論語と算盤 / 仁義と富貴・罪は金銭にあらず
勿論金銭は貴いものではあるが、又頗る卑しい物である、貴い点より言へば、金銭は労力の代表となり、約束によつて大抵の物の代価は、金銭ならでは清算の出来ぬものである、蓋し玆に金銭といふは、只金銀貨幣紙幣の類の通貨のみを指すのでは無く、総じて代償することの出来る貨財は金銭を以て評することが出来るので、金銭は財産の代称であるとも言ひ得ると思ふのである、嘗て昭憲皇太后宮の御歌を拝誦した中に、もつ人の心によりてたからとも仇ともなるは黄金なりけりとあつたやうに記憶して居るが、真に適切なる御評で、吾人の感佩服膺すべき名歌であると思ふ、然るに昔の支那人の書いたものに拠ると、一体に金銭を卑しむ風が盛んであるやうに思はれる、左伝に『小人玉を抱いて罪あり』とある類から、孟子に陽虎の言として『仁を為せば富まず、富めば仁ならず』とあるが如き、其の一例である、陽虎の如きは固より敬服すべき人物ではないが、当時にありては知言として一般から認められて居たのである、
書き下し
もちろん金銭は貴いものではあるが、またすこぶる卑しい物である。貴い点より言えば、金銭は労力の代表となり、約束によってたいていの物の代価は、金銭ならでは清算の出来ぬものである。けだしここに金銭というは、ただ金銀貨幣紙幣の類の通貨のみを指すのではなく、総じて代償することの出来る貨財は金銭をもって評することが出来るので、金銭は財産の代称であるとも言い得ると思うのである。かつて昭憲皇太后宮の御歌を拝誦した中に、もつ人の心によりてたからとも仇ともなるは黄金なりけりとあったように記憶しているが、真に適切なる御評で、吾人の感佩服膺すべき名歌であると思う。しかるに昔の支那人の書いたものによると、一体に金銭を卑しむ風が盛んであるように思われる。左伝に「小人玉を抱いて罪あり」とある類から、孟子に陽虎の言として「仁を為せば富まず、富めば仁ならず」とあるがごとき、その一例である。陽虎のごときはもとより敬服すべき人物ではないが、当時にありては知言として一般から認められていたのである。
現代語訳
もちろん金銭は貴いものではあるが、またひどく卑しいものでもある。貴い点から言えば、金銭は労力を代表するものとなり、取り決めによって、たいていの物の代価は金銭でなければ清算できない。ここで金銭と言うのは、ただ金貨・銀貨や紙幣といった通貨だけを指すのではなく、およそ代償として差し出せる財貨はすべて金銭で評価できるのだから、金銭は財産の代名詞であるとも言えると思う。かつて昭憲皇太后の御歌を拝誦した中に、「持つ人の心によって宝とも仇ともなるのは黄金であることよ」とあったように記憶しているが、まことに適切な御評であって、われわれが深く感じ入って心に刻むべき名歌であると思う。ところが昔の中国人の書いたものによると、全体に金銭を卑しむ風が盛んであったように思われる。『左伝』に「小人は玉を抱いていることで罪を得る」とある類から、『孟子』に陽虎の言葉として「仁を行えば富まず、富めば仁ではない」とあるのなどが、その一例である。陽虎などはもとより敬服すべき人物ではないが、当時にあっては、物事をよく言い当てた言葉として一般に認められていたのである。
解説
関連する章句
-
『論語と算盤』仁義と富貴・効力の有無は其人に在りとの御歌は、実に感佩敬服に堪えぬのである。しかるに世間の人々は、とかくこの金を悪用したがるものである。されば古人もこれを戒めて「小人罪なし、宝を抱くこれ罪」とか、「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過を増す」などと言ってある。論語を読んで見ても、「富みかつ貴きは、我において浮雲のごとし」と言い、または「富にして求むべくんば執鞭の士といえども、我またこれを為さん」と言い、大学には「徳は本なり、財は末なり」と言ってある。今かかる訓言を一々ここに引用したならば、ほとんど枚挙に遑なしであろうが、これは決して金を軽視してもよいという意味ではない。いやしくも世の中に立って完全の人たらんとするには、まず金に対する覚悟がなくてはならぬ。そしてかかる訓言に徴しても、社会における金の効力はいかに思察すべきものであるか、すこぶる考慮を要するのである。けだしあまりこれを重んじ過ぎるのも誤りなら、またこれを軽んじ過ぎるのもよろしくない。すなわち「国、道ありて貧かつ賤しきは恥なり、国、道なくして富かつ貴きは恥なり」と言って、孔子も決して貧乏を奨励はなさらなかった。ただ「その道をもってせざれば、これを得るとも処らざるなり」である。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・効力の有無は其人に在りかく論じ来れば、金は実に威力あるものなれども、しかしながら金はもとより無心である。善用されると悪用されるとは、その使用者の心にあるから、金は持つべきものであるか、持つべからざるものであるかは、卒爾に断定することは出来ない。金はそれ自身に善悪を判別するの力はない。善人がこれを持てば善くなる、悪人がこれを持てば悪くなる。つまり所有者の人格いかんによって善ともなり悪ともなる。この事に関しては、余は常々人に語っているが、昭憲皇太后の、もつ人の心によりて宝とも仇ともなるは黄金なりけり。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずさらにまた「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過を増す」というような意味の言を漢籍の中で読んだこともある。とにかく東洋古来の風習は、一般に金銭を卑しむこと甚だしいもので、君子は近づくべからざるもの、小人には恐るべきものとしたのであるが、畢竟貪婪飽くなき世俗の悪弊を矯めんとして、ついには極端に金銭を卑しむ様になったものと思われる。これらの説は青年諸君は深く注意を払わねばならぬ。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずしかし前述のごとく人情の弱点として、利慾の念よりともすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能のごとく考えて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となりやすいものであるが、かくなりては責めその人にありとは言うものの、金銭の禍を恐れてその価値を卑しく観るようになって、再びアリストテレスの言を繰り返さしむるに至るであろう。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ金とは現に世界に通用する貨幣の通称であって、そして諸物品の代表者なのである。貨幣が特に便利であるというのは、何物にも代わり得らるるからである。太古は物々交換であったが、今は貨幣さえあればどんなものでも心に任せて購うことが出来る。この代表的価値のある所が貴いのである。だから貨幣の第一の要件として、貨幣そのものの実価と物品の値とが等しくなければならない。もし称呼のみ同一にしてその貨幣の実価が減少すると、反対に物価は騰貴する。また貨幣は分割に便利である。ここに一円の湯呑がある。これを二人に分けようと思っても分けることは出来ない。壊して半分にして五十銭ずつに分けることは出来ない。貨幣だとそれが出来る。一円の十分の一が欲しいと思うと、十銭銀貨がある。また貨幣は物の価格を定める。もし貨幣というものがなかったなら、この茶碗と煙草盆の等級を明確に定めることは出来ない。しかるに茶碗は一個十銭、煙草盆は一円というならば、すなわち茶碗は煙草盆の十分の一に当たり、貨幣あって両者の価格は定まるのである。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらず昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行われたようであるが、これは経済に関することは、得失という点が先に立つものであるから、ある場合には謙譲とか清廉とかいう美徳を傷つけるように観えるので、常人は時としては過失に陥りやすいから、強くこれを警戒する心懸けより、かかる教えを説く人もありて、自然と一般に風習となったものであろうと思う。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る