折たく柴の記 / 『折たく柴の記』加藤家の宝刀と鉢を斬った刀の真相
戸部の家に、加藤といひし人あり。我がはたちばかりの時、六十にはあまりもやせむと見えし人なり。その祖父は、安房の里見の侍大將にて、上總國佐貫といふ所の城を守りしといふ。(加藤伊賀守といひしといふ。名はきかざりき)それが家に、蛇太刀、猿引といふ、二つの寶刀あり。蛇太刀をば、我も見たりき。細き身の、三尺ばかりありしなりけり。猿引といふも、猿引の持ちし刀を、こひ受けしといふなり。われ見ざりしといふ。加藤が十六の時に、みづからその若黨の侍をきりし事あり。鱠をきりてありしをきりしに、靑磁の鉢をかけて、筋かひにきりわりしといふ事を、皆人語りたりき。我が父の致仕し給ひしのちに、その刀の事、いひ出したりしに、こゝにありあふ人もなければいふなり。すべて、人のいふ事、あながちにうくべきにもあらず。その鉢をかけてきりしは、汝がをさなき時あたへたりし刀たるなり。その時に、加藤が居たりし長屋は、我が住所の隣にてありしに、加藤は二階の上にありて、主從いひあらそふ聲の高くて、けしからぬ事と思ひしに、加藤、その階子をはしり下る音の聞えしかば、すは事出來ぬと思ひて、刀を取りてはせゆきしに、加藤すでに一刀きりしに、ほそうでにできれずやありけむ。彼の從者庖丁を取りてたちむかはむとせしところを、我が刀をぬきながらきりたりしに、其の肩さきより筋かひに、前にありし鉢をかけてきりはなしぬ。やがてとゞめをさし給へといひて、我が刀の血おし拭ひ、鞘にさして、はせ歸りしあとに、人々も來り集りしが、つひにかの猿引の刀の名譽ともなりしなり。我が刀のもとは、上野國の人にて、後藤といひしもの刀なり。其の兄にてありしものゝ、此の刀をもて、はらひぎりにしたるに、敵のかうべを橫さまより二つになしける。そのかうべの骨を、をさなき時にもてあそびものにせしと、彼の後藤がいひしをきゝて請ひ求むる事年經しのちに、我に得させしところなり。あひかまへて、身をはなさで取傳へよと仰せられき。その刀は、すなはち細太刀にかざりし、獅子といふもの是なり。また國淸が造りし、きりはの腰刀は甲斐の武田の家にて、岡部丹波守と聞えし人の孫にてありし人の物也(岡部求馬といひし其の嫡流の子孫は奥の相馬の家にあり)その人は、戸部の父にておはしまし忠直の從弟にて、越前國におはせしを、望み申して御家人ともなさばやとて、をさなき時によびむかへられしに、程なく忠直うせ給ひしかば、つひに戸部の家にて終られたりき。
新字:戸部の家に、加藤といひし人あり。我がはたちばかりの時、六十にはあまりもやせむと見えし人なり。その祖父は、安房の里見の侍大将にて、上総国佐貫といふ所の城を守りしといふ。(加藤伊賀守といひしといふ。名はきかざりき)それが家に、蛇太刀、猿引といふ、二つの宝刀あり。蛇太刀をば、我も見たりき。細き身の、三尺ばかりありしなりけり。猿引といふも、猿引の持ちし刀を、こひ受けしといふなり。われ見ざりしといふ。加藤が十六の時に、みづからその若党の侍をきりし事あり。鱠をきりてありしをきりしに、青磁の鉢をかけて、筋かひにきりわりしといふ事を、皆人語りたりき。我が父の致仕し給ひしのちに、その刀の事、いひ出したりしに、こゝにありあふ人もなければいふなり。すべて、人のいふ事、あながちにうくべきにもあらず。その鉢をかけてきりしは、汝がをさなき時あたへたりし刀たるなり。その時に、加藤が居たりし長屋は、我が住所の隣にてありしに、加藤は二階の上にありて、主従いひあらそふ声の高くて、けしからぬ事と思ひしに、加藤、その階子をはしり下る音の聞えしかば、すは事出来ぬと思ひて、刀を取りてはせゆきしに、加藤すでに一刀きりしに、ほそうでにできれずやありけむ。彼の従者庖丁を取りてたちむかはむとせしところを、我が刀をぬきながらきりたりしに、其の肩さきより筋かひに、前にありし鉢をかけてきりはなしぬ。やがてとゞめをさし給へといひて、我が刀の血おし拭ひ、鞘にさして、はせ帰りしあとに、人々も来り集りしが、つひにかの猿引の刀の名誉ともなりしなり。我が刀のもとは、上野国の人にて、後藤といひしもの刀なり。其の兄にてありしものゝ、此の刀をもて、はらひぎりにしたるに、敵のかうべを横さまより二つになしける。