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臨済録 / 行録

師諱義玄,曹州南華人也,俗姓邢氏,幼而頴異,長以孝聞。及落髮受具,居於講肆,精究毘尼,博賾經論,俄而歎曰:「此濟世之醫方也,非教外別傳之旨。」即更衣游方,首參黃蘗,次謁大愚,其機緣語句載于行錄。既受黃蘗印可,尋抵河北鎮州城東南隅,臨滹沱河側小院住持,其臨濟因地得名。時普化先在彼,佯狂混眾,聖凡莫測。師至即佐之。師正旺化,普化全身脫去,乃符仰山小釋迦之懸記也。適丁兵革,師即棄去,太尉默君和於城中捨宅為寺,亦以臨濟為額迎師居焉。後拂衣南邁至河府,府主王常侍延以師禮。住未幾,即來大名府興化寺,居于東堂。師無疾,忽一日攝衣據坐,與三聖問答畢,寂然而逝,時唐咸通八年丁亥孟陬月十日也。門人以師全身建塔于大名府西北隅,勅諡慧照禪師,塔號澄靈。合掌稽首,記師大略。住鎮州保壽嗣法小師延沼謹書。

新字:師諱義玄,曹州南華人也,俗姓邢氏,幼而頴異,長以孝聞。及落髪受具,居於講肆,精究毘尼,博賾経論,俄而嘆曰:「此済世之医方也,非教外別伝之旨。」即更衣游方,首参黄蘗,次謁大愚,其機縁語句載于行録。既受黄蘗印可,尋抵河北鎮州城東南隅,臨滹沱河側小院住持,其臨済因地得名。時普化先在彼,佯狂混衆,聖凡莫測。師至即佐之。師正旺化,普化全身脱去,乃符仰山小釈迦之懸記也。適丁兵革,師即棄去,太尉黙君和於城中捨宅為寺,亦以臨済為額迎師居焉。後払衣南邁至河府,府主王常侍延以師礼。住未幾,即来大名府興化寺,居于東堂。師無疾,忽一日摂衣拠坐,与三聖問答畢,寂然而逝,時唐咸通八年丁亥孟陬月十日也。門人以師全身建塔于大名府西北隅,勅諡慧照禅師,塔号澄霊。合掌稽首,記師大略。住鎮州保寿嗣法小師延沼謹書。

書き下し

師、諱は義玄、曹州南華の人なり。俗姓は邢氏。幼にして穎異、長じて孝を以て聞こゆ。落髪受具するに及んで、講肆に居り、毘尼を精究し、経論を博賾(はくさく)す。俄にして歎じて曰く、「此れは済世の医方なり、教外別伝の旨に非ず。」即ち衣を更えて游方し、首めに黄檗に参じ、次に大愚に謁す。其の機縁の語句は行録に載す。既に黄檗の印可を受け、尋いで河北鎮州城の東南隅に抵(いた)り、滹沱河の側に臨む小院に住持す。其の臨済は地に因って名を得たり。時に普化先に彼に在り、佯狂して衆に混じ、聖凡測る莫し。師至るや即ち之を佐く。師正に化を旺んにするに、普化全身脱去す。乃ち仰山小釈迦の懸記に符するなり。適(たまた)ま兵革に丁(あた)り、師即ち棄て去る。太尉默君和、城中に於いて宅を捨して寺と為し、亦た臨済を以て額と為し師を迎えて居らしむ。後に払衣して南邁し河府に至る。府主王常侍、師礼を以て延く。住すること未だ幾ばくならずして、即ち大名府の興化寺に来たり、東堂に居す。師、疾無くして、忽ち一日、衣を摂めて拠坐し、三聖と問答し畢って、寂然として逝く。時に唐の咸通八年丁亥、孟陬月十日なり。門人、師の全身を以て塔を大名府の西北隅に建つ。勅して慧照禅師と諡し、塔を澄霊と号す。合掌稽首して、師の大略を記す。鎮州保寿の嗣法の小師延沼謹んで書す。

現代語訳

師は諱(いみな)を義玄といい、曹州南華(そうしゅうなんか、今の山東省)の人である。俗姓は邢(けい)氏。幼いころから抜きん出て聡明で、長じては孝行で知られた。出家して具足戒を受けると、経論の講席に身を置いて毘尼(びに、戒律)を精しく究め、経と論を広く深く探った。ところがにわかに嘆いて言った。「これは世を救う医者の処方であって、教外別伝(経典の外に別に伝えるもの)の宗旨ではない。」そこで衣を改めて諸方を行脚し、はじめに黄檗に参じ、次に大愚に謁した。その機縁の語句は行録に載せてある。黄檗の印可を受けると、やがて河北の鎮州城の東南の隅に至り、滹沱河(こだが)のほとりに臨む小さな寺の住持となった。臨済という名は、この土地(河の渡しに臨む地)に因んで得たものである。その時、普化が先にそこにいて、狂人を装って人々に紛れ、聖か凡か誰にも測れなかった。師が来ると、普化はすぐに師を補佐した。師の教化がまさに盛んになったとき、普化は全身ごと抜け去った。これは仰山小釈迦(仰山慧寂の異名)の予言に符合するものであった。たまたま戦乱にあい、師はすぐにその寺を捨てて去った。太尉(たいい、軍事の高官)の默君和(ぼくくんわ)が城中の邸宅を寄進して寺とし、やはり臨済の額を掲げて師を迎え住まわせた。後に師は衣を払って南へ行き、河府(かふ)に至った。府主の王常侍が師の礼をもって迎えた。まもなく大名府(今の河北省大名)の興化寺に来て、東堂に住した。師は病もなかったが、ある日にわかに衣を整えて坐り、三聖(さんしょう、弟子の三聖慧然)と問答を終えると、静かに逝った。時に唐の咸通八年(八六七年)丁亥の年、正月十日のことである。門人たちは師の全身を納めて大名府の西北の隅に塔を建てた。勅命により慧照禅師と諡され、塔は澄霊と号された。合掌し頭を垂れて、師の生涯のあらましを記す。鎮州保寿の法を嗣いだ弟子、延沼(えんしょう)が謹んで書く。

解説

臨済録の末尾に置かれた塔記で、弟子の保寿延沼が師の生涯を記したものである。臨済ははじめ戒律と経論を学ぶ講学の僧であったが、「これは世を救う処方にすぎず、教外別伝の旨ではない」と嘆いて禅に転じた。黄檗に参じ、大愚のもとで悟り、鎮州の滹沱河のほとりの小院に住して、臨済の名はその地に由来する。普化の補佐と遷化、戦乱による移住、王常侍の帰依、大名府興化寺での示寂が簡潔に並ぶ。最期は病もなく三聖と問答して坐ったまま逝き、咸通八年、慧照禅師と諡された。学問を極めた人が、学問では届かないものを求めて一から歩き直した生涯である。専門知識の蓄積が深い人ほど、その外に出る勇気が要ることを思わせる。

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