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六祖壇経 / 定慧品第四

善知識!外離一切相,名為無相;能離於相,即法體清淨;此是以無相為體。善知識!於諸境上心不染,曰無念;於自念上常離諸境,不於境上生心。若只百物不思,念盡除卻,一念絕即死,別處受生,是為大錯。學道者思之。若不識法意,自錯猶可,更勸他人,自迷不見,又謗佛經;所以立無念為宗。善知識!云何立無念為宗?只緣口說見性,迷人於境上有念,念上便起邪見,一切塵勞妄想,從此而生。自性本無一法可得;若有所得,妄說禍福,即是塵勞邪見。故此法門,立無念為宗。善知識!無者無何事?念者念何物?無者:無二相,無諸塵勞之心;念者,念真如本性。真如即是念之體,念即是真如之用。真如自性起念,非眼耳鼻舌能念,真如有性,所以起念;真如若無,眼耳色聲,當時即壞。善知識!真如自性起念,六根雖有見聞覺知,不染萬境,而真性常自在。故經云:能善分別諸法相,於第一義而不動。

新字:善知識!外離一切相,名為無相;能離於相,即法体清浄;此是以無相為体。善知識!於諸境上心不染,曰無念;於自念上常離諸境,不於境上生心。若只百物不思,念尽除却,一念絶即死,別処受生,是為大錯。学道者思之。若不識法意,自錯猶可,更勧他人,自迷不見,又謗仏経;所以立無念為宗。善知識!云何立無念為宗?只縁口説見性,迷人於境上有念,念上便起邪見,一切塵労妄想,従此而生。自性本無一法可得;若有所得,妄説禍福,即是塵労邪見。故此法門,立無念為宗。善知識!無者無何事?念者念何物?無者:無二相,無諸塵労之心;念者,念真如本性。真如即是念之体,念即是真如之用。真如自性起念,非眼耳鼻舌能念,真如有性,所以起念;真如若無,眼耳色声,当時即壊。善知識!真如自性起念,六根雖有見聞覚知,不染万境,而真性常自在。故経云:能善分別諸法相,於第一義而不動。

書き下し

善知識、外一切の相を離るるを、名づけて無相と為す。能く相を離るれば、即ち法体清浄なり。此れ是れ無相を以て体と為す。善知識、諸境の上に於て心染まらざるを、無念と曰ふ。自らの念の上に於て常に諸境を離れ、境の上に於て心を生ぜず。若し只だ百物思はず、念尽く除却せば、一念絶ゆれば即ち死して、別処に生を受く。是れ大錯と為す。道を学ぶ者之を思へ。若し法の意を識らずんば、自ら錯るは猶ほ可なるも、更に他人に勧め、自ら迷ひて見ず、又仏経を謗る。所以に無念を立てて宗と為す。善知識、云何が無念を立てて宗と為す。只だ口に見性を説くも、迷人は境の上に念有り、念の上に便ち邪見を起し、一切の塵労妄想、此より生ずるに縁る。自性には本一法の得べき無し。若し所得有りて、妄りに禍福を説かば、即ち是れ塵労邪見なり。故に此の法門は、無念を立てて宗と為す。善知識、無とは何事を無みし、念とは何物を念ずる。無とは、二相無く、諸の塵労の心無きなり。念とは、真如の本性を念ずるなり。真如は即ち是れ念の体、念は即ち是れ真如の用なり。真如自性より念を起す、眼耳鼻舌の能く念ずるに非ず。真如に性有り、所以に念を起す。真如若し無くば、眼耳色声、当時に即ち壊れん。善知識、真如自性より念を起し、六根に見聞覚知有りと雖も、万境に染まらずして、真性常に自在なり。故に経に云ふ、能く善く諸法の相を分別すれども、第一義に於て動かず、と。

現代語訳

善知識よ、外のあらゆる相(形あるもの)を離れることを無相という。相を離れることができれば、法の本体は清らかである。これが無相を本体とするということだ。善知識よ、さまざまな対象に接しても心が染まらないことを無念という。自らの念においていつも対象から離れ、対象の上に心を生じさせないのである。もしただ何も思わず、念をすべて取り除いてしまえば、一念が絶えたところで死んで、別の所に生まれ変わることになる。これは大きな誤りだ。道を学ぶ者はよく考えよ。もし法の意味を知らなければ、自分が誤るだけならまだよいが、さらに他人にも勧め、自ら迷って見えず、しかも仏の経を謗ることになる。だから無念を立てて宗旨とするのだ。善知識よ、なぜ無念を立てて宗旨とするのか。口では本性を見ると説いても、迷った人は対象の上に念を起こし、念の上に邪な見解を起こして、あらゆる塵労や妄想がそこから生じるからである。自らの本性には、もともと得るべきものは一つもない。もし何かを得たとして、みだりに禍福を説くなら、それこそが塵労であり邪見である。だからこの法門は、無念を立てて宗旨とするのだ。善知識よ、無とは何を無くすのか。念とは何を念じるのか。無とは、二つに分ける見方がなく、さまざまな塵労の心がないことである。念とは、真如の本性を念じることである。真如は念の本体であり、念は真如の働きである。真如という自らの本性から念が起こるのであって、眼・耳・鼻・舌が念じるのではない。真如に本性があるから念が起こるのだ。もし真如がなければ、眼や耳、色や声は、その場で壊れてしまう。善知識よ、真如という自らの本性から念が起こるのだから、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に見る・聞く・感じる・知るという働きがあっても、あらゆる対象に染まらず、真の本性はいつも自在である。だから経に「諸々の事物の姿をよく見分けながら、第一義(究極の真理)においては動かない」とあるのだ。

解説

慧能の教えの柱である無念・無相を正面から説く段である。無念とは何も思わないことではない。何も思わず念を断ち切ろうとするのは死と同じで大きな誤りだと、慧能ははっきり退ける。無念とは、対象に接しながらも心が染まらず、二つに分ける見方や塵労の心がないことであり、念じるのは真如の本性だという。真如が念の体で、念が真如の用だという説明は、先の定慧の体用と同じ組み立てである。見聞きし判断しながら、根本では揺るがないという結びの経文がその要約になっている。忙しい職場で雑念を消そうと力むより、情報に接しても振り回されない軸を持つことのほうが、はるかに現実的である。

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