論語と算盤 / 理想と迷信・人生観の両面
即ち自己を主として他人や社会をば賓と心得、自己の本能を満足せしめ、自我を主張するを以て能事終れりとする、余は此の如きものを名けて主観的人生観とは言ふのである。余は今是等二者の中、事実に於て如何と考ふるに、若し後者の如き主義を以て押し通すときは、国家社会は自ら粗野となり、鄙陋となり、終には救ふべからざる衰頽になりはすまいか、それに反して前者の如き主義で拡充してゆけば、国家社会は必ず理想的のものとなつてゆくに相違ない、
書き下し
すなわち自己を主として他人や社会をば賓と心得、自己の本能を満足せしめ、自我を主張するをもって能事終われりとする。余はかくのごときものを名付けて主観的人生観とは言うのである。余は今これら二者の中、事実においていかにと考うるに、もし後者のごとき主義をもって押し通すときは、国家社会はおのずから粗野となり、鄙陋となり、ついには救うべからざる衰頽になりはすまいか。それに反して前者のごとき主義で拡充して行けば、国家社会は必ず理想的のものとなって行くに相違ない。
現代語訳
つまり自分を主とし、他人や社会を客と心得て、自分の本能を満足させ、自我を主張することで、なすべきことはすべて済んだとする。私はこのようなものを名づけて主観的人生観と言うのである。さて今、この二つのうち、実際にはどうかと考えてみると、もし後者のような主義で押し通せば、国家社会はおのずから粗野になり、卑しくなり、ついには救いようのない衰退に陥るのではないか。それに反して、前者のような主義で押し広げていけば、国家社会は必ず理想的なものになっていくに違いない。
解説
二つの人生観に名前がそろい、渋沢の判定が下される段である。自分を主、社会を賓と置き、本能を満たし自我を主張すればそれで十分とする生き方が「主観的人生観」である。これで押し通せば、国家社会は粗野で卑しいものになり、ついには救いようのない衰退に至る。逆に客観的人生観を押し広げれば、国家社会は必ず理想に近づく。渋沢の判定の基準は、個人の損得ではなく、その生き方を皆がとったとき社会がどうなるかにある。一人ひとりが義務の最低限だけを果たし、それ以上は何もしない社会を想像すれば、誰も違法なことをしていないのに、公共の事業も困った人への支えも成り立たなくなる。渋沢が養育院や病院、学校の設立に私財と時間を注いだのは、制度だけでは埋まらない隙間を、客観的人生観を持つ人々の働きで埋めるほかないと考えたからだろう。組織でも、職務記述書の範囲だけで働く人ばかりになれば、誰の担当でもない仕事が放置されていく。
関連する章句
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『論語と算盤』理想と迷信・人生観の両面しかるに前陳のようなことはまったく反対に、ただただ簡単に自分一人のことばかり考え、社会のことや他人のことなぞ考えない者もあるであろう。しかしこの人の考えのごとく社会を観察すれば、やはりそこに理屈がないでもない。すなわち自己は自己のために生まれたものである。他人のためや社会のために自己を犠牲にすることはけしからぬではないか。自己のために生まれた自己なら、どこまでも自己のために計るがよいとの主張から、社会に起こる諸事件に対し、出来得る限り自己に利益になるようにばかりして行く。例えば、借金は自分のために自分がしたのだから、これは当然払うべき義務があるから払う。租税も自分が生存しつつある国家の費用だから、当然に上納する。村費もまたそうであるが、この上他人を救うために、あるいは公共事業のために義捐するというような責任は負わない。それは他人のため社会のためにはなるであろうが、自分のためにならぬからだとなし、何でも自己のために社会を経営させようとする。
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『論語と算盤』理想と迷信・人生観の両面人はこの世に生まれた以上、必ず何らかの目的がなくては叶わぬことだが、その目的とは果たして何事であるか、いかにして遂げ得べきか、これは人の面貌の異なれるごとく、各自意見を異にしているであろうが、おそらくは次のごとく考うる人もあるであろう。それは自己の長じたる手腕にせよ、技倆にせよ、それを十分に発揮して力の限りを尽し、もって君父に忠孝を効し、あるいは社会を救済しようと心懸ける。しかしそれも漠然と心で思うだけでは何にもならぬ。やはり何らか形式に現してなさなければならぬので、ここに己の修め得たる材能に依頼して、各自の学問なり、技術なりを尽すようにする。例えば、学者ならば学者としての本分を尽し、宗教家ならば宗教家としての職責をまっとうし、政治家もその責任を明らかにし、軍人もその任務を果たすというように、各自にその能力のあらん限りを傾けてこれに心を入れる。かくのごとき場合におけるその人々の心情を察するに、むしろ自己のためというよりは君父のため、社会のためという観念という方が勝っている。すなわち君父や社会を主とし、自己のことをば賓と心得ているので、余はこれをしも客観的人生観とは名付くるのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・人生観の両面ゆえに余は客観的に与して主観的をば排斥するのである。孔子の教えに「仁者は己れ立たんと欲してまず人を立て、己れ達せんと欲してまず人を達す」と言うてあるが、社会のこと人生のことはすべてこうでなくてはならぬことと思う。己れ立たんと欲してまず人を立てと言い、己れ達せんと欲してまず人を達すと言えば、いかにも交換的の言葉のように聞こえて、自慾を充たさんがために、まず自ら忍んで人に譲るのだというような意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なものでなかったに違いない。人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、その働きを示したもので、君子人の行いの順序はかくあるべきものだと教えられたに過ぎぬのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れなるほどそう言われて見ると、この評もあるいはしからんと、自ら思い当たることがないでもない。しかしながら余は別に自己の主義とする所があって、およそ世事に処するに当たっては、一身を立つると同時に社会の事に勤め、能う限り善事を殖やし、世の進歩を図りたいとの意念を抱持している。したがって単に自己の富とか、地位とか、子孫の繁栄とかいうものは第二に置き、もっぱら国家社会のために尽くさんことを主意とするものである。されば人のために謀って善をなすことに心掛け、すなわち人の能を助けて、それを適所に用いたいとの念慮が多いのである。この心掛けがそもそも世人から誤解を招くに至った所以ではあるまいか。
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『論語と算盤』算盤と権利・合理的の経営それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心にしていた。福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数の者が読むようなものでなくては効能が薄い、著者は常に自己のことよりも国家社会を利するという観念をもって筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している。事業界のこともまたこの理にほかならぬもので、多く社会を益することでなくては正径な事業とは言われない。仮りに一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばいかがなものであろうか。いかにその人が富を積んでも、その幸福は継続されないではないか。ゆえに国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・人生観の両面換言すれば、それが孔子の処世上の覚悟であるが、余もまた人生の意義はかくあるべき筈だと思う。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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