古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

折たく柴の記 / 『折たく柴の記』神田橋から龍の口、桜門を越えて

神田橋のこなたに至りぬれば、地またおびたゞしく震ふ。おほくの箸を折るごとく、また蚊のあつまり、なくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ聲なるべし。石垣の犬走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ。かくては橋も落ちぬと思ひしに、橋と臺との間、三四尺許くづれしかば、跳りこえて門に入りしに、家々の腰板のはなれて、大路に横たはれるが、長き帛の風に飜りしがごとし。龍の口に至りて遙に望みしに、藩邸に火起れり。その光りの高からぬは、殿屋たふれて火出でしやと覺束なくて、心はさきに走すれど、足はたゞ一所にあるやうに覺ゆ。こゝより四五町がほど、ゆきしと思ふ比に、馬の足音のうしろのかたにするを、かへり見れば、藤枝の馳せ來るなり。我こゝまでは來たれどゆく末の事はかりがたければ、若狹守殿とこそ見まゐらすれ。あの火のありさま、覺束なく侍るものかなといひしかば、されば候ふ。來らせ給へ。馬上に候ふ。御ゆるしかうふらむといひて走せゆく。やがて日比谷の門に至るに、番屋たふれ、壓されて死するものの、くるしげなる聲すなり。かしこに又馬よりおりたちて、居りしものを見るに藤枝なり。これは櫻門の兎の、南北の檐より、地に落ちかさなりて山のごとくになりたれば、こえがたきによれるなり。いざさせ給へといひて伴なひて、その上をこえすぎて、小門を出でて見れば、藩邸の北にある長屋のたふれて、火出でしにて、殿屋には、はるかに隔りたれば、胸ひらけし心地す。藩邸の西の大門ひらけて、遠侍のたふれし見ゆ。藤枝ここより入らむとす。某は常に西の披門より參りぬれば、かしこより入り候はむといひてわかれぬ。

新字:神田橋のこなたに至りぬれば、地またおびたゞしく震ふ。おほくの箸を折るごとく、また蚊のあつまり、なくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ声なるべし。石垣の犬走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ。かくては橋も落ちぬと思ひしに、橋と台との間、三四尺許くづれしかば、跳りこえて門に入りしに、家々の腰板のはなれて、大路に横たはれるが、長き帛の風に翻りしがごとし。竜の口に至りて遥に望みしに、藩邸に火起れり。その光りの高からぬは、殿屋たふれて火出でしやと覚束なくて、心はさきに走すれど、足はたゞ一所にあるやうに覚ゆ。こゝより四五町がほど、ゆきしと思ふ比に、馬の足音のうしろのかたにするを、かへり見れば、藤枝の馳せ来るなり。我こゝまでは来たれどゆく末の事はかりがたければ、若狭守殿とこそ見まゐらすれ。あの火のありさま、覚束なく侍るものかなといひしかば、されば候ふ。来らせ給へ。馬上に候ふ。御ゆるしかうふらむといひて走せゆく。やがて日比谷の門に至るに、番屋たふれ、圧されて死するものの、くるしげなる声すなり。かしこに又馬よりおりたちて、居りしものを見るに藤枝なり。これは桜門の兎の、南北の檐より、地に落ちかさなりて山のごとくになりたれば、こえがたきによれるなり。いざさせ給へといひて伴なひて、その上をこえすぎて、小門を出でて見れば、藩邸の北にある長屋のたふれて、火出でしにて、殿屋には、はるかに隔りたれば、胸ひらけし心地す。藩邸の西の大門ひらけて、遠侍のたふれし見ゆ。藤枝ここより入らむとす。某は常に西の披門より参りぬれば、かしこより入り候はむといひてわかれぬ。

