弁名 / 性情才
孟子性善。亦子思之意耳。觀其曰服堯之服。誦堯之言。行堯之行。是堯而已矣。則所謂人皆可以爲堯舜者。亦非謂聖人可學而至矣。曰仁義禮智根於心。則所謂性善。亦非謂人性皆與聖人同矣。祇如告子杞柳之喩。其說甚美。湍水之喩。亦言人之性善移。孟子乃極言折之。以立內外之說。是其好辯之甚。遂基宋儒之謬焉。其與荀子性惡。皆立門戶之說。言一端而遺一端者也。子雲善惡混。退之性有三品。豈悖理哉。至於蘇子瞻無善惡。則佛氏之意矣。歐陽子謂性非聖人所先。卓見哉。
新字:孟子性善。亦子思之意耳。観其曰服堯之服。誦堯之言。行堯之行。是堯而已矣。則所謂人皆可以為堯舜者。亦非謂聖人可学而至矣。曰仁義礼智根於心。則所謂性善。亦非謂人性皆与聖人同矣。祇如告子杞柳之喩。其説甚美。湍水之喩。亦言人之性善移。孟子乃極言折之。以立内外之説。是其好弁之甚。遂基宋儒之謬焉。其与荀子性悪。皆立門戸之説。言一端而遺一端者也。子雲善悪混。退之性有三品。豈悖理哉。至於蘇子瞻無善悪。則仏氏之意矣。欧陽子謂性非聖人所先。卓見哉。
書き下し
孟子の性善も、亦た子思の意のみ。其の「堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行を行へば、是れ堯のみ」と曰ふを観れば、則ち所謂人皆以て堯舜と為るべしとは、亦た聖人学びて至るべしと謂ふに非ず。「仁義礼智心に根ざす」と曰へば、則ち所謂性善も、亦た人の性皆聖人と同じと謂ふに非ず。祇だ告子の杞柳の喩の如きは、其の説甚だ美なり。湍水の喩も、亦た人の性の善く移るを言ふ。孟子乃ち極言して之を折き、以て内外の説を立つ。是れ其の弁を好むの甚だしき、遂に宋儒の謬を基す。其の荀子の性悪と、皆門戸を立つるの説、一端を言ひて一端を遺す者なり。子雲の善悪混、退之の性に三品有り、豈に理に悖らんや。蘇子瞻の善悪無しに至りては、則ち仏氏の意なり。欧陽子謂ふ、性は聖人の先にする所に非ずと。卓見なるかな。
現代語訳
孟子の性善説も、子思の考えを受けたものにすぎない。孟子が「堯の服を着、堯の言葉を唱え、堯の行いを行えば、それは堯である」と言うのを見れば、「人はみな堯や舜になれる」というのも、聖人に学んで到達できるという意味ではない。「仁義礼智は心に根ざす」と言うのだから、性善というのも、人の性がみな聖人と同じだという意味ではない。告子の杞柳(柳の枝を曲げて器を作る)のたとえは、説としてたいへん見事であり、湍水(渦巻く水はどちらへも流れる)のたとえも、人の性が移りやすいことを言ったものである。それを孟子は言葉を尽くしてくじき、内と外の説を立てた。弁論を好むことが甚だしく、ついに宋儒の誤りの土台となった。孟子の性善も荀子の性悪も、いずれも一派を立てるための説で、一面を言って他の一面を落としている。揚雄(子雲)の善悪混合説や、韓愈(退之)の性三品説は、どうして道理に背いていようか。蘇軾(子瞻)の善悪なしの説に至っては仏教の考えである。欧陽脩が「性は聖人がまず説いたものではない」と言ったのは、すぐれた見識である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『弁名』性情才仁斎先生、孟子の性善を釈して曰く、「人の生質、万の同じからざる有りと雖も、然れども其の善を善とし悪を悪むの心は、古今と無く聖愚と無く一なり」と。善く孟子を説くと謂ふべきのみ。然れども善を善とし悪を悪むの心有りと雖も、豈に必ずしも善を為さしむべけんや。其の人必ず曰はん、「吾好色を好むと雖も、未だ宋朝と為る能はず」と。則ち亦た何の益かあらん。苟も能く先王の道を信ずれば、則ち性善を聞きて益々勧み、性悪を聞きて益々勉む。苟も先王の道を信ぜざれば、則ち性善を聞きて自ら用ひ、性悪を聞きて自ら棄つ。故に荀孟は皆無用の弁なり。故に聖人の言はざる所なり。其の病は皆言語を以て我を信ぜざるの人を喩し、其れをして我を信ぜしめんと欲するに在り。唯に其れをして我を信ぜしむる能はざるのみならず、乃ち千古紛紛の論を啓く。言語の弊、豈に大ならずや。学者猶ほ且つ諸を先王の教に求むる能はずして、唯だ議論是れ務む。悲しいかな。
