論語と算盤 / 仁義と富貴・効力の有無は其人に在り
斯く論じ来れば、金は実に威力あるものなれども、併しながら金は固より無心である、善用さる〻と悪用されるとは、其の使用者の心にあるから、金は持つべきものであるか、持つべからざるものであるかは、卒爾に断定することは出来ない、金はそれ自身に善悪を判別するの力はない、善人が之を持てば善くなる、悪人が之を持てば悪くなる、つまり所有者の人格如何によつて善ともなり悪ともなる、此事に関しては、余は常々人に語つて居るが、昭憲皇太后の、もつ人の心によりて宝とも仇ともなるは黄金なりけり
書き下し
かく論じ来れば、金は実に威力あるものなれども、しかしながら金はもとより無心である。善用されると悪用されるとは、その使用者の心にあるから、金は持つべきものであるか、持つべからざるものであるかは、卒爾に断定することは出来ない。金はそれ自身に善悪を判別するの力はない。善人がこれを持てば善くなる、悪人がこれを持てば悪くなる。つまり所有者の人格いかんによって善ともなり悪ともなる。この事に関しては、余は常々人に語っているが、昭憲皇太后の、もつ人の心によりて宝とも仇ともなるは黄金なりけり。
現代語訳
こう論じてくると、金には実に大きな力があるが、しかし金はもともと無心である。善く使われるか悪く使われるかは、使う者の心にあるのだから、金は持つべきものか持つべきでないものかを、軽々に断定することはできない。金それ自体には善悪を判別する力がない。善人が持てば善くなり、悪人が持てば悪くなる。つまり持ち主の人格しだいで、善にも悪にもなる。このことについて私は常々人に語っているが、昭憲皇太后の御歌にこうある——持つ人の心によりて宝とも仇ともなるは黄金なりけり。
解説
金それ自体は無心である、という一点で章は貫かれている。前段で渋沢は金の力を率直に認めた。「銭ほど阿弥陀は光る」「地獄の沙汰も金次第」を引き、どんな富豪でも三等の切符なら三等にしか乗れず、どんな貧しい人でも一等を買えば一等に乗れる、それが金の効能だと言う。唐辛子を甘くはできないが、砂糖を無限に注げば辛味は消える、という比喩まで持ち出す。そのうえで、力の向きは持ち主の人格が決めると結ぶ。だから彼は金を軽んじる立場も取らない。重んじ過ぎるのも誤り、軽んじ過ぎるのも誤り。孔子も貧乏を奨励してはいない、ただ「その道を以てせざれば、これを得るとも処らざるなり」なのだ、と。
この章句が説くこと
金は無心なり宝とも仇ともなる所有者の人格地獄の沙汰も金次第