書き下し

神田橋のこなたに至りぬれば、地またおびたゞしく震ふ。おほくの箸を折るごとく、また蚊のあつまり、なくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人のさけぶ聲なるべし。石垣の犬走り土崩れ、塵起りて空を蔽ふ。かくては橋も落ちぬと思ひしに、橋と臺との間、三四尺許くづれしかば、跳りこえて門に入りしに、家々の腰板のはなれて、大路に横たはれるが、長き帛の風に飜りしがごとし。龍の口に至りて遙に望みしに、藩邸に火起れり。その光りの高からぬは、殿屋たふれて火出でしやと覺束なくて、心はさきに走すれど、足はたゞ一所にあるやうに覺ゆ。こゝより四五町がほど、ゆきしと思ふ比に、馬の足音のうしろのかたにするを、かへり見れば、藤枝の馳せ來るなり。我こゝまでは來たれどゆく末の事はかりがたければ、若狹守殿とこそ見まゐらすれ。あの火のありさま、覺束なく侍るものかなといひしかば、されば候ふ。來らせ給へ。馬上に候ふ。御ゆるしかうふらむといひて走せゆく。やがて日比谷の門に至るに、番屋たふれ、壓されて死するものの、くるしげなる聲すなり。かしこに又馬よりおりたちて、居りしものを見るに藤枝なり。これは櫻門の兎の、南北の檐より、地に落ちかさなりて山のごとくになりたれば、こえがたきによれるなり。いざさせ給へといひて伴なひて、その上をこえすぎて、小門を出でて見れば、藩邸の北にある長屋のたふれて、火出でしにて、殿屋には、はるかに隔りたれば、胸ひらけし心地す。藩邸の西の大門ひらけて、遠侍のたふれし見ゆ。藤枝ここより入らむとす。某は常に西の披門より參りぬれば、かしこより入り候はむといひてわかれぬ。

現代語訳

神田橋のこちらに至ったところ、地がまたひどく震う。多くの箸を折るような、また蚊が集まって鳴くような音が聞こえるのは、家々が倒れて人が叫ぶ声なのだろう。石垣の犬走りの土が崩れ、塵が起こって空を覆った。これでは橋も落ちるだろうと思ったが、橋と台との間が三、四尺ほど崩れていたので、跳び越えて門に入ると、家々の腰板がはなれて大路に横たわっているのが、長い絹が風に翻るようであった。龍の口に至って遠くを望むと、藩邸に火が起こっている。その光が高くないのは、殿舎が倒れて火が出たのかと心もとなく、心は先に走るが、足はただ一所にあるように思われる。ここから四、五町ほど行ったと思うころに、馬の足音が後ろの方でするのを、振り返って見ると、藤枝が駆けて来るのである。私はここまでは来たが、行く末のことは計りがたいので、若狭守殿とお見受けしました。あの火の様子は、心もとのうございますねと言ったところ、そうでございます。いらっしゃい。馬上におります。お許しをこうむりたいと言って走って行く。やがて日比谷の門に至ると、番屋が倒れ、押されて死ぬ者の、苦しげな声がする。そこでまた馬から降り立って、居る者を見ると藤枝である。これは、桜門の上の部分が南北の軒から地に落ち重なって山のようになっているので、越えがたいためである。さあいらっしゃいと言って連れ立って、その上を越え過ぎ、小門を出て見ると、藩邸の北にある長屋が倒れて火が出たのであって、殿舎からははるかに隔たっているので、胸が開けた心地がした。藩邸の西の大門が開いて、遠侍が倒れたのが見える。藤枝はここから入ろうとする。私はいつも西の披門から参るので、そこから入りましょうと言って別れた。

解説

余震が続く中、白石は神田橋を越え、龍の口から藩邸の火を遠望します。道中で行き会った藤枝若狭守と声を掛け合いながら進みました。倒れた番屋の下から苦しむ声が聞こえ、崩れた桜門を乗り越えるなど、行く手は険しいものでした。心は先に走るのに足は進まないという描写に、焦りがよく表れています。火が出たのは殿舎ではなく北の長屋と分かって胸が開けた、と素直に書いています。独りで動かず、仲間と連れ立ち状況を見極めて進む姿は、危機のときの協力の大切さを伝えています。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る

この章句が説くこと

神田橋竜の口藤枝若狭守桜門藩邸の火日比谷の門

関連する章句

本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円本を見る