驢鞍橋 / 卷下
一日、語て曰く、言句に叶ひたると自性に叶ひたるとは各別也。何れも少し徹して覺えたり。喩へは諸行無常の意に徹すれは、事々に諸行無常の文先きに出る位あり。扨て又自性に叶ひたるは、無し無し無しで無体也。大に差別有りと也。
新字:一日、語て曰く、言句に叶ひたると自性に叶ひたるとは各別也。何れも少し徹して覚えたり。喩へは諸行無常の意に徹すれは、事々に諸行無常の文先きに出る位あり。扨て又自性に叶ひたるは、無し無し無しで無体也。大に差別有りと也。
書き下し
一日、語て曰く、言句に叶ひたると自性に叶ひたるとは各別也。何れも少し徹して覚えたり。喩へは諸行無常の意に徹すれは、事々に諸行無常の文先きに出る位あり。扨て又自性に叶ひたるは、無し無し無しで無体也。大に差別有りと也。
現代語訳
ある日語って言われた。言句にかなったのと、自性にかなったのとは、まったく別である。誰でも少し徹して覚えたことがある。たとえば、諸行無常の意に徹すると、事々に諸行無常の文が先に出てくる位がある。さてまた、自性にかなったのは、無し無し無しで、形がないのである。大きな違いがある、と。
解説
言葉にかなうことと、自分の本性にかなうこととは、まったく別だ、と正三は言う。諸行無常を深く理解すると、何を見ても諸行無常という言葉が先に浮かぶようになる。これは言葉にかなった段階である。本性にかなうと、言葉さえ浮かばず、ただ無し無しで形がない、と。何を見ても学んだ言葉で解釈してしまうのは、まだ言葉にとらわれている証拠だ、という指摘は、知識を身につけた人ほど心に留めたい区別である。
この章句が説くこと
言句自性諸行無常言葉のとらわれ体得区別
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日語て曰く、我は言句を聞くに、是れは理致にて分かる事、是れは意にて知る、言句によらぬ事ぢやと云ふ事が、聞きと早や胸にて分かる也。各々も修し行せられば、祖意も言句の意も移つるべし。扨亦機の移つると云ふ事知りめされたるか、我も四季の機抔は其儘移つる也。强く錬鍛へて心さへ磨くれば、四時の機も不浄も無常も移つる物なれども、皆機がういて走る程に移つるへき様なし。しつかとした機無くして修行成り難しと也。
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『驢鞍橋』卷上一日意の暗き行者を諫めて曰く、其方は先づ言句を錬鍛べて意に徹すへし。彼者云、某一処を守る機有り、熟せば万事に相応すべき間、言句の意を明めて詮なしと存ず。但し無理に强く修すると、意を受くると差別有りや。師曰、中々意暗くしては修行はかどるべからす、先づ其方は専ら意を受習はるべしと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、実有と云ふ事離れがたき物也。我も人も家屋金銀万事目の前にきらりつと有る事なれば、如何にしても無しとは思はれぬ也。兎角本性を見ずんば、実有は醒むへからす。我も此時節には逢ひたれとも、自由に使ふ事はならす。平生此糞袋に眼を着けて、行住坐臥大小便裏、少しも指置かす、□すだわ事の苦体め哉と、急度睨付けて居る機强く備つて居る也。然れどもまだはらりつと隙は明かぬ也。乍去我見解も少しなれとも、是程にても亦使はるる事有りと也。
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『驢鞍橋』卷上時に或人云、此比去る処に遁世者有り、誠に彼等も異風に見えたり、乍去理を説く事明なり。師聞て曰、云ひ習へば如何程の事も云ふ物也。今時の仏法者理窟に落ちて、是と思ふ諸人も、是れを貴き事に思つて、此人を貴ぶ也。誠に理窟程用に立たぬ物なし、却て大なる怨と成る物也。我も若き時此に錯りたる事有り、必ず理窟に落ちめさるゝなと也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、生付て無漏に近き性と、有漏の强い性あり。関山の褒め給ふ如く、いかき性は、生付て無漏に近き性也。何として分別し回つて、丈夫に物を仕損せぬやうな機は、実の强き性也。なにほど真実ありても、実の失すまじき性哉と思はるゝ生付もあるもの也。
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『驢鞍橋』卷下一日曰く、今時語録等を講釈する人、一字をも読損するは大きなる耻也。其故は、我心を読出して人に聞かすること也。はや一言で知るゝ者也。習ひことの間は、皆誦損ひ多かるべしと也。