立正安国論 / 『立正安国論』正行と雑行を分ける文
又云善導和尚立正雜二行捨雜行歸正行之文第一讀誦雜行者除上觀經等往生淨土經已外於大小乘顯密諸經受持讀誦悉名讀誦雜行第三禮拜雜行者除上禮拜彌陀已外於一切諸佛菩薩等及諸世天等禮拜恭敬悉名禮拜雜行私云見此文弥須捨雜修專貴捨百卽百生專修正行堅執千中無一雜修雜行乎行者能思量之
新字:又云善導和尚立正雑二行捨雑行帰正行之文第一読誦雑行者除上観経等往生浄土経已外於大小乗顕密諸経受持読誦悉名読誦雑行第三礼拝雑行者除上礼拝弥陀已外於一切諸仏菩薩等及諸世天等礼拝恭敬悉名礼拝雑行私云見此文弥須捨雑修専貴捨百即百生専修正行堅執千中無一雑修雑行乎行者能思量之
書き下し
又云わく、善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰するの文。第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いて已外、大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを、悉く読誦雑行と名づく。第三に礼拝雑行とは、上の礼拝弥陀を除いて已外、一切の諸仏菩薩等、及び諸の世天等に於て礼拝恭敬するを、悉く礼拝雑行と名づく。私に云わく、此の文を見るに、弥いよ須く雑修を捨てて専を貴ぶべし。百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能く之を思量せよ。
現代語訳
また『選択集』にはこうあります。善導和尚が正行と雑行の二つを立てて、雑行を捨てて正行に帰せよと説いた文。第一に読誦雑行とは、先に挙げた『観無量寿経』など往生浄土の経を除いて、それ以外の大乗・小乗、顕教・密教の諸経を受け持ち読誦することを、すべて読誦雑行と名づける。第三に礼拝雑行とは、先の阿弥陀仏を礼拝することを除いて、それ以外の一切の諸仏・菩薩など、さらには諸々の世の天などを礼拝し敬うことを、すべて礼拝雑行と名づける。私(法然)が言う。この文を見ると、いよいよ雑修を捨てて専修を貴ばなければならない。百人が百人とも往生できる専修の正行を捨てて、千人に一人も往生できない雑修の雑行に、かたくなに執着してよいだろうか。修行者はよくこのことを思いめぐらせなさい。
解説

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立正安国論・『立正安国論』捨閉閣抛への批判就きて之を見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて、聖道・浄土、難行・易行の旨を建て、法華・真言を以て、一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を惣じて、皆聖道・難行・雑行等に摂し、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ。此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧、十方の仏弟子等を、皆群賊と号して併せて罵詈せしむ。迄に所依の浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法」の誓文に背き、遠く一代五時の肝心たる法華経第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」の誠文に迷えり。是に於て代は末代に及び、人は聖人に非ず、各冥衢に容れて並びに直道を忘る。悲しいかな、瞳矇を拊たず。痛ましいかな、徒に邪信を催す。
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立正安国論・『立正安国論』最後の結句と聖道門を閣く又云わく、念仏の行者必ず三心を具足すべきの文。観無量寿経に云わく、同経の疏に云わく、問うて云わく、若し解行不同の邪雑の人等、外の邪異見の難を防ぐ。或いは行くこと一分二分にして、群賊等喚び廻すとは、即ち別解別行・悪見の人等に喩う。私に云わく、又此の中に一切の別解別行・異学異見等と言うは、是れ聖道門を指す已。又最後の結句の文に云わく、夫れ速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に、且く聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正雑二行の中に、且く諸の雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし、已上。
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立正安国論・『立正安国論』難行道と易行道の区別曇鸞法師の往生論注に云わく、謹んで案ずるに、龍樹菩薩の十住毘婆沙に云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一には難行道、二には易行道なり。此の中、難行道とは即ち是れ聖道門なり。易行道とは即ち是れ浄土門なり。浄土宗の学者は、先ず須く此の旨を知るべし。設い先に聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らば、須く聖道を棄てて浄土に帰すべし。
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立正安国論・『立正安国論』法然の選択集を挙げる主人曰わく、後鳥羽院の御宇に法然有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し、偏に十方の衆生を迷わす。其の選択に云わく、道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文。初めに聖道門とは、之に就いて二有り。乃至 之に准じて之を思うに、応に密大及以び実大を存すべし。然れば則ち今真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、此等の八家の意、正しく此に在るなり。
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立正安国論・『立正安国論』謗法を断つ根拠法華経に云く、若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん、と。夫れ経文顕然なり、私の詞何ぞ加えん。凡そ法華経の如きは、大乗経典を謗ずる者は無量の五逆に勝れり、故に阿鼻大城に堕ちて、求むるに出づる期無し。涅槃経の如きは、設い五逆の供をば許すとも、謗法の施をば許さず。蟻子を殺す者は必ず三悪道に落ち、謗法を禁ずる者は定めて不退の位に登る。所謂覚徳は是れ迦葉仏、有徳は則ち釈迦文なり。法華涅槃の経教は、一代五時の肝心なり。其の禁、実に重し、誰か帰仰せざらんや。而るに謗法の族、正道を忘るるの人、剰え法然の選択に依り、弥いよ愚癡の盲瞽を増す。是を以て或は彼の遺体を忍びて木画の像を露わし、或は其の妄説を信じて莠言の模を彫り、之を海内に弘め、之を郭外に翫ぶ。仰ぐ所は則ち其の家風、施す所は則ち其の門弟なり。然る間、或は釈迦の手の指を切りて弥陀の印相を結び、或は東方如来の雁宇を改めて西土教主の鵝王を居え、或は四百余廻の如法経を止めて西方浄土の三部経を成し、或は天台大師の講を停めて善導の講と為す。此くの如き群類、其の誠に尽くし難し。是れ仏を破するに非ずや、是れ法を破するに非ずや、是れ僧を破するに非ずや。此の邪義は則ち選択に依るなり。嗟呼悲しきかな、如来誠諦の禁言に背くこと。哀れなるかな、愚侶迷惑の麁語に随うこと。早く天下の静謐を思わば、須く国中の謗法を断つべし。
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立正安国論・『立正安国論』主人の再反論主人、笑みて止めて曰く、辛きを蓼葉に習いて、臭きを溷厠に忘る。善言を聞きて悪言と思い、謗者を指して聖人と謂い、正師を疑いて悪侶に擬す。其の迷い誠に深く、其の罪浅からず。事の起こりを聞け。委しく其の趣を談ぜん。釈尊説法の内、一代五時の間に先後を立て、権実を弁ず。而るに曇鸞・道綽・善導は既に権に就いて実を忘れ、先に依りて後を捨つ。未だ仏教の淵底を探らざる者なり。就中、法然は其の流れを酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経六百三十七部二千八百八十三巻、并びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等に、捨閉閣抛の字を置きて、一切衆生の心を蕩かす。是れ偏に私曲の詞を展べ、全く仏経の説を見ず。妄語の至り、悪口の科、言にして比無く、責めて余り有り。人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。故に浄土の三経を崇めて衆経を抛ち、極楽の一仏を仰ぎて諸仏を忘る。誠に是れ諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の讐敵なり。此の邪教、広く八荒に弘まり、周く十方に遍し。