礼記 / 楽記
樂也者,情之不可變者也。禮也者,理之不可易者也。樂統同,禮辨異,禮樂之說,管乎人情矣。 窮本知變,樂之情也;著誠去偽,禮之經也。禮樂偩天地之情,達神明之德,降興上下之神,而凝是精粗之體,領父子君臣之節。
新字:楽也者,情之不可変者也。礼也者,理之不可易者也。楽統同,礼弁異,礼楽之説,管乎人情矣。 窮本知変,楽之情也;著誠去偽,礼之経也。礼楽偩天地之情,達神明之徳,降興上下之神,而凝是精粗之体,領父子君臣之節。
書き下し
楽なる者は、情の変ずべからざる者なり。礼なる者は、理の易(か)うべからざる者なり。楽は同を統べ、礼は異を弁ず。礼楽の説は、人情を管(つつ)む。 本を窮め変を知るは、楽の情なり。誠を著し偽りを去るは、礼の経なり。礼楽は天地の情に偩(よ)り、神明の徳に達し、上下の神を降興し、精粗の体を凝(な)し、父子君臣の節を領(おさ)む。
現代語訳
楽とは、人の情のうちで変えることのできないものである。礼とは、事の道理のうちで改めることのできないものである。楽は人々を同じくまとめ、礼は人々の違いを分ける。礼楽の教えは、人の情をすべて包み込んでいる。 根本を窮めて変化を知ることが、楽の本質である。誠をあらわして偽りを取り去ることが、礼の根本の筋道である。礼楽は天地の情にのっとり、神明の徳にまで通じ、天の神を降し地の神を出現させ、大小さまざまな万物の形を成し遂げ、父子・君臣の節度を治める。
解説
礼楽の本質を、変わらない情と改められない理として定義し直した段である。鄭玄は「理」を事の意、「統同」を和合させること、「弁異」を尊卑を分けることと注し、「管」を包む意に読む。礼楽の教えは人の情を丸ごと包み込むものだというのである。後半の「本を窮め変を知る」と「誠を著し偽りを去る」は、楽と礼それぞれの核心を示す対句で、後の段で鄭玄は、これこそ人君が握るべき礼楽の本だと注している。楽は物事の根にさかのぼり、その移り変わりを知る働き、礼は誠を表に出し偽りを取り除く働きだという。礼を形式主義と見る向きには、礼の根本が誠にあるという定義は意外かもしれない。結びは、鄭玄の読みに従えば、礼楽は天地の情を象り、天神を降し地神を出し、万物の大小を形づくり、父子君臣の節を治めるという意になる。形だけの礼儀や型だけの挨拶が空しいのは、そこに誠がないからである。
この章句が説くこと
礼記楽記誠人情礼楽
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