論語と算盤 / 算盤と権利・仁に当つては師に譲らず
世人は動もすれば、論語主義には権利思想が欠けて居る、権利思想なき者は文明国の完全なる教とするに足らぬと論ずるものが有るやうだが、是は論ずる人の誤想謬見と謂はねばならぬ、成る程、孔子教を表面から観察したなら或は権利思想に欠けて居るやうに見えるかも知れぬ、基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるが如く思はれるであらう、併しながら余は此の如き言をなす人は、未だ以て真に孔子を解した者ではないと思ふ。
書き下し
世人はややもすれば、論語主義には権利思想が欠けている、権利思想なき者は文明国の完全なる教えとするに足らぬと論ずるものが有るようだが、これは論ずる人の誤想謬見と言わねばならぬ。なるほど、孔子教を表面から観察したならあるいは権利思想に欠けているように見えるかも知れぬ。基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるがごとく思われるであろう。しかしながら余はかくのごとき言をなす人は、いまだもって真に孔子を解した者ではないと思う。
現代語訳
世間の人はともすると、論語の主義には権利思想が欠けている、権利思想のないものは文明国の完全な教えとするには足りない、と論じる者があるようだが、これは論じる人の思い違いであり誤った見方だと言わねばならない。なるほど、孔子の教えを表面から観察すれば、あるいは権利思想が欠けているように見えるかもしれない。キリスト教を精髄とする西洋の思想に比べれば、きっと権利思想の観念が薄弱であるように思われるだろう。しかしながら私は、このようなことを言う人は、まだ本当に孔子を理解した者ではないと思う。
解説
仁に当つては師に譲らずの章の書き出しである。明治以降、西洋の法思想や権利思想が入ってくると、儒教は上下の秩序と義務ばかりを説き、個人の権利を知らない古い教えだという批判が広まった。渋沢はその批判を正面から取り上げ、「誤想謬見」と退ける。ただし頭から否定するのではなく、表面から見ればそう見えることも、キリスト教を核とする西洋思想と比べれば薄く見えることも、いったん認めている。そのうえで、真に孔子を解していない者の見方だと言う。相手の論の妥当な部分を認めてから本筋で反論する、渋沢の議論の型がここにも出ている。論語を商売の拠りどころとした渋沢にとって、論語が近代社会に通用しないという批判は見過ごせないものだった。古い知恵を今に活かそうとする者は、この種の批判に答える用意が要る。
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語にも明らかに権利思想の含まれていることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かってはあくまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人でないように思われる。基督や釈迦とは全然その成立を異にしたものである。ことに孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、既に比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものと言うべく、両者に相違を生ずることはもとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には全然権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓きたいと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことが出来るのである。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずしかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語主義は己を律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。そしてこの主義を押し拡めて行けば、ついには天下に立てるようにはなるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を敷き国を富まし、民を安んじ、王道を十分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一の経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人と言っても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐にわたり、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼楽を問われた。この問答を集めたものがやがて論語二十篇とはなったのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観従来儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴の観念貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は氷炭相容れざるものとなっている。しからば孔子は「富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者となろうと心掛けるならば富貴の念を捨てよ」という意味に説かれたかと言うに、論語二十篇を隈なく捜索してもそんな意味のものは一つも発見することは出来ない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向かって説をなしておられる。しかしながらその説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向かって全局を解することが出来ず、ついに誤りを世に伝えるようになってしまったのである。
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