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礼記 / 祭統

鋪筵設同几,為依神也。詔祝於室,而出於祊。此交神明之道也。 君迎牲而不迎尸,別嫌也。尸在廟門外則疑於臣,在廟中則全於君;君在廟門外則疑於君,入廟門則全於臣、全於子。是故,不出者,明君臣之義也。

書き下し

筵(えん)を鋪(し)き同几(どうき)を設くるは、神に依らしめんが為なり。室に詔祝(しょうしゅく)して、祊(ほう)に出づ。此れ神明に交わるの道なり。 君、牲を迎えて尸を迎えざるは、嫌を別つなり。尸、廟門の外に在れば則ち臣に疑われ、廟中に在れば則ち君に全し。君、廟門の外に在れば則ち君に疑われ、廟門に入れば則ち臣に全く、子に全し。是の故に、出でざるは、君臣の義を明らかにするなり。

現代語訳

筵(むしろ)を敷き、夫婦がともに用いる一つの几(ひじかけ)を設けるのは、神霊がそこに依りつくようにするためである。室の中で祝(はふり)が尸に告げ、さらに廟門の傍らの祊(ほう)に出て神を求める。これが神明と交わる道である。 君主が犠牲は出迎えても尸は出迎えないのは、紛らわしさを避けるためである。尸は廟門の外にいれば臣下の身分と見なされかねず、廟の中にいれば君主として完全な尊さをもつ。君主は廟門の外にいれば君主の身分のままと見なされ、廟門に入れば完全に臣下となり、子となる。それゆえ君主が門を出て尸を迎えないのは、君臣の義を明らかにするためである。

解説

十倫のうち、第一の鬼神に事える道と、第二の君臣の義を示す段である。鄭玄は「同几」の同を「詷(ともにする)」の意とし、孔穎達の疏は、生前は夫婦で几を別にしたが、死後は魂気が同じく帰るので一つの几を共にすると敷衍する。祊は廟門の傍らで神を求める索祭の場所とされる。後半は、君がなぜ尸を門外に迎えないかの理屈である。疏によれば尸は本来君の臣下である者が務めるが、廟の中では祖霊の代わりとして君より尊い。門の外に出て迎えれば、尸はまだ臣の身分に見え、君もまだ君の尊さのままとなって、双方の立場が曖昧になる。だから君は門を出ず、廟中で臣として子として尸に向かう。鄭玄は、鬼神の尊さは廟中にあり、人君の尊さは廟門を出て伸びると注す。場によって立場が入れ替わることをはっきりさせる作法であり、社長が地域の祭りでは一人の氏子として振る舞うように、場ごとの役割をわきまえる知恵として読める。

この章句が説くこと

礼記祭統君臣尸鬼神

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