者を召し置くは法に背くその上傍輩への無禮なり、無禮は我が身の瑕瑾なりと云ふことは夢にもしらす、又昔の武士の左樣なるものを構ひ置きたることも拔群のたがひにて、只何もかも利口を先きとし、ものをすりぬけよけはづし、ことの始終をしつはりと取りさばき身に引きうけへきことはへらす、引うくることは絕てこれなき世界となる故、その風俗なることになりて公法のとが人の欠落逐電をも奉行御役人も下々のさやうなることはめづらしからさること、さやうにつじつまの合ふやうにはさばきはならぬものと云ひのゝしりて未熟ふせんぎなるとりあつかひなり、
新字:兎角武家柔に而かも愚かになり事の始終の呑込なく、又軽薄第一の風俗になりたる故、少し目高き人の家に件の欠落もの住み居れは勿論のこと、大抵同輩の者のかたに住居ても断りを申し遣はすことを遠慮することに大方はなりたり、又夫を召しをきたるものも届をうければ其の者はこの方をも今朝欠落したるなどゝ紛かし、当分八釜しき目をせぬ様にするを利口なりとするたぐひ多し、左様の者を召し置くは法に背くその上傍輩への無礼なり、無礼は我が身の瑕瑾なりと云ふことは夢にもしらす、又昔の武士の左様なるものを構ひ置きたることも抜群のたがひにて、只何もかも利口を先きとし、ものをすりぬけよけはづし、ことの始終をしつはりと取りさばき身に引きうけへきことはへらす、引うくることは絶てこれなき世界となる故、その風俗なることになりて公法のとが人の欠落逐電をも奉行御役人も下々のさやうなることはめづらしからさること、さやうにつじつまの合ふやうにはさばきはならぬものと云ひのゝしりて未熟ふせんぎなるとりあつかひなり、
書き下し
兎角武家柔に而かも愚かになり事の始終の呑込なく、又軽薄第一の風俗になりたる故、少し目高き人の家に件の欠落もの住み居れは勿論のこと、大抵同輩の者のかたに住居ても断りを申し遣はすことを遠慮することに大方はなりたり、又夫を召しをきたるものも届をうければ其の者はこの方をも今朝欠落したるなどゝ紛かし、当分八釜しき目をせぬ様にするを利口なりとするたぐひ多し、左様の者を召し置くは法に背くその上傍輩への無礼なり、無礼は我が身の瑕瑾なりと云ふことは夢にもしらす、又昔の武士の左様なるものを構ひ置きたることも抜群のたがひにて、只何もかも利口を先きとし、ものをすりぬけよけはづし、ことの始終をしつはりと取りさばき身に引きうけへきことはへらす、引うくることは絶てこれなき世界となる故、その風俗なることになりて公法のとが人の欠落逐電をも奉行御役人も下々のさやうなることはめづらしからさること、さやうにつじつまの合ふやうにはさばきはならぬものと云ひのゝしりて未熟ふせんぎなるとりあつかひなり、
現代語訳
とにかく武家は柔弱で、しかも愚かになり、事の始終の飲み込みがなく、また軽薄第一の風俗になったので、少し身分の高い人の家にその欠け落ち者が住んでいれば勿論のこと、たいてい同輩の者の方に住んでいても、断りを申し遣わすことを遠慮するようにおおかたはなった。またその者を召し置いた者も、届けを受ければ、その者はこちらも今朝欠け落ちした、などとごまかし、当分やかましい目に遭わないようにするのを利口とする類が多い。そのような者を召し置くのは法に背き、そのうえ同輩への無礼である。無礼はわが身の瑕瑾(きず)であるということは夢にも知らない。また昔の武士がそのような者をかくまったことも、とびぬけた違いであって、ただ何もかも利口を先にし、物事をすり抜け、避けて外し、事の始終をしっかりと取りさばき、身に引き受けるべきことは減り、引き受けることはまったくない世界となったので、その風俗のままに、公の法の咎人の欠け落ち・逐電をも、奉行・お役人も、下々のそのようなことは珍しくない、そのように辻褄の合うようには裁きはできないものだと言い立てて、未熟で不詮議な取り扱いをするのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 張耳陳余列伝貫高独り怒り罵りて曰く、「誰か公をして之を為さしめし。今王実に謀無くして、并せて王を捕ふ。公等皆死せば、誰か王の反せざるを白さん」と。乃ち轞車に膠致せられ、王と長安に詣る。張敖の罪を治む。上乃ち趙の群臣賓客に詔すらく、敢て王に従ふ有らば皆族せんと。貫高と客孟舒等十余人と、皆自ら髡鉗し、王の家奴と為りて従ひ来たる。貫高至り、獄に対へて曰く、「独り吾が属之を為す。