折たく柴の記 / 『折たく柴の記』天変地妖と綱吉の死去の知らせ
三月の比に至りて、地上白毛を生ずる所ありと聞えしが、いくほどなくして、我が宅地にも此の怪ある事を見たりき。此の餘、天變地妖の事どもやむ時なくして、此の年も暮れしかど、まのあたり見しにもあらぬ事どもは、ここにはしるさず。六月の半に至りて、我が家のほとりの町々を他所に引うつされ、(飯田町也)またおほくの人々の宅地、かしこゝにうつさるべしなど聞ゆ。これは城北に御所を作られしによれりといふ。八月の半には、馬の毛きる事を禁ぜらるゝ由を承りぬ。これより後は、人々の引かせしも乘りしも、皆野にある馬を見るがことくになりぬ。九月の末つがたには、かさねて大錢通用の事仰せ下され、十月に至りて、畜類の事どもあはれむべきよし、三條の制を出さる。かかりしのちは、馬にのるべき程の人々、馬引かせしのみにて乘る事もあらず。又商人どもの、大錢通じ行ふ事を難ずる由聞えて、富めるも貧しきも、老少男女一人ものこらず。大錢用ふべき由の證狀を參らすべきとて、日々の其の催促あるなどいふほどに、年もくれて、明くれば、己丑の正月元日には、去年よりの御不豫の事によりて、儲副拜賀を請はさせ給ひたりき。七日には、身病する事ありしほどに、出仕にも及ばで家にてもりゐしに、十日の晝過ぐる比より、なにとなく人のゆきかふあしのおとのはやきが、心得ぬ事に思ひしに、日暮るゝ程に、大喪の御事つげ來りしこそ、誠に肝つぶるゝ事にてありつれ。
新字:三月の比に至りて、地上白毛を生ずる所ありと聞えしが、いくほどなくして、我が宅地にも此の怪ある事を見たりき。此の余、天変地妖の事どもやむ時なくして、此の年も暮れしかど、まのあたり見しにもあらぬ事どもは、ここにはしるさず。六月の半に至りて、我が家のほとりの町々を他所に引うつされ、(飯田町也)またおほくの人々の宅地、かしこゝにうつさるべしなど聞ゆ。これは城北に御所を作られしによれりといふ。八月の半には、馬の毛きる事を禁ぜらるゝ由を承りぬ。これより後は、人々の引かせしも乗りしも、皆野にある馬を見るがことくになりぬ。九月の末つがたには、かさねて大銭通用の事仰せ下され、十月に至りて、畜類の事どもあはれむべきよし、三条の制を出さる。かかりしのちは、馬にのるべき程の人々、馬引かせしのみにて乗る事もあらず。又商人どもの、大銭通じ行ふ事を難ずる由聞えて、富めるも貧しきも、老少男女一人ものこらず。大銭用ふべき由の証状を参らすべきとて、日々の其の催促あるなどいふほどに、年もくれて、明くれば、己丑の正月元日には、去年よりの御不予の事によりて、儲副拝賀を請はさせ給ひたりき。七日には、身病する事ありしほどに、出仕にも及ばで家にてもりゐしに、十日の昼過ぐる比より、なにとなく人のゆきかふあしのおとのはやきが、心得ぬ事に思ひしに、日暮るゝ程に、大喪の御事つげ来りしこそ、誠に肝つぶるゝ事にてありつれ。
書き下し
三月の比に至りて、地上白毛を生ずる所ありと聞えしが、いくほどなくして、我が宅地にも此の怪ある事を見たりき。此の餘、天變地妖の事どもやむ時なくして、此の年も暮れしかど、まのあたり見しにもあらぬ事どもは、ここにはしるさず。六月の半に至りて、我が家のほとりの町々を他所に引うつされ、(飯田町也)またおほくの人々の宅地、かしこゝにうつさるべしなど聞ゆ。これは城北に御所を作られしによれりといふ。八月の半には、馬の毛きる事を禁ぜらるゝ由を承りぬ。これより後は、人々の引かせしも乘りしも、皆野にある馬を見るがことくになりぬ。九月の末つがたには、かさねて大錢通用の事仰せ下され、十月に至りて、畜類の事どもあはれむべきよし、三條の制を出さる。かかりしのちは、馬にのるべき程の人々、馬引かせしのみにて乘る事もあらず。又商人どもの、大錢通じ行ふ事を難ずる由聞えて、富めるも貧しきも、老少男女一人ものこらず。大錢用ふべき由の證狀を參らすべきとて、日々の其の催促あるなどいふほどに、年もくれて、明くれば、己丑の正月元日には、去年よりの御不豫の事によりて、儲副拜賀を請はさせ給ひたりき。七日には、身病する事ありしほどに、出仕にも及ばで家にてもりゐしに、十日の晝過ぐる比より、なにとなく人のゆきかふあしのおとのはやきが、心得ぬ事に思ひしに、日暮るゝ程に、大喪の御事つげ來りしこそ、誠に肝つぶるゝ事にてありつれ。
