驢鞍橋 / 卷中
山姥抔が謠から作つたと見えたり、仕形餘り面白からず。しかれは山姥の後シテの出端に、あらものすごの深谷や深谷やと云つて出るは惡し。なに山うばの深谷のすでいと云ふ事あらんや。爰をは他にうたはせたし、其の出ろふな機をうたふ位也。寒林に骨を打つ靈鬼嘆々前生の業を恨む、林野に花を供する天人返す返す幾生の善を悅ぶと、爰までうたはせたし。是は善惡の二つを云ひ立たる處也。此の時、いや善惡不二、何をか恨み何をか悅はんと云つて出てよし。又ツレに恐しや月もこぶかき山かげより其さまけしたる顏ばせは、其の山姥にてまし本のまますかと云ふも、古本の如く、そも山うばにてかよそふな。黒雪なほすと云ふか其の山姥かとい、何とず我伯母かなんずの樣な云ひ樣也。又クセにあし引の山うばか山めぐりするぞ苦しきと云ふも惡し。山姥の山めぐり苦しかるへき道理なし、山廻りするそ妙なると云ひたし。
新字:山姥抔が謡から作つたと見えたり、仕形余り面白からず。しかれは山姥の後シテの出端に、あらものすごの深谷や深谷やと云つて出るは悪し。なに山うばの深谷のすでいと云ふ事あらんや。爰をは他にうたはせたし、其の出ろふな機をうたふ位也。寒林に骨を打つ霊鬼嘆々前生の業を恨む、林野に花を供する天人返す返す幾生の善を悦ぶと、爰までうたはせたし。是は善悪の二つを云ひ立たる処也。此の時、いや善悪不二、何をか恨み何をか悦はんと云つて出てよし。又ツレに恐しや月もこぶかき山かげより其さまけしたる顔ばせは、其の山姥にてまし本のまますかと云ふも、古本の如く、そも山うばにてかよそふな。黒雪なほすと云ふか其の山姥かとい、何とず我伯母かなんずの様な云ひ様也。又クセにあし引の山うばか山めぐりするぞ苦しきと云ふも悪し。山姥の山めぐり苦しかるへき道理なし、山廻りするそ妙なると云ひたし。
書き下し
山姥抔が謡から作つたと見えたり、仕形余り面白からず。しかれは山姥の後シテの出端に、あらものすごの深谷や深谷やと云つて出るは悪し。なに山うばの深谷のすでいと云ふ事あらんや。爰をは他にうたはせたし、其の出ろふな機をうたふ位也。寒林に骨を打つ霊鬼嘆々前生の業を恨む、林野に花を供する天人返す返す幾生の善を悦ぶと、爰までうたはせたし。是は善悪の二つを云ひ立たる処也。此の時、いや善悪不二、何をか恨み何をか悦はんと云つて出てよし。又ツレに恐しや月もこぶかき山かげより其さまけしたる顔ばせは、其の山姥にてまし本のまますかと云ふも、古本の如く、そも山うばにてかよそふな。黒雪なほすと云ふか其の山姥かとい、何とず我伯母かなんずの様な云ひ様也。又クセにあし引の山うばか山めぐりするぞ苦しきと云ふも悪し。山姥の山めぐり苦しかるへき道理なし、山廻りするそ妙なると云ひたし。
現代語訳
山姥などは謡から作ったと見える。所作があまり面白くない。だから山姥の後シテの登場に、「あらものすごの深谷や、深谷や」と言って出るのは悪い。どうして山姥が深い谷をすごいなどと言うことがあろうか。ここは他の者に謡わせたい。その出て来そうな気配を謡うぐらいにとどめるのだ。「寒林に骨を打つ霊鬼は、嘆き嘆き前生の業を恨み、林野に花を供える天人は、かえすがえす幾生の善を喜ぶ」と、ここまで他の者に謡わせたい。これは善と悪の二つを言い立てた所である。そのとき(山姥が)「いや善悪は不二、何を恨み何を喜ぶことがあろう」と言って出るのがよい。また、ツレに「恐ろしや、月も木深き山陰より、その様変わった顔つきは、その山姥にてましますか」と言わせるのも、古本のように「そも山姥にて」(以下、本文が乱れて読み取りにくい)……まるで「うちの伯母か何か」のような言い方である。また、クセで「あしびきの山姥が山巡りするぞ苦しき」と言うのも悪い。山姥の山巡りが苦しいはずがない。「山巡りするぞ妙なる」と言いたい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中総而此の山うばが能くすまぬに仍て、云ひ錯り多き也。又キリにめぐりめぐり輪廻をはなれぬ、妄執の雲の塵積て山姥と成ると云ふも大なる錯也。始は上求菩提を現し下化衆生を表すと云ひ、又抑も山姥は生所も知らす宿もなし、只雲水を便りにて、至らぬ山の奥もなし抔と、慥に真如の妙用を造りけるか、爰ては又妄執の雲の塵積て山うばとなると、尽く凡夫にしなしたり。是れ錯にあらすや。爰を廻り廻りて真如の自性を現じ現す鬼女か有様見よや見よやと云ひたしと也。
