折たく柴の記 / 『折たく柴の記』上総の高瀧で出会った吉兵衛の子孫
我戸部の家に來りつかへしのちに、此の事人々に語りし事ありしが、後に上總國にゆきて、沙汰すべき事ありて、誰かれともなひし人ありて、高瀧といふ所に至りて、そこの名主の家にとゞまる事ありしに、夜に入りて士民等が多く來りあつまりし中に、長き圍爐裏に火たきし所のあなたに、ある男の年の比六十に近きが、我と眼を見合せて面をふせしあり。その眼ざしよのつねならず見えしかば、我もそのかたを見やりしに、かれ又我と見合せて面をふせし事二度三度に及びて、心得ぬ事に思ひしかば、座をたちて、かれがかたはらにゐよりて、いかなるものぞととひしに、初は面をふせて此の所の者に候ふ、とばかりいびしが、後にさのみはいかでつゝみまゐらすべき。我こそむかししろしめされし、高瀧何某がなれるはてにて候へといふ。我も驚きおもひて、いかにして、こゝには來りとゞまり給ひしととふほどに、むかし鎌倉公方の代に、上總國の御家人高瀧と聞えしものゝ末葉にて、安房の里見が、此の國を併せ領せし時に至りて、高瀧左京進といひしが孫なりしが、里見が家ほろびし後に、宍粟の領主の家に來れる也。彼の事ありし後に、累代の先祖のしりし所なれば、忍び來りしを、所のものども、むかしを慕ひ、あはれがりてやしなひ置きしに、新井といふ人の、こゝに來り給ふと聞きて、もしも見參せし人にやおはするなど、おもひて、出で來りけるを、あやしめられまゐらせて、よしなき事ども申し出づるにつけて、恥かしくこそ侍れといふ。ともなひし人々の、かのものをばしり給ひにけるやと問ひしほどに、播磨國にて、七日がうちに、三たびまで人きりて、札たてしと申し、高瀧にてさぶらふぞやと、いひしかばみな〳〵驚きあひたり。すべて人の浮き沈みある事は、はかりがたき事なりと仰せられき。
新字:我戸部の家に来りつかへしのちに、此の事人々に語りし事ありしが、後に上総国にゆきて、沙汰すべき事ありて、誰かれともなひし人ありて、高滝といふ所に至りて、そこの名主の家にとゞまる事ありしに、夜に入りて士民等が多く来りあつまりし中に、長き囲炉裏に火たきし所のあなたに、ある男の年の比六十に近きが、我と眼を見合せて面をふせしあり。その眼ざしよのつねならず見えしかば、我もそのかたを見やりしに、かれ又我と見合せて面をふせし事二度三度に及びて、心得ぬ事に思ひしかば、座をたちて、かれがかたはらにゐよりて、いかなるものぞととひしに、初は面をふせて此の所の者に候ふ、とばかりいびしが、後にさのみはいかでつゝみまゐらすべき。我こそむかししろしめされし、高滝何某がなれるはてにて候へといふ。我も驚きおもひて、いかにして、こゝには来りとゞまり給ひしととふほどに、むかし鎌倉公方の代に、上総国の御家人高滝と聞えしものゝ末葉にて、安房の里見が、此の国を併せ領せし時に至りて、高滝左京進といひしが孫なりしが、里見が家ほろびし後に、宍粟の領主の家に来れる也。彼の事ありし後に、累代の先祖のしりし所なれば、忍び来りしを、所のものども、むかしを慕ひ、あはれがりてやしなひ置きしに、新井といふ人の、こゝに来り給ふと聞きて、もしも見参せし人にやおはするなど、おもひて、出で来りけるを、あやしめられまゐらせて、よしなき事ども申し出づるにつけて、恥かしくこそ侍れといふ。ともなひし人々の、かのものをばしり給ひにけるやと問ひしほどに、播磨国にて、七日がうちに、三たびまで人きりて、札たてしと申し、高滝にてさぶらふぞやと、いひしかばみな〳〵驚きあひたり。すべて人の浮き沈みある事は、はかりがたき事なりと仰せられき。
書き下し