現代語訳
三月ごろになって、地上に白い毛を生じる所があると聞こえたが、いくらもたたないうちに、私の宅地にもこの怪異があるのを見た。このほか、天変地妖のことはやむ時がなく、この年も暮れたが、目の当たりに見たのでないことどもは、ここには記さない。六月の半ばになって、私の家のあたりの町々を他所に引き移され、(飯田町である)また多くの人々の宅地も、あちこちに移されるだろうなどと聞こえた。これは城北に御所を作られることによるのだという。八月の半ばには、馬の毛を切ることを禁じられたということを承った。これから後は、人々が引かせるのも乗るのも、みな野にいる馬を見るようになった。九月の末ごろには、重ねて大銭通用のことを仰せ下され、十月になって、畜類のことどもを憐れむべき旨、三か条の制を出された。こうなってからは、馬に乗るはずの身分の人々も、馬を引かせるだけで乗ることもなくなった。また商人どもが、大銭が通用し行われることを非難するとの噂が聞こえて、富める者も貧しい者も、老少男女一人も残らず、大銭を用いるべき旨の証文を差し出すようにと、日々その催促があるなどするうちに、年も暮れて、明けて、己丑(宝永6年)の正月元日には、去年からのご不例(ご病気)のことにより、世子としての拝賀を(控えたい旨)願い出られたのだった。七日には、私は病気をすることがあって、出仕にも及ばず家に籠もっていたが、十日の昼過ぎるころから、何となく人の行き交う足音が速いのを、不審なことに思っていたところ、日が暮れるころに、大喪(綱吉公の死去)の知らせが来たのは、誠に肝がつぶれることであった。
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』藩邸の庭に畳を敷き、将軍のもとへかくて披門より入りて見るに、家々皆たふれかたぶきたれば、出でたちてある人に、路ふさがりてゆくべからず。そてをすぎて、常に參る所に至りたれば、其所もたふれて入るべからず。藤枝またそのほとりに、たゞずみ居りしをともなひて、御納戸の口といふ所より入りたり。こゝかしこの天井落ちかゝりし所をすぎて。我は常に祗候する所に參りしに。今の越前守詮房朝臣の、こなたの方に來るにゆきあひて、御つゝがもあらせ給はぬ事を聞き、かゝる時に候へば、推參し候ふといひすてゝ。常の御座所に參るに、その庇の內に、東の屋のたふれかゝりしあり。近習の人々は、南の庭上にたち居たり。上にはあなたの庭におはしますなりといふ。戸田、小出、井上などのおとなたちも、こゝに入り來る時は、庭上にたちぬれば、五十嵐といひし人に、いひ語らひて、(今の一十郎のわかき時の事なり、御小納戸衆にてありき)御庇に敷かれしたゞみ十帖ばかり、庭上におろして、皆々を其の上に座せしむ。地震ふ事しきりなれば、座せしうしろの池の岸くづれ〳〵て、平かなる池も狹くなれり。かゝりし程に、酒井左衛門尉忠眞仰せをかうふれりとて、入り來りて火を防ぐ。火熾りならむには、御座を移さるべしなど聞ゆるに、御袴ばかりに、御道服めされて、常の御所の南面に出でたゞせ給ひ。某がさぶらふを御覽じて召す。御縁に參りしかば、地震の事つぶさに問はせ給ひて、後に奧に入らせ給ひぬ。夜も明けぬべき比に至りて、おほやけに參り給はむと聞ゆ。某長門守の耳につきて、地震ふ事なほしきりなり。參らせ給はむ事、いかにやといひしに、我もさこそはおもへど、とゞめ申すべき事にあらず、といふほどに、出でたゞせ給ひたり。かくてかの火出でしところにゆきて見るに、たふれし家に壓され死せしものどもを引出したるが、こゝかしこにありし。井泉ことごとく竭きて水なければ、火消すべきやうもあらず。此の時御庭の池水を汲まむといひしを、今の曲淵下野守の此の水用ふべき時ありといひてゆるさゞりし。いかに思ひしにかおぼつかなし。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』元禄地震の夜、湯島から殿のもとへ我はじめ湯島に住みし比、癸未の年十一月廿二日の夜半過ぐるほどに地おびたゞしく震ひ、始めて目さめぬれば、腰の物どもとりて起き出づるに、こゝかしこの戸障子みな倒れぬ。