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『驢鞍橋』卷中又卒都婆小町のワキのサシに、抑も是は高野より出てたる僧と云ふ時は、先づ弘法よ、しかるに我か為めに心も留むる子もなしと云ふは不出来也。なに出家のまた子を持つと云ふことあらんや。又哀やげにと云ふ処にて、右のかげの女とて若きを連れ出したし。又花さきし木はかくれなしと云ふても卒都婆のしるしに成り難し。又逆縁なりと浮ふへしと云ふもよわい言ひ様也。又我は其の時力を得と云ふも悟道の人に似合はぬ云ひ様なり。又歌もでき口にて、意に当らず。
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『驢鞍橋』卷中又のふ物たべのふと狂ひ出るも大なる錯也。なに悟道人の気の違ふと云ふことあらんや。爰を古の狂気の有様学はんて御見せ候へと云つて、さらいゑぼしをめせと仕によせ、アヒの男を出し、さて其の後出てまねに狂ふにしたし。又キリに花を仏に手向つゝ悟の道に入らうよと云ふも、相違した云ひやう也。又凡夫に仕成したり、でかい錯ではをりないか故に我造り直しけるを松平和泉守殿見て、観世左近太夫にみせ、御前能の時分させんと云つて取り給ふ也
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『驢鞍橋』卷中因に語て曰く、謡は能く作りしもの也。日本にて造りしものには恐らくは一番なるべし。先つ言はよふつゝけたり。同く節仕形いづれも好し。言葉も仏法げな事はどうも云はんずが、熊野松風抔の様なるが、就中云はれましきと思ふ也。去りなから熊野の口に、是は平の宗盛也、ゆやと申す女に抔云ふたは、近比たはけた云ひ様也。能に見て笑し。又斑女に扇を出して、一つ事を重らぬやうに長く云ふた抔は、さりとてはよい云ひ様なり。扨て又仕形から造つた謡も有りと見えたり。是れは謡が面白くもなし。又謡から仕形を付けたも有りと見えたり。何としても是はしかた次也。
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『驢鞍橋』卷中問ふ、古歌に曰く、「中々に深山の奥そ住よけれ草木は人の是非を云はねは」是れ道歌也と承る、是なりや。師聞て曰く、我字直したき処あり。俗云ふ、何れの字なりや。師曰く、「中々に深山の奥そ住受けれ草木は人の是非を云はねは。」
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『驢鞍橋』卷中其の古へのうき事を思ひ出るもうらあせや。コ□古へを思ひ出るもうらめしいとは。如何なる故そや。しいいじじと思べとも。さたぎさんげの功徳の為めに。古への有様語てきかせ申し候ふへし。若きさかり色ふかく。人の思ひを身に受けててみみ玉章の数々に心をつくす其中に。一入思ひ深草の四位の少将の執心。身にむくひ来て物化となり狂気せしこと。中々申すも浅間しうこそ候へ。ヨ□マイは少将の念力に仍て狂気したまひけるみや。おなしくは狂気の有様を学ふて御見せ候へ。ルケラらめしとは思へとも連もさんぜの功徳なれば。学ふて御僧に見せ申すへし。
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