呂氏春秋 / 先識②
夏太史令終古,出其圖法,執而泣之。夏桀迷惑,暴亂愈甚,太史令終古乃出奔如商。湯喜而告諸侯曰:“夏王無道,暴虐百姓,窮其父兄,恥其功臣,輕其賢良,棄義聽讒,眾庶咸怨,守法之臣,自歸于商。”
新字:夏太史令終古,出其図法,執而泣之。夏桀迷惑,暴乱愈甚,太史令終古乃出奔如商。湯喜而告諸侯曰:“夏王無道,暴虐百姓,窮其父兄,恥其功臣,軽其賢良,棄義聴讒,衆庶咸怨,守法之臣,自帰于商。”
書き下し
夏の太史令終古、其の圖法を出だし、執りて之に泣く。夏桀迷惑して、暴亂愈々甚だし。太史令終古乃ち出奔して商に如く。湯喜びて諸侯に告げて曰く、「夏王無道にして、百姓を暴虐し、其の父兄を窮しめ、其の功臣を恥かしめ、其の賢良を輕んじ、義を棄てて讒を聽き、衆庶咸怨む。守法の臣、自ら商に歸せり。」
現代語訳
夏の太史令であった終古は、王朝の図録と法典を取り出し、それを抱えて泣いた。夏の桀王は判断を誤り、暴虐と混乱はいよいよひどくなった。そこで終古はついに出奔して商(殷)へと身を寄せた。湯王は喜んで諸侯に告げた、「夏王は無道で、人民を虐げ、その父兄を苦しめ、功臣に恥をかかせ、賢良の士を軽んじ、道義を棄てて讒言を聞き入れ、人々はみな怨んでいる。法を守る臣下が、自ら商に帰服してきたのだ」と。
解説
夏の記録官終古が図法を抱えて泣き、暴君桀を見限って殷へ亡命した故事です。図法は図録と法典で国家統治の要であり、それを預かる史官の離反は王朝の正統性が失われた象徴でした。湯王はこれを諸侯へ告げ、桀の無道を並べ立てて自らの挙兵を正当化します。記録や制度を担う専門家が組織を見限るとき、その組織はすでに内部から崩れています。人材の流出そのものが最も雄弁な内部評価だという点は、現代の組織にも通じる警告となっています。
この章句が説くこと
終古夏桀湯王図法太史令人材流出
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