論語と算盤 / 人格と修養・二宮尊徳と西郷隆盛
二宮先生は相馬藩に招聘せらる〻や、先づ同藩の過去百八十年間に於ける詳細の歳入統計を作成し、この百八十年を六十宛に分けて天地人の三才とし、その中位の地に当る六十年間の平均歳入を同藩の平年歳入と見做し、更に又この百八十年を九十年宛に分けて乾坤の二つとし、収入の少い方に当る坤の九十年間の平均歳入額を標準にして藩の歳出額を決定し、之により一切の藩費を支弁し、若し其年の歳入が幸にも坤の平均歳入予算以上の自然増収となり、剰余額を生じたる場合には、之を以て荒蕪地を開墾し、開墾して新に得たる新田畝は開墾の当事者に与へることにする法を定められたのである、之が相馬藩の謂ゆる興国安民法なるものであつた。西郷公は私が斯く詳細に二宮先生の興国安民法に就て説明する所を聞かれて、『そんならそれは量入以為出の道にも適ひ誠に結構なことであるから、廃止せぬやうにしても可いでは無いか』とのことであつた。
書き下し
二宮先生は相馬藩に招聘せらるるや、まず同藩の過去百八十年間における詳細の歳入統計を作成し、この百八十年を六十ずつに分けて天地人の三才とし、その中位の地に当たる六十年間の平均歳入を同藩の平年歳入と見做し、さらにまたこの百八十年を九十年ずつに分けて乾坤の二つとし、収入の少ない方に当たる坤の九十年間の平均歳入額を標準にして藩の歳出額を決定し、これにより一切の藩費を支弁し、もしその年の歳入が幸いにも坤の平均歳入予算以上の自然増収となり、剰余額を生じたる場合には、これをもって荒蕪地を開墾し、開墾して新たに得たる新田畝は開墾の当事者に与えることにする法を定められたのである。これが相馬藩のいわゆる興国安民法なるものであった。西郷公は私がかく詳細に二宮先生の興国安民法について説明する所を聞かれて、『そんならそれは量入以為出の道にも適い誠に結構なことであるから、廃止せぬようにしてもよいではないか』とのことであった。
現代語訳
二宮先生は相馬藩に招かれると、まず藩の過去百八十年間の詳細な歳入統計を作成した。この百八十年を六十年ずつに分けて天・地・人の三才とし、そのうち中位の「地」にあたる六十年間の平均歳入を藩の平年の歳入とみなした。さらにこの百八十年を九十年ずつに分けて乾・坤の二つとし、収入の少ないほうにあたる「坤」の九十年間の平均歳入額を基準にして藩の歳出額を決め、これによって一切の藩の経費をまかなう。もしその年の歳入が幸いにも「坤」の平均歳入の予算以上に自然増収となり、剰余が生じた場合には、それで荒れ地を開墾し、開墾して新しく得た田畑は、開墾した当人に与えることにする。こういう法を定められたのである。これが相馬藩のいわゆる興国安民法であった。西郷公は、私がこのように詳しく二宮先生の興国安民法について説明するのを聞かれて、「それなら、それは入るを量って出ずるを為すという道にもかなっていて、まことに結構なことだから、廃止しないようにしてもよいではないか」とのことであった。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・二宮尊徳と西郷隆盛よって私はここで平素自分の抱持する財政意見を言っておくべき好機会だと思ったので、『いかにも仰せの通りである。二宮先生の遺された興国安民法を廃止せず、これを引き続き実行すれば、それで相馬一藩は必ず立ち行くべく、今後ともにますます繁昌するのであろうが、国家のために興国安民法を講ずるが相馬藩における興国安民法の存廃を念とするよりも、さらに一層の急務である。
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『論語と算盤』人格と修養・二宮尊徳と西郷隆盛西郷参議におかせられては、相馬一藩の興国安民法は大事であるによって是非廃絶させぬようにしたいが、国家の興国安民法はこれを講ぜずにそのままに致し置いても差支え無いとの御所存であるか、承りたい。いやしくも一国を双肩に荷われて国政料理の大任に当たられる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには御奔走あらせられるが、一国の興国安民法をいかにすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末顛倒の甚だしきものであると切論いたすと、西郷公はこれに対し、別に何とも言われず、黙々として茅屋を辞し還られてしまった。とにかく、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、少しも虚飾の無かった人物は西郷公で、実に敬仰に堪えぬ次第である。
