論語と算盤 / 教育と情誼・偉人と其の母
言ふ迄もなく女子も社会の一員、国家の一分子である、果して然らば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様国民としての才能智徳を与へ、倶に共に相助けて事を為さしめたならば、従来五千万の国民中二千五百万人しか用を為さなかつた者が、更に二千五百万人を活用せしめる事となるでは無いか、是れ大に婦人教育を興さねばならぬといふ根源論である。
書き下し
言うまでもなく女子も社会の一員、国家の一分子である。果たしてしからば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様、国民としての才能智徳を与え、ともに共に相助けて事を為さしめたならば、従来五千万の国民中二千五百万人しか用を為さなかった者が、さらに二千五百万人を活用せしめる事となるではないか。これ大いに婦人教育を興さねばならぬという根源論である。
現代語訳
言うまでもなく、女子も社会の一員であり、国家を構成する一人である。であれば、女子に対する旧来の侮蔑的な観念を取り除き、女子にも男子と同様に国民としての才能と智徳を与え、ともに助け合って事を為させたらどうなるか。これまで五千万の国民のうち二千五百万人しか役に立っていなかったものが、さらに二千五百万人を活かすことになるではないか。これが、大いに婦人教育を興さねばならないという根本の議論である。
解説
女子教育の必要を、渋沢は二段階で論じる。第一段は賢母論で、優れた人物は賢明な母に育てられた例が多い、というもの。孟母、ワシントンの母、楠正行の母、中江藤樹の母が並ぶ。だが彼はそこで止めない。第二段がこの一節で、女性を良い子を育てる手段としてではなく、国民の半分として数え直す。五千万のうち二千五百万しか使っていない、という言い方は当時としても直截である。同じ章で彼は「腹は借りもの」という言い方を口にすべきでないと明言し、女子を道具視してよいのかと問う。江戸の女子教育が『女大学』に代表される消極的な慎みの教育で、知の側が閉ざされていたことへの批判も含まれている。
この章句が説くこと
婦人教育女子も国家の一分子女大学腹は借りもの