論語と算盤 / 理想と迷信・人生観の両面
故に余は客観的に与して主観的をば排斥するのである、孔子の教に『仁者は己れ立たんと欲して先づ人を立て、己れ達せんと欲して先づ人を達す』と曰うてあるが、社会のこと人生のことは総て斯うなくては為らぬこと〻思ふ、己れ立たんと欲して先づ人を立てといひ、己れ達せんと欲して先づ人を達すといへば、如何にも交換的の言葉のやうに聞えて、自慾を充たさう為に、先づ自ら忍んで人に譲るのだといふやうな意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なもので無かつたに違ひない、人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、其の働きを示したもので、君子人の行の順序は此くあるべきものだと教へられたに過ぎぬのである
書き下し
ゆえに余は客観的に与して主観的をば排斥するのである。孔子の教えに「仁者は己れ立たんと欲してまず人を立て、己れ達せんと欲してまず人を達す」と言うてあるが、社会のこと人生のことはすべてこうでなくてはならぬことと思う。己れ立たんと欲してまず人を立てと言い、己れ達せんと欲してまず人を達すと言えば、いかにも交換的の言葉のように聞こえて、自慾を充たさんがために、まず自ら忍んで人に譲るのだというような意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なものでなかったに違いない。人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、その働きを示したもので、君子人の行いの順序はかくあるべきものだと教えられたに過ぎぬのである。
現代語訳
だから私は客観的な人生観に与し、主観的なそれを退ける。孔子の教えに「仁者は自分が立ちたいと思えばまず人を立て、自分が達したいと思えばまず人を達せしめる」とあるが、社会のことも人生のことも、すべてこうでなくてはならないと思う。自分が立ちたければまず人を立てよ、と言えば、いかにも取引の言葉のように聞こえ、自分の欲を満たすためにまず我慢して人に譲るのだ、という意味にも取れる。だが孔子の真意は決してそんな卑屈なものではなかったはずだ。人を立て、達せしめ、そのうえで自分が立ち達しようとする——それは働きの向きを示したもので、君子たる者の行いの順序はこうあるべきだと教えたにすぎないのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・顔淵篇顔淵、仁を問う。子曰く、「己に克ちて礼に復るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。」顔淵曰く、「請う、其の目を問わん。」子曰く、「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聴くこと勿かれ、礼に非ざれば言うこと勿かれ、礼に非ざれば動くこと勿かれ。」顔淵曰く、「回不敏なりと雖も、請う斯の語を事とせん。」
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孟子・離婁章句上孟子曰く、「三代の天下を得るや仁を以てし、其の天下を失ふや不仁を以てす。国の廃興存亡する所以の者も亦た然り。天子不仁なれば、四海を保たず。諸侯不仁なれば、社稷を保たず。卿大夫不仁なれば、宗廟を保たず。士庶人不仁なれば、四体を保たず。今死亡を悪みて不仁を楽しむは、
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孟子・盡心章句下孟子曰く、「不仁にして国を得る者は、之れ有り。不仁にして天下を得る者は、
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論語・憲問篇「克・伐・怨・欲、行われずんば、以て仁と為す可きか。」子曰く、「以て難しと為す可し。仁は則ち吾知らざるなり。」
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伝習録・黄省曾録問う、「『一日、己に克ちて礼に復れば、天下、仁に帰す』を、朱子は効験の説と作す。如何」と。先生曰く、「聖賢は只だ是れ己が為にするの学なり。功夫を重んじて効験を重んぜず。仁者は万物を以て体と為す。一体なる能わざるは、只だ是れ己が私、未だ忘れざるなり。全く仁体を得ば、則ち天下は皆な吾が仁に帰す。就ち是れ『八荒、皆な我が闥(たつ)に在り』の意なり。天下、皆な与するも、其の仁も亦た其の中に在り。『邦に在りて怨み無く、家に在りて怨み無し』の如きも、亦た只だ是れ自家、怨みざるなり。『天を怨みず、人を尤めず』の意の如し。然れども家邦の我を怨む無きも、亦た其の中に在り。但だ重んずる所は此に在らず」と。
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孔子家語・顏回顏回問う、「朋友の際、如何。」孔子曰わく、「君子の朋友に於けるや、心必ず非とする有れども、『吾知らず』と謂う能わず、其れ仁人なり。久しき徳を忘れず、久しき怨みを思わず。仁なるかな。」
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