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『論語と算盤』人格と修養・二宮尊徳と西郷隆盛井上侯が総大将を承って采配を振り、私や陸奥宗光、芳川顕正、それから明治五年に英国へ公債募集のため洋行するようになった、吉田清成などが専ら財政改革を行うに腐心最中の明治四年頃のことであるが、ある日の夕方、当時私の住居した神田猿楽町の茅屋へ、西郷公が突然と私を訪ねて来られた。その頃西郷さんは参議というもので、廟堂ではこの上もない顕官である。私のごとき官の低い大蔵大丞ぐらいの小身者を訪問せられるなど、すでに非凡の人でなければ出来ぬことで、誠に恐れ入ったものであるが、その用談向きは、相馬藩の興国安民法についてであった。この興国安民法と申すは、二宮尊徳先生が相馬藩に聘せられた時に案出して遺され、それが相馬藩繁昌の基になったという、財政やら産業やらについての方策である。井上侯始め私等が、財政改革を行うに当たり、この二宮先生の遺された興国安民法をも廃止しようとの議があった。
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『論語と算盤』人格と修養・二宮尊徳と西郷隆盛西郷公は私に向かわれ、かくかくしかじかの次第ゆえ、せっかくの良法を廃絶さしてしまうのも惜しいから、渋沢の取り計らいでこの法の立ち行くよう、相馬藩のために尽力してくれぬか、と言われたので、私は西郷公に向かい『そんなら貴公は二宮の興国安民法とはどんなものか御承知であるか』とお訊ねすると、それは一向に承知せぬとのこと。いかなるものかも知らずにこれを廃絶せしめぬようとの御依頼は、甚だもって腑に落ちぬわけであるが、御存知なしとあらば致し方が無い、私から御説明申し上げようと、その頃すでに私は興国安民法について充分取り調べてあったので、詳しく申し述べることにした。
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二宮翁夜話・巻之四翁(おきな)曰(いわ)く、凡(およ)そ事を成さんと欲せば、始に其(その)終を詳(つまびらか)にすべし、譬(たと)へば木を伐(き)るが如き、未(いま)だ伐らぬ前に、木の倒(たお)るゝ処を、詳に定めざれば、倒れんとする時に臨(のぞ)んで、如何(いか)共仕方無し、故に、予印旛沼(いんばぬま)を見分(けんぶん)する時も、仕上げ見分をも、一度にせんと云て、如何なる異変にても、失敗なき方法を工夫せり、相馬侯(そうまこう)、興国の方法依頼(いらい)の時も、着手より以前に百八十年の収納を調(しら)べて、分度(ぶんど)の基礎(きそ)を立たり、是(これ)荒地開拓、出来上りたる時の用心なり、我方法は分度を定むるを以て本とす、此分度を確乎(かっこ)と立て、之を守る事厳(げん)なれば、荒地何程あるも借財何程あるも、何をか懼(おそ)れ何をか患(うれ)へん、我(わが)富国安民の法は、分度を定むるの一ツなればなり、夫(それ)皇国は、皇国丈(だけ)にて限れり、此外へ広(ひろ)くする事は決してならず、然れば十石は十石、百石は百石、其分を守るの外に道はなし、百石を二百石に増し、千石を二千石に増す事は、一家にて相談はすべけれ共、一村一同に為る事は、決して出来ざるなり、是(これ)安きに似て甚(はなは)だ難事なり、故に分度を守るを我道の第一とす、能此理を明にして、分を守れば、誠に安穏(あんのん)にして、杉の実を取り、苗を仕立、山に植て、其成木を待て楽(たの)しむ事を得る也、分度を守らざれば先祖より譲(ゆず)られし大木の林を、一時に伐払(きりはら)ひても、間に合ぬ様に成行く事、眼前(がんぜん)なり、分度を越(こ)ゆるの過(あやまち)恐るべし、財産ある者は、一年の衣食、是にて足ると云処を定めて、分度として多少を論ぜず、分外を譲(ゆず)り、世の為をして年を積(つ)まば、其功徳無量なるべし、釈氏(しゃくし)は世を救(すく)はんが為に、国家をも妻子をも捨(す)てたり、世を救ふに志あらば、何ぞ我分度外を、譲る事のならざらんや。
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『論語と算盤』人格と修養・二宮尊徳と西郷隆盛これを聴きつけた相馬藩では、藩の消長に関する由々しき一大事だというので、富田久助、志賀直道の両人をわざわざ上京せしめ、両人は西郷参議に面接し、いかに財政改革を行われるに当たっても、同藩の興国安民法ばかりは御廃止にならぬようにと、ともに頼み込んだものである。西郷はその頼みを容れられたのだが、大久保さんや大隈さんに話した所で取り上げられそうにもなく、井上侯なんか話でもしたら、井上侯はあの通りの方ゆえ、到底受け付けてくれそうに思われず、頭からガミガミ跳ね付けられるに決まってるので、私を説きさえすればあるいは廃止にならぬように運ぶだろうとでも思われたものか、富田志賀の両氏に対する一諾を重んじ、わざわざ一小官たるに過ぎぬ私を茅屋に訪ねて来られたのであった。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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