妻子どものふしたる所にゆきて見るに、皆々起き出でたり。屋のうしろのかたは、高き岸の下に近ければ、みな〳〵引ぐして、東の大庭に出づ。地裂くる事もこそあれとて、たふれし戸どもも出しならべて、其の上に居らしめ。やがて新しき衣にあらため、裏うちたる上下の上に道服きて、我は殿に參るなり。召供のもの二三人ばかり來れ、其の餘は家にとゞまれといひてはせ出づ。道にて息きれむ事もあらむと思ひしかば、家は小船の大きなる浪にうごくがごとくなるうちに入りて、藥器たづね出して、かたはらに置きつゝ、衣改め着しほどに、かの藥の事をば、うちわすれて、走せ出でしこそ、恥かしき事に覺ゆれ。かくて走する程に、神田の明神の東門の下に及びし比に、地またおびただしくふるふ。こゝらのあき人の家は、皆々打あけておほくの人の小路にあつまり居りしが、家のうちに燈の見えしかば、火こそ出づべけれ、燈うちけすべきものをと、呼はりてゆく。昌平橋のこなたにて、景衡の(時に朝倉余一といひし。)我がかたに走せ來るにゆきあひて、あとの事よきにはからひ給へと、いひすてゝゆく。橋を渡りて、南にゆきて、西に折れて、また南せむとする所に、馬をたてゝあるものを月の光りにみれば、藤枝若狹守なり。これは地の裂けて、水の湧き出づれば、其深さ廣さのはかりがたさに、かくてありしなるべし。つづけやものどもといひて、一丈餘りになりて流るゝ、水の上をはねこえしに、供なるものども同じくこえぬ。その水こえし時、足をうるほしければ、草履の重くなりてゆきがたかりしかば、あらためはきて、はするほどに、
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折たく柴の記・『折たく柴の記』西城に召され御側衆支配となる廿七日の申時ばかりに、詮房朝臣奉りて、西城へ參るべき由を仰せ下さる。やがて參りしに、仰せをうけて、むかへみちびくべき人々出でてむかへ、參るべきところにみちびく。大門の外に、小人衆をつけおかれて、中口に案内す。かしこには、山本傳阿待ち居て、某參りし由を申しければ、潛邸の侍醫にてありし、山本玄長出でむかへて、斗鷄の間にみちびきぬ。玄長は某が相識なるをしろしめされしゆゑなり。戸田長門守忠利、小出土佐守有雪、井上遠江守正方等の人々出で迎へたり。(此の三人は某等が事を支配すべき由、仰せかうぶれる所なり)かくて、村田等の人々も參りし後に、(此の時芝崎と、服部淸助とは見え來らず、めされずやありけむ、詳なることをならず)詮房朝臣、小出と共に出で來て、仰せを傳へられし。事終りて人々退出す。某はしばしがほど、ここにさぶらふべき由を仰せ下さる。これは支配の人々仰せかうぶりし事、又此の後祗候すべき所等の事を仰せ下されしなり。人々罷り出でしあとにて、小出某が座に居よりてこれより後の御事共は、天下の安危にかゝらせ給ふ所也。我々が事はかねてもしり給ひし事のごとく、もとより不學無術のともがら也、たのむところは、そこのおはしますのみなり。此の事我申す迄もあらねど、心およぶ所なれば、聞え申す也と申さる。これは詮房朝臣御前に參られしあとにて、たゞひとり申されし所也。此の人いくほどもなくて、不幸にしづみて世をさりき。誠に惜むべき事なり。そののち詮房朝臣よりして、此のほどの御事ども、又年明けて講筵開かるべき事など仰せ下され、また今よりして後、參るべきやうなどの事まで仰せ下され、戌の時に至りて罷り出づ。(此の後は中の口より入りて、御臺所を經て、奧に參るべき由なり)廿九日に、元日大城拜賀の事等仰せ下さる。(此の事戸田より申し來れり。其の狀に御本丸寄合衆の次に候べしと云々)
