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驢鞍橋 / 卷中

去る人來て曰く、此比或る長老追腹切る者に向て曰く、後世の義心安かるべし。某能く弔はんと有りけれは、彼の者曰く、我を弔ひ有る事は御無用也。只檀那を能く弔ひ有るへし地獄へも極樂へも我は御供申し參る也と云へは長老ひしとつまれりたり師聞て曰く我ならは云ふへし。ろれつれのばかを云ふか、道理であほばらを切る也。處に往けはよしと思ふや、今生にても、主と一處に有る者、賢にして主の用に立つ者あり又愚にして主人の怨と成る者あり。其上死しては自由に一處に徃くと思ふや、主は主、下人は下人、親は親、子は子、己れ己れが業次第に善所へも惡趣へも往く也。故に吊に仍て業を轉ぜずと也

新字:去る人来て曰く、此比或る長老追腹切る者に向て曰く、後世の義心安かるべし。某能く弔はんと有りけれは、彼の者曰く、我を弔ひ有る事は御無用也。只檀那を能く弔ひ有るへし地獄へも極楽へも我は御供申し参る也と云へは長老ひしとつまれりたり師聞て曰く我ならは云ふへし。ろれつれのばかを云ふか、道理であほばらを切る也。処に往けはよしと思ふや、今生にても、主と一処に有る者、賢にして主の用に立つ者あり又愚にして主人の怨と成る者あり。其上死しては自由に一処に往くと思ふや、主は主、下人は下人、親は親、子は子、己れ己れが業次第に善所へも悪趣へも往く也。故に吊に仍て業を転ぜずと也

書き下し

去る人来て曰く、此比或る長老追腹切る者に向て曰く、後世の義心安かるべし。某能く弔はんと有りけれは、彼の者曰く、我を弔ひ有る事は御無用也。只檀那を能く弔ひ有るへし地獄へも極楽へも我は御供申し参る也と云へは長老ひしとつまれりたり師聞て曰く我ならは云ふへし。ろれつれのばかを云ふか、道理であほばらを切る也。処に往けはよしと思ふや、今生にても、主と一処に有る者、賢にして主の用に立つ者あり又愚にして主人の怨と成る者あり。其上死しては自由に一処に往くと思ふや、主は主、下人は下人、親は親、子は子、己れ己れが業次第に善所へも悪趣へも往く也。故に吊に仍て業を転ぜずと也

現代語訳

ある人が来て言った。近ごろ、ある長老が、追腹を切る者に向かって「後世のことは安心なさい。私がよく弔おう」と言ったところ、その者は「私を弔うことは無用です。ただ旦那(主君)をよく弔ってください。地獄へも極楽へも、私はお供して参るのです」と言ったので、長老はぐっと詰まってしまった、と。師は聞いて言われた。私なら言うだろう。「それそれ、ばかなことを言うのか。そういう料簡だから、あほうな腹を切るのだ。同じところへ行けばよいと思うのか。この世でも、主君と一緒にいる者の中に、賢くて主君の役に立つ者もあれば、愚かで主君の害となる者もある。そのうえ死んでからは、自由に同じところへ行けると思うのか。主は主、家来は家来、親は親、子は子、それぞれの業しだいで善所へも悪趣へも行くのである」。だから弔いによって業が転じることはないのだ、と。

解説

追腹は、主君の死に殉じて家臣が切腹することで、正三の生きた江戸初期にはなお多く行われていた。追腹を切る男は、地獄にも極楽にも主君のお供をするから弔いは要らないと言い、長老は言い返せなかった。正三は、死後の行き先は主従の縁ではなく各自の業で決まると言い、その思い込みを愚かだと断じた。この世ですら主君の役に立つ者と害になる者がいるのに、死ねば一緒になれると思うのは筋違いだというのである。誰かに殉じる覚悟より、自分の行いに責任を持つことこそが問われている。

この章句が説くこと

殉死業主従後生責任弔い

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