驢鞍橋 / 卷上
夜話に曰く、口にて云ふ處は老子の敎も、孔子の敎も、昔天竺に發興せし外道の敎も、佛道も一つ也。少しも替はる事なし。御坊主達分ち得るや。良有りて曰、諸道皆分別を以て、修し詰めたる處を至極として、分別の外に心の開くると云ふ事を不知、佛祖の道は心の開くる事を本意とす。同じ佛法の中にも、敎家には經敎の道理を能くすまし窮めたるより外、別の事無しと思ひ、道理の外に意の移つると云ふ事を不知、禪法のみ文字に不依、道理を離れて只意を得る事を本意とす。此道は學文する程、道理に落ちて意に遠く成る也。此故に禪宗には學解を堅く制すると也。
新字:夜話に曰く、口にて云ふ処は老子の教も、孔子の教も、昔天竺に発興せし外道の教も、仏道も一つ也。少しも替はる事なし。御坊主達分ち得るや。良有りて曰、諸道皆分別を以て、修し詰めたる処を至極として、分別の外に心の開くると云ふ事を不知、仏祖の道は心の開くる事を本意とす。同じ仏法の中にも、教家には経教の道理を能くすまし窮めたるより外、別の事無しと思ひ、道理の外に意の移つると云ふ事を不知、禅法のみ文字に不依、道理を離れて只意を得る事を本意とす。此道は学文する程、道理に落ちて意に遠く成る也。此故に禅宗には学解を堅く制すると也。
書き下し
夜話に曰く、口にて云ふ処は老子の教も、孔子の教も、昔天竺に発興せし外道の教も、仏道も一つ也。少しも替はる事なし。御坊主達分ち得るや。良有りて曰、諸道皆分別を以て、修し詰めたる処を至極として、分別の外に心の開くると云ふ事を不知、仏祖の道は心の開くる事を本意とす。同じ仏法の中にも、教家には経教の道理を能くすまし窮めたるより外、別の事無しと思ひ、道理の外に意の移つると云ふ事を不知、禅法のみ文字に不依、道理を離れて只意を得る事を本意とす。此道は学文する程、道理に落ちて意に遠く成る也。此故に禅宗には学解を堅く制すると也。
現代語訳
夜話で言われた。口で言うところは、老子の教えも、孔子の教えも、昔インドに起こった外道の教えも、仏道も一つである。少しも変わりはない。御坊主たちは、見分けられますか。しばらくして言われた。諸道はみな、分別によって修め詰めたところを極みとして、分別の外に心が開けるということを知らない。仏祖の道は、心が開けることを本意とする。同じ仏法の中でも、教家では経典の道理をよく澄まし究めたほかに、別のことはないと思い、道理の外に心が移るということを知らない。禅法だけが文字によらず、道理を離れて、ただ心を得ることを本意とする。この道は学問をするほど、道理に落ちて心から遠くなる。だから禅宗では学問の理解を固く制するのだ、と。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段答ふ、厚き志し過分の至りなり。先づ今日教へをなす志しを語らん。孟子曰く、人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教へ無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふること有り、契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り、と。此の五つの者を能くするを学問の功とす。これにて古人の学と云ふ者を知るべし。論語学而の篇にも、大抵皆本を務むることを多くせり。人倫の大原は天に出でて、仁義礼智の良心よりなす。孟子又曰く、学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。此の心を知りて後に、聖人の行ひを見て法を取るべし。君の道を尽くし玉ふは堯にあり、孝の道を尽くし玉ふは舜にあり、臣の道を尽くし玉ふは周公にあり、学問の道を尽くし玉ふは大聖孔子なり。此れ皆孟子の所謂性のままにして、上下天地と流れを同じくす。
-
『洗心洞箚記』卷下・第百條小程子曰く、学なる者は、人をして内に求めしむるなり。内に求めずして外に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか外と謂ふ、文を以て主と為す者、是れなり。学なる者は、人をして本に求めしむるなり。本に求めずして末に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか末と謂ふ、詳略を考へ、同異を採る者、是れなり。是の二者は、皆身に益無し、君子は学ばず、と。程子の此等の説は、陽明先生の精一の学と異なること無し。学者宜しく心を平らかにして以て之を見るべきなり。
-
『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
-
『都鄙問答』卷之四・學者ノ行狀心得難キヲ問ノ段答ふ、いかにも書物を読むことにて候。然れども書物を読みて、書の心を知らざれば、学問とはいはず。聖人の書は、自ら心を含め玉ふ。其心を知るを学問と云ふ。然るに文字ばかりを知るは、一芸なるゆへに、文字芸者と云ふ。曰く、書を読むは同じくして、汝今分けて二つとするは、証あることに候や。
-
『翁問答』下卷之本体充問曰、正真の学問は書物を読まずしてもなるものなりと承候へば、おほへにくき書物をよみ講釈を聞申ことはむづかしきに、いらぬ事かと存候。師の曰、大むかしの文字なき代には書物なきによつて、只聖人の言行を手本として学問をつとめたり、伏犠易書をつくり給ひ、文字はじまりてのちは、書物を読みその本意を講習し、わか心のかゞみとして学問をつとむるなり、
-
『翁問答』序志学の年より、心に守り身に行べき、道理を求め得まく思ひ立て、禅門教門の釈教を、年経て学ふと雖、其言詖遁にして其道偏僻なり、其法亦人倫日用の受用に便りあらざる故に儒門に入て四書五経の真教を受て、切磋琢磨を励ませ共、三隅を反せざる程の下愚なれば、開悟の自得難及、既に道に立可き年をも空しく打過ぬ、愚者の誤る習ひなれば性の拙き事を忘て、却て師範の其人に非ざるかと疑ひ、明哲の先学もがなと寤寐に忘れず、