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折たく柴の記・『折たく柴の記』宅地と黄金二百両を賜り新宅へ此の年八月四日、某等が事奉るべき人をあらため命ぜらる。(此の日井上よりの狀に、某并に服部父子、土肥四人の事、若年寄衆の支配たるべき由を仰せ下さると云々)明けの年丁亥五月十九日、宅地并に屋材、家作るべき料として黃金二百兩を下し賜ふ。永井伊賀守尙平、大久保長門守敬重二人、雉子橋の外において、宅地三百五十坪を賜ふ由の仰せを傅へらる。事訖りなば、奥に參るべき由仰せ下されしかば、參りて宅地賜る事を謝し申ししに、潛邸にありし人々の家こぼたれし時に、蜂屋源八郎の家を殘し置かれしは、そこに賜ふべき事を思し召されしが故なり。今彼の家を以て下し賜ふ也。されど其家を賜ふ所の地に引移さむ事、私の力に及ぶまじければ、家引移すべき料の爲、黃金百兩を下し賜ふ由、詮房朝臣して仰せ下され、同月三十日に至りて、家造るべき用度たらずと聞しめし及ばれしによりて、また黃金百兩を下し賜はりたりき。七月廿六日、新宅に移れりと聞し召され、八月朔日に至りて、出仕すべき所の御門の事仰せ下さる。(これ出仕の道の程、遠からむ事をおぼしめされて、紅葉山下、并に裏御門より出入すべき由なり)此の月晦日。大城において散樂あり。これ家千代君御誕生御賀のためなり。若君の御外叔父太田内記と某と二人參るべき由を仰せ蒙る。これよりさき、七月十日の晩誕生の事あり。此の月の事は、永井大久保連署して仰せを傅へらる。又兼ねてより大久保仰せを奉りて、その一族大久保左京して二人を誘引せしむ。これ二人共に是等の事につきては、初參の儀なるが故也。こののちは、毎事につきての廻文に、太田と某と二人を以て充所とせらる。
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折たく柴の記・『折たく柴の記』家宣の世子立てに馳せ参じた一言甲申の年十二月五日に、儲副に立せ給ふと聞きて、馳せ賀し申さむため龍口のほとりに及びし時、程なく西城に入らせ給ふべしとて、道ゆく人をとゞむ。(御歩行の衆なり)某が名を稱して、參るべき事あるがためなりといひしかば、參りたまへとてゆるしぬ。藩邸に至るに、御迎の人々參りつどへり。(美濃守吉保朝臣を始めて、御供に候べき人々參れり)詮房朝臣を尋ねしに、物くひておはすと聞きて、其所に入りて賀し申す。やがてくひはてゝ、坐をたゞれしを引とゞめて、凡天下の御事においては、某此の年頃申しし所なれば、今はた申すに及ばず。只その申しし事どもを、忘れさせ給ふ事なからむには、天下の幸甚にこそ候ふべけれと此の一ことを申すべきために、馳せ參りて候ふ也。此の由を以てもらし申させ給へといひて、たちわかれぬ。後にある人の申しし事をきゝしに、いづれの比なることにかおはしましけむ、詮房朝臣にむかはせ給ひ、我はじめ西城に入らむとせし時に君美が馳せ參りていひし所をば、わすれもやする。我は日としてわするゝ事はなきものをと仰せられしとぞ。我は此の後家にのみこもり居ぬ。廿日ばかりをすぎて、ある人の參りてむかしつかへ參らせし人々、そのほど〳〵につけつゝ、おの〳〵めし出されぬ。我等が事のみ、いまだ仰せ下さるゝ旨のあらざれば、此の事を以て歎き申す人ありと聞ゆ。我も其の由を以て歎き申さむと思へば、しらせ申すなりといふ。かく告げしらせし人は、芝崎十郎右衞門なり。これは村田十郎右衞門の、詮房朝臣の舍弟につきて此の事を申し、またむかし藩邸におはしましし時に、其所より事を執り申されし人々の許にもゆきて、此の事を申す旨ありしと聞えしが故なればなり。年比つかへまゐらせし所の、かくおはしますを見奉る事、これにすぎし身の幸やあるべき。此のほかまた何事をかもとむべき。我また身不肖也といへども、さすがに今は藩邸の舊學也。禮を以て進退せむ事、これみづから重んずるがためにもあらず。いかんぞ人々のごとく、此等の事をもて申す事のあるべきと思ひしかば、御芳志のほど謝するに詞なし。されど某が事においては、存ずる所あれば、それらの事を以て、申す事あるべからずと答へぬ。わづかに一日をへだてゝ、それ月の廿六日の夜、某等が事執り申すべき由を仰せかうぶりし人々ありと告げ來れり。此の事藩邸に申しし時の目付衆、坂部といひし人より告げ來り、其の狀に見えし所、新井勘解由、村田七郎右衞門、芝崎十郎右衞門、吉田藤八郎、服部藤九郎、服部淸助、土肥源四郎、此等七人をば、西丸御側衆支配あるべしといふ。