-
『童子問』卷下問ふ、向に教誨を蒙る。孟子性善の説は、気質の中に就いて言ふ、気質を離れて之を言ふに非ずと。然るに諸儒の説、紛紛籍籍として、適従すべからず。冀はくは明弁極論して、以て其の帰趣を発せよ。曰く、孟子の性を説く、古今性を言ふの準則なり。諸儒の紛紛の説有る所以の者は、皆孟子を善く読まざるの過ちなり。荀子は専ら教を主とすることを知りて、以為へらく人教へざれば則ち善ならずと。故に性悪を説く。善く教を受くる者は性の善なるを以てなることを知らず。楊子は両端を疑信して、一に帰すること能はず。故に善悪混ずと把る。韓子は以為へらく孟子は其の上を得、荀・揚は各其の中・下を得と。衆説を調停せんと欲して、目して品題を下す。故に性に三品有りと曰ふ。此れ等は皆俗見のみ。程・張二先生に至つて、又本然・気質の論を立て、以為へらく孔子は気質の性を説き、孟子は本然の性を説くと。而して蘇氏・胡氏は又以為へらく性は本善悪の言ふべき無し、孟子之を善と謂ふは讃歎の辞なりと。此れも亦禅説より来る。凡そ此れ等の説は、皆徒に孟子の本旨を知らざるのみに非ず、実に孟子の文義を理会すること能はざる者なり。怪しむべし怪しむべし。
-
『弁道』第一則古の時は、作者之を聖と謂ふ。而るに孔子は作者に非ず。故に至誠を以て聖人の徳と為し、而して又た三重の説有り。主意の在る所、孔子の為に嘲りを解く者なること見るべし。然れども誠は聖人の一徳なり、豈に以て之を尽くすに足らんや。孟子の性善に至りては、亦た子思の流れなり。杞柳の喩へは、告子之を尽くせり。孟子の之を折くは過てり。蓋し子思の本意も、亦た聖人人性に率ひて以て道を立つと謂ふのみ。人人性に率へば自然に皆道に合ふと謂ふに非ざるなり。它木は桮棬と為すべからず、則ち杞柳の性に桮棬有り。然りと雖も、桮棬豈に杞柳の自然ならんや。惻隠羞悪は、皆仁義の性に本づくを明らかにするのみ。其の実、惻隠は以て仁を尽くすに足らず、而して羞悪も未だ必ずしも義ならざる者有り。言を立つること一偏なれば、毫釐も千里なり。後世の心学、此に胚胎す。荀子の之を非とするは是なり。故に思孟は聖門の禦侮なり。荀子は思孟の忠臣なり。
-
『弁道』第十三則性を言ふは老荘より始まる。聖人の道に無き所なり。苟も道に志有らんか、性善を聞けば則ち益〻勧み、性悪を聞けば則ち力めて矯む。苟も道に志無からんか、性悪を聞けば則ち棄てて為さず、性善を聞けば則ち恃みて為さず。故に孔子の習ひを貴ぶなり。子思孟子は蓋し亦た老荘の言に屈する有り。故に性善を言ひて以て之に抗するのみ。荀子は則ち夫の性善の説の必ず礼楽を廃するに至らんことを慮る。故に性悪を言ひて以て之に反するのみ。皆時を救ふの論なり。豈に至理ならんや。欧陽子謂ふ、性は学者の急とする所に非ずして、聖人の罕に言ふ所なりと。卓見と謂ふべし。
-
『講孟余話』告子上 首章「性は猶ほ杞柳のごとし」(首章)。「性は猶ほ湍水のごとし」(第二章)。「生之を性と謂ふ」(第三章)。首章・二章意同じ、即ち下章の「性は以て善を為すべく、以て不善を為すべし」の意なり。杞柳を戕賊するの論、孟子弁を以て是を折くのみ。告子の杞柳の喩、実に戕賊の意あるに非ず。朱註に荀子性悪の説と云ふも、孟子の語に就きて云ふのみ、恐らくは告子の本意に非ず。告子の意、杞柳の喩、湍水と少しも異なることなし。朱子生之を性と謂ふを以て告子が誤りの根本とす、甚だ妙なり。告子始終形気の上に就きて云ふ、故に善悪混じ、善悪を為すべき一処を知るのみ。是れ空論に非ず、皆実事を論ずるなり、但だ其の指す所異なるのみ。而して後人告子の余緒を継ぎて、孟子を弁駁する者あり。又孟は粗鄙にして精察を闕くとし、又孟子の説を主張して更に虚空の高論をなすあり。皆深く論ずるに足らず。
-
『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る