王実に知らず」と。吏治めて榜笞すること数千、刺剟して、身に撃つべき者無きも、終に復た言はず。呂后数々言ふ、張王は魯元公主の故を以て、宜しく此れ有るべからずと。上怒りて曰く、「張敖をして天下に拠らしめば、豈に而が女を少しとせんや」と。聴かず。廷尉貫高の事の辞を以て聞す。上曰く、「壮士なり。誰か知る者ぞ。私を以て之に問へ」と。中大夫泄公曰く、「臣の邑子にして、素より之を知る。此れ固より趙国の名義を立てて侵されず、然諾を為す者なり」と。上泄公をして節を持して之に箯輿の前に問はしむ。仰ぎ視て曰く、「泄公か」と。泄公労苦すること生平の驩の如く、与に語り、張王果して計謀有りや不やを問ふ。高曰く、「人情寧ぞ各々其の父母妻子を愛せざらんや。今吾が三族皆以て死に論ぜらる。豈に王を以て吾が親に易へんや。顧ふに王実に反せず、独り吾等之を為せり」と。具に本指の為す所以と王の知らざる状とを道ふ。是に於て泄公入り、具に以て報ず。上乃ち趙王を赦す。上貫高の人と為り能く然諾を立つるを賢とし、泄公をして具に之に告げしめて曰く、「張王已に出でたり」と。因りて貫高を赦す。貫高喜びて曰く、「吾が王審らかに出でたるか」と。泄公曰く、「然り」と。泄公曰く、「上足下を多とす。故に足下を赦す」と。貫高曰く、「死せずして一身に余無き所以の者は、張王の反せざるを白さんとすればなり。今王已に出づ。吾が責已に塞がる。死すとも恨みず。且つ人臣として篡殺の名有り、何の面目ありて復た上に事へんや。縦ひ上我を殺さずとも、我心に愧ぢざらんや」と。乃ち仰ぎて骯を絶ち、
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論語・衛霊公篇子曰わく、君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む。
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論語・季氏篇孔子曰く、禄の公室を去ること、五世なり。政の大夫に逮ぶこと、四世なり。故に夫の三桓の子孫、微なり。
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論語・憲問篇子曰く、「我を知ること莫きかな。」子貢曰く、「何為れぞ其れ子を知ること莫からんや。」子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は、其れ天か。」
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論語・里仁篇子曰わく、父母在すれば、遠く遊ばず。遊ぶに必ず方有り。
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史記 李将軍列伝広大将軍に謝せずして起ちて行き、意甚だ慍怒して部に就き、兵を引きて右将軍食其と軍を合はせて東道より出づ。軍に導亡く、或いは道を失ひ、大将軍に後る。大将軍単于と接戦し、単于遁走し、得る能はずして還る。南のかた幕を絶りて、前将軍・右将軍に遇ふ。広已に大将軍に見え、還りて軍に入る。大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺らしめ、因りて広・食其の道を失ひし状を問ふ。青書を上りて天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。広未だ対へず。大将軍長史をして急に広を責めて幕府に之きて簿に対へしむ。広曰く、「諸校尉は罪無し。乃ち我自ら道を失へり。吾今自ら簿に上らん」と。莫府に至り、広其の麾下に謂ひて曰く、「広結髪より匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひて出でて単于の兵に接す。而るに大将軍又広の部を徙して行くこと回遠にし、而して又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず」と。遂に刀を引きて自剄す。広の軍の士大夫一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く皆為に涕を垂る。
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