論語と算盤 / 教育と情誼・偉人と其の母
婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することは姑く別とするも、人間の真正なる道義心に訴へて、女子を道具視して善いものであらうか、人類社会に於て男子が重んずべきものとすれば、女子も矢張社会を組織する上に其の一半を負うて立つ者だから、男子同様重んずべき者ではなからうか、既に支那の先哲も『男女室に居るは大倫なり』と云うてある、
書き下し
婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することはしばらく別とするも、人間の真正なる道義心に訴えて、女子を道具視してよいものであろうか。人類社会において男子が重んずべきものとすれば、女子もやはり社会を組織する上にその一半を負うて立つ者だから、男子同様重んずべき者ではなかろうか。既に支那の先哲も「男女室に居るは大倫なり」と言うてある。
現代語訳
婦人に対する態度をキリスト教の立場から論じてあれこれ言うことはしばらく別にするとしても、人間の本当の道義心に訴えて考えたとき、女子を道具のように見てよいものだろうか。人類社会において男子が重んじられるべきものであるなら、女子もまた社会を組み立てるうえでその半分を担って立つ者なのだから、男子と同様に重んじられるべき者ではないだろうか。すでに中国の先哲(孟子)も「男女が室を同じくして夫婦となるのは、人の大いなる道である」と言っている。
解説
渋沢はここで、女性観の根拠をキリスト教に求める議論をひとまず脇に置き、「人間の真正なる道義心」に訴える。明治の女子教育はミッション系の学校が先駆けたこともあり、女性の地位を論じると西洋の宗教の話になりやすかった。彼はそれを借りず、儒教の側から同じ結論を引き出す。引かれる「男女室に居るは大倫なり」は『孟子』万章上の「男女居室、人之大倫也」で、夫婦となることを人倫の根本とする言葉である。女子も社会の一半を負う者だから男子同様に重んずべきだ、というのが論旨で、既存の章句にある「二千五百万人を活用」という議論へつながっていく。自分の拠って立つ古典の中に新しい考えの根拠を探し当て、外来の理屈をそのまま持ち込まずに人を説く。渋沢らしい手つきである。
関連する章句
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『論語と算盤』教育と情誼・偉人と其の母言うまでもなく女子も社会の一員、国家の一分子である。果たしてしからば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様、国民としての才能智徳を与え、ともに共に相助けて事を為さしめたならば、従来五千万の国民中二千五百万人しか用を為さなかった者が、さらに二千五百万人を活用せしめる事となるではないか。これ大いに婦人教育を興さねばならぬという根源論である。
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『論語と算盤』教育と情誼・偉人と其の母婦人はかの封建時代におけるがごとく、無教育にしてむしろ侮蔑的に取り扱っておけばよろしいであろうか。それとも相当な教育を施し、修身斉家の道を教えねばならぬであろうか。これは言わずとも知れきった問題で、教育はたとい女子だからとて、決して疎かにすることは出来ないのである。それについて余はまず婦人の天職たる子供の育成ということに関して、少しく考慮してみる必要があろうと思う。
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『論語と算盤』教育と情誼・偉人と其の母およそ婦人とその子供とはいかなる関係を持っているものであるかというに、これを統計的に研究してみれば、善良なる婦人の腹から善良なる子供が多く生まれ、優れた婦人の教育によって優秀な人材が出来るものである。その最も適切な例はかの孟子の母のごとき、ワシントンの母のごとき、すなわちそれであるが、我が国においても楠正行の母、中江藤樹の母のごとき、また皆賢母として人に知らるるものであった。近くは伊藤公、桂公の母堂のごときも賢母であったと聞いている。とにかく優秀の人材は、その家庭において賢明なる母親に撫育された例は非常に多い。偉人の生まれ賢哲の世に出ずるは婦徳による所が多いということは、ひとり余一家の言ではないのである。してみれば婦人を教育してその智能を啓発し婦徳を養成せしむるは、ひとり教育された婦人一人のためのみならず、間接には善良なる国民を養成する素因となる訳であるから、女子教育は決して忽諸に付することが出来ないものであるということになるのである。しかり、女子教育の重んずべき所以はいまだそれのみにては尽きない。余はさらに女子教育の必要なる理由を次に述べてみようと思う。
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『論語と算盤』教育と情誼・偉人と其の母ゆえに今日の社会に婦人教育が盛んであるとはいっても、なおいまだ充分その効果を社会に認識せしむるには至らぬ。いわば女子教育の過渡期であるから、その道に携わる者はその可否をよく論断し講究しなくてはならぬではないか。いわんや昔の「腹は借りもの」というようなことは口にすべからざる今日、また言うてはならぬ今日とすれば、女子は全く昔日のごとく侮蔑視、嘲弄視することは出来ないことと考えられる。
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『論語と算盤』教育と情誼・偉人と其の母明治以前の日本の女子教育は、もっぱらその教育を支那思想に取ったものであった。しかるに支那の女子に対する思想は消極的方針で、女子は貞操なれ、従順なれ、緻密なれ、優美なれ、忍耐なれと教えたが、かく精神的に教育することに重きを置いたにもかかわらず、智慧とか学問とか学理とかいう方面に向かっての智識については奨めも教えもしなかった。幕府時代の日本の女子も主としてこの思想の下に教育されたもので、貝原益軒の『女大学』はその時代における唯一最上の教科書であった。すなわち智の方は一切閑却され、消極的に自己を慎むことばかり重きを置いたものである。そうしてそういう教育をされて来た婦人が今日の社会の大部分を占めている。明治時代になってから女子教育も進歩したとはいえ、いまだそれら教育を受けた婦人の勢力は微々たるもので、社会における婦人の実体は『女大学』以上に出ることの出来ぬものと言うも、あえて過言ではなかろうと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語にも明らかに権利思想の含まれていることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かってはあくまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか。
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