立正安国論 / 『立正安国論』経典の数と念仏一門
又云貞元入藏録中始自大般若經六百卷終于法常住經顯密大乘經惣六百三十七部二千八百八十三卷也皆須攝讀誦大乘之一句當知隨他之前暫雖開定散門隨自之後還閉定散門一開以後永不閉者唯是念佛一門
新字:又云貞元入蔵録中始自大般若経六百巻終于法常住経顕密大乗経惣六百三十七部二千八百八十三巻也皆須摂読誦大乗之一句当知随他之前暫雖開定散門随自之後還閉定散門一開以後永不閉者唯是念仏一門
書き下し
又云わく、貞元入蔵録の中に、大般若経六百巻より始めて法常住経に終わるまで、顕密大乗の経、惣じて六百三十七部二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし。当に知るべし、他に随うの前には暫く定散の門を開くと雖も、自に随うの後には還って定散の門を閉ず。一たび開いて以後永く閉じざる者は、唯是れ念仏の一門なり。
現代語訳
また『選択集』にはこうあります。『貞元新定釈教目録』の入蔵録の中に、『大般若経』六百巻に始まり『法常住経』に終わるまで、顕教・密教の大乗経は合わせて六百三十七部、二千八百八十三巻である。これらは皆、読誦大乗という一句のうちに収めなければならない。次のことを知るべきである。相手の機根に随う段階では、しばらく定善と散善の門を開いたが、仏自身の本意に随う段階では、かえって定善と散善の門を閉じた。一度開いた後、永く閉じられることのない門は、ただ念仏の一門だけである。
解説
経典の総数を示し、それらすべてを読誦という一句に収めたうえで、一度開いて二度と閉じない門は念仏だけだと結ぶ文です。『選択集』の論理は、数の多い教えを整理し、最後に一つに絞る流れになっています。日蓮はこの絞り込みが、法華経をはじめとする諸経を排斥する結論につながることを問題としました。宗派間の論争の中の主張として読む必要があります。現代の仕事で見ると、情報や選択肢が膨大なときに一つに絞る誘惑と、その危うさの双方に気づかされます。絞ること自体は有効ですが、絞った根拠を検証し続けなければなりません。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
貞元入蔵録大般若経定散念仏一門読誦大乗
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立正安国論・『立正安国論』捨閉閣抛への批判就きて之を見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて、聖道・浄土、難行・易行の旨を建て、法華・真言を以て、一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を惣じて、皆聖道・難行・雑行等に摂し、或は捨て、或は閉じ、或は閣き、或は抛つ。此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧、十方の仏弟子等を、皆群賊と号して併せて罵詈せしむ。迄に所依の浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法」の誓文に背き、遠く一代五時の肝心たる法華経第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」の誠文に迷えり。是に於て代は末代に及び、人は聖人に非ず、各冥衢に容れて並びに直道を忘る。悲しいかな、瞳矇を拊たず。痛ましいかな、徒に邪信を催す。
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