我戸部の家に來りつかへしのちに、此の事人々に語りし事ありしが、後に上總國にゆきて、沙汰すべき事ありて、誰かれともなひし人ありて、高瀧といふ所に至りて、そこの名主の家にとゞまる事ありしに、夜に入りて士民等が多く來りあつまりし中に、長き圍爐裏に火たきし所のあなたに、ある男の年の比六十に近きが、我と眼を見合せて面をふせしあり。その眼ざしよのつねならず見えしかば、我もそのかたを見やりしに、かれ又我と見合せて面をふせし事二度三度に及びて、心得ぬ事に思ひしかば、座をたちて、かれがかたはらにゐよりて、いかなるものぞととひしに、初は面をふせて此の所の者に候ふ、とばかりいびしが、後にさのみはいかでつゝみまゐらすべき。我こそむかししろしめされし、高瀧何某がなれるはてにて候へといふ。我も驚きおもひて、いかにして、こゝには來りとゞまり給ひしととふほどに、むかし鎌倉公方の代に、上總國の御家人高瀧と聞えしものゝ末葉にて、安房の里見が、此の國を併せ領せし時に至りて、高瀧左京進といひしが孫なりしが、里見が家ほろびし後に、宍粟の領主の家に來れる也。彼の事ありし後に、累代の先祖のしりし所なれば、忍び來りしを、所のものども、むかしを慕ひ、あはれがりてやしなひ置きしに、新井といふ人の、こゝに來り給ふと聞きて、もしも見參せし人にやおはするなど、おもひて、出で來りけるを、あやしめられまゐらせて、よしなき事ども申し出づるにつけて、恥かしくこそ侍れといふ。ともなひし人々の、かのものをばしり給ひにけるやと問ひしほどに、播磨國にて、七日がうちに、三たびまで人きりて、札たてしと申し、高瀧にてさぶらふぞやと、いひしかばみな〳〵驚きあひたり。すべて人の浮き沈みある事は、はかりがたき事なりと仰せられき。
現代語訳
私が戸部の家に来て仕えた後に、このことを人々に語ったことがあったが、後に上総国に行って、取り調べるべきことがあり、誰彼と同行した人があって、高瀧という所に至り、そこの名主の家に泊まったところ、夜に入って土地の武士や民が多く来て集まった中に、長い囲炉裏に火をたいた所の向こうに、ある男で年のころ六十に近い者が、私と目を見合わせて顔を伏せた。その眼差しが並々でなく見えたので、私もそちらを見やったところ、その者がまた私と見合わせて顔を伏せることが二度三度に及び、腑に落ちないことと思ったので、座を立って、その者のそばに寄り座り、どのような者かと問うたところ、初めは顔を伏せて「この土地の者でございます」とだけ言っていたが、後にはそれほどに隠してばかりもいられないと、「私こそ、昔ご存じでいらした、高瀧何某のなれの果てでございます」と言う。私も驚いて、どのようにしてここには来てとどまっておられるのかと問うたところ、「昔鎌倉公方の時代に、上総国の御家人で高瀧と聞こえた者の末裔で、安房の里見がこの国を併せ領した時に至って、高瀧左京進といった者の孫であったが、里見の家が滅びた後に、宍粟の領主の家に来たのである。あの事があった後に、累代の先祖が知っていた土地なので、忍んで来たところ、土地の者たちが昔を慕い、あわれんで養っておいてくれたが、新井という人がここに来られると聞いて、もしかして面会したことのある人ではなかろうかなどと思い、出てきたところを、怪しまれ申して、つまらないことを申し出ることになり、恥ずかしゅうございます」と言う。同行した人々が、あの者のことをご存じだったのかと問うたので、播磨国で、七日のうちに三度まで人を斬って札を立てたという、その高瀧でございますよ、と言ったところ、皆が驚き合った。総じて人の浮き沈みがあることは、はかりがたいことであると仰せになった。
解説

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