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臨済録 / 示衆

學人便禮拜,此喚作主看主。或有學人披枷帶鎖出善知識前,善知識更與安一重枷鎖,學人歡喜。彼此不辨,呼為客看客。「大德!山僧如是所舉,皆是辨魔揀異,知其邪正。道流!寔情大難,佛法幽玄,解得可可地。山僧竟日與他說破,學者總不在意,千遍萬遍脚底踏過,黑沒焌地,無一箇形段,歷歷孤明。學人信不及,便向名句上生解,年登半百,秖管傍家負死屍行,檐却檐子天下走,索草鞋錢有日在。「大德!山僧說向外無法。學人不會,便即向裏作解,便即倚壁坐,舌拄上齶,湛然不動,取此為是祖門佛法也。大錯,是爾若取不動清淨境為是,爾即認他無明為郎主。古人云:『湛湛黑暗深坑寔可怖畏。』此之是也。爾若認他動者是,一切草木皆解動,應可是道也。所以,動者是風大、不動者是地大,動與不動俱無自性。爾若向動處捉他,他向不動處立;爾若向不動處捉他,他向動處立。譬如潛泉魚鼓波而自躍。大德!動與不動是二種境,還是無依,道人用動、用不動。

新字:学人便礼拝,此喚作主看主。或有学人披枷帯鎖出善知識前,善知識更与安一重枷鎖,学人歓喜。彼此不弁,呼為客看客。「大徳!山僧如是所舉,皆是弁魔揀異,知其邪正。道流!寔情大難,仏法幽玄,解得可可地。山僧竟日与他説破,学者総不在意,千遍万遍脚底踏過,黒没焌地,無一箇形段,歴歴孤明。学人信不及,便向名句上生解,年登半百,秖管傍家負死屍行,檐却檐子天下走,索草鞋銭有日在。「大徳!山僧説向外無法。学人不会,便即向裏作解,便即倚壁坐,舌拄上齶,湛然不動,取此為是祖門仏法也。大錯,是爾若取不動清浄境為是,爾即認他無明為郎主。古人云:『湛湛黒暗深坑寔可怖畏。』此之是也。爾若認他動者是,一切草木皆解動,応可是道也。所以,動者是風大、不動者是地大,動与不動倶無自性。爾若向動処捉他,他向不動処立;爾若向不動処捉他,他向動処立。譬如潜泉魚鼓波而自躍。大徳!動与不動是二種境,還是無依,道人用動、用不動。

書き下し

学人便ち礼拝す。此れを喚んで主、主を看ると作す。或いは学人有り、枷を披り鎖を帯びて善知識の前に出づ。善知識更に与に一重の枷鎖を安ず。学人歓喜す。彼此弁ぜず、呼んで客、客を看ると為す。「大徳、山僧是の如く挙する所は、皆な是れ魔を弁じ異を揀んで、其の邪正を知る。道流、寔情は大いに難し。仏法は幽玄なり、解得すること可可地なり。山僧竟日他の与に説破するも、学者総に意に在らず。千遍万遍脚底に踏過して、黒没焌地、一箇の形段無くして歴歴孤明なり。学人信不及にして、便ち名句上に向かって解を生じ、年半百に登るも、秖管に傍家に死屍を負うて行き、担子を担却して天下に走る。草鞋銭を索めらるる日有らん。「大徳、山僧は外に向かって法無しと説く。学人会せず、便即ち裏に向かって解を作し、便即ち壁に倚って坐し、舌を上齶に拄えて湛然として動ぜず、此れを取って是れ祖門の仏法と為す。大いに錯る。是れ爾若し不動清浄の境を取って是と為さば、爾は即ち他の無明を認めて郎主と為す。古人云く、『湛湛たる黒暗の深坑、寔に怖畏すべし。』此れ之れ是れなり。爾若し他の動く者を認めて是と為さば、一切の草木皆な動くことを解す、応に是れ道なるべし。所以に動く者は是れ風大、動かざる者は是れ地大、動と不動と倶に自性無し。爾若し動処に向かって他を捉うれば、他は不動処に向かって立つ。爾若し不動処に向かって他を捉うれば、他は動処に向かって立つ。譬えば潜泉の魚の波を鼓して自ら躍るが如し。大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。

現代語訳

(前の話の続きである。)修行者はすぐに礼拝する。これを「主が主を見る」と呼ぶ。あるいは、首かせをはめ鎖をつけたまま善知識の前に出る修行者がいる。善知識はさらにもう一重の首かせと鎖をかけてやる。修行者は大喜びする。互いに何も見分けがつかない。これを「客が客を見る」と呼ぶ。「諸君、わたしがこのように取り上げたのは、みな魔を見分け異なるものを選び出して、その正邪を知るためである。修行者たちよ、まことに実のところは大変難しい。仏法は奥深く、分かったといっても、ほどほどにしか分からない。わたしは一日中その人たちのために説き明かしているのに、学ぶ者たちはまるで気にかけない。千回も万回も足の下に踏みつけながら、真っ暗で何の形もなく、それでいてありありと一つ明らかに輝いている(のに気づかない)。修行者は自分を信じきれず、名前や言葉の上に理解をこしらえ、年は五十に届いても、ただよそへ出向いて死体を背負って歩き、天秤棒の荷を担いで天下を走り回る。いつか草鞋代を取り立てられる日が来るぞ。「諸君、わたしは外に法はないと説く。修行者はそれが分からず、今度は内に向かって理解をこしらえ、壁にもたれて坐り、舌を上あごにつけて、静まりかえって動かず、これこそ祖師の門の仏法だと思い込む。大間違いだ。もしお前たちが動かない清らかな境を正しいとするなら、それは無明を主人と思い込んでいるのだ。古人は「静まりかえった真っ暗な深い穴、まことに恐ろしい」と言った。それがこのことだ。もしお前たちが動くものを正しいとするなら、あらゆる草木もみな動くのだから、それが道ということになるだろう。だから、動くものは風大(ふうだい、四大のうち風の要素)であり、動かないものは地大(地の要素)であって、動くものも動かないものも、どちらも自らの本性はない。お前たちが動くところでそれをつかまえようとすれば、それは動かないところに立つ。動かないところでつかまえようとすれば、それは動くところに立つ。たとえば深い泉の魚が波を打って自ら躍り上がるようなものだ。諸君、動くことと動かないことは二種の境である。何にも頼らない道人こそが、動くことを使い、動かないことを使うのだ。

解説

前半は四賓主のうち「主、主を看る」と「客、客を看る」の具体例である。見抜いた修行者が礼拝する主同士の出会いと、枷をはめた修行者にさらに枷を重ね、互いに喜び合う客同士の出会いが対比される。後半では、外に法はないと聞いて今度は内にこもり、壁にもたれて静けさに浸る者を戒める。動かない清浄の境に安住するのは、無明を主人と取り違えることだという。動も不動も境にすぎず、何にも頼らない道人はその両方を使いこなす。外の情報を追い回すのをやめて内省に閉じこもるのも、また別の偏りである。動くべき時に動き、止まるべき時に止まる、その使い手でいることが要なのである。

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