そのかうべの骨を、をさなき時にもてあそびものにせしと、彼の後藤がいひしをきゝて請ひ求むる事年経しのちに、我に得させしところなり。あひかまへて、身をはなさで取伝へよと仰せられき。その刀は、すなはち細太刀にかざりし、獅子といふもの是なり。また国清が造りし、きりはの腰刀は甲斐の武田の家にて、岡部丹波守と聞えし人の孫にてありし人の物也(岡部求馬といひし其の嫡流の子孫は奥の相馬の家にあり)その人は、戸部の父にておはしまし忠直の従弟にて、越前国におはせしを、望み申して御家人ともなさばやとて、をさなき時によびむかへられしに、程なく忠直うせ給ひしかば、つひに戸部の家にて終られたりき。
書き下し
戸部の家に、加藤といひし人あり。我がはたちばかりの時、六十にはあまりもやせむと見えし人なり。その祖父は、安房の里見の侍大將にて、上總國佐貫といふ所の城を守りしといふ。(加藤伊賀守といひしといふ。名はきかざりき)それが家に、蛇太刀、猿引といふ、二つの寶刀あり。蛇太刀をば、我も見たりき。細き身の、三尺ばかりありしなりけり。猿引といふも、猿引の持ちし刀を、こひ受けしといふなり。われ見ざりしといふ。加藤が十六の時に、みづからその若黨の侍をきりし事あり。鱠をきりてありしをきりしに、靑磁の鉢をかけて、筋かひにきりわりしといふ事を、皆人語りたりき。我が父の致仕し給ひしのちに、その刀の事、いひ出したりしに、こゝにありあふ人もなければいふなり。すべて、人のいふ事、あながちにうくべきにもあらず。その鉢をかけてきりしは、汝がをさなき時あたへたりし刀たるなり。その時に、加藤が居たりし長屋は、我が住所の隣にてありしに、加藤は二階の上にありて、主從いひあらそふ聲の高くて、けしからぬ事と思ひしに、加藤、その階子をはしり下る音の聞えしかば、すは事出來ぬと思ひて、刀を取りてはせゆきしに、加藤すでに一刀きりしに、ほそうでにできれずやありけむ。彼の從者庖丁を取りてたちむかはむとせしところを、我が刀をぬきながらきりたりしに、其の肩さきより筋かひに、前にありし鉢をかけてきりはなしぬ。やがてとゞめをさし給へといひて、我が刀の血おし拭ひ、鞘にさして、はせ歸りしあとに、人々も來り集りしが、つひにかの猿引の刀の名譽ともなりしなり。我が刀のもとは、上野國の人にて、後藤といひしもの刀なり。其の兄にてありしものゝ、此の刀をもて、はらひぎりにしたるに、敵のかうべを橫さまより二つになしける。そのかうべの骨を、をさなき時にもてあそびものにせしと、彼の後藤がいひしをきゝて請ひ求むる事年經しのちに、我に得させしところなり。あひかまへて、身をはなさで取傳へよと仰せられき。その刀は、すなはち細太刀にかざりし、獅子といふもの是なり。また國淸が造りし、きりはの腰刀は甲斐の武田の家にて、岡部丹波守と聞えし人の孫にてありし人の物也(岡部求馬といひし其の嫡流の子孫は奥の相馬の家にあり)その人は、戸部の父にておはしまし忠直の從弟にて、越前國におはせしを、望み申して御家人ともなさばやとて、をさなき時によびむかへられしに、程なく忠直うせ給ひしかば、つひに戸部の家にて終られたりき。
現代語訳
戸部の家に、加藤という人がいた。私が二十歳ばかりのとき、六十歳を超えているのではないかと見える人であった。その祖父は、安房の里見氏の侍大将で、上総国佐貫という所の城を守ったという。(加藤伊賀守といったという。名は聞かなかった)その家に、蛇太刀、猿引という二つの宝刀があった。蛇太刀は、私も見たことがある。細身で、三尺ばかりの長さであった。猿引というのも、猿引(猿回し)が持っていた刀を請い受けたものだという。私は見ていない。加藤が十六歳のとき、自分の若党の侍を斬ったことがあった。鱠を切っていたところを斬り、青磁の鉢をかけて斜めに斬り割ったということを、皆が語っていた。私の父が致仕なさったのちに、その刀のことを言い出したが、ここに居合わせる人もいないので言うのである。総じて、人の言うことは、むやみに受け入れるべきではない。その鉢をかけて斬ったのは、おまえが幼いときに与えた刀なのである。そのとき、加藤が住んでいた長屋は私の住まいの隣であったが、加藤は二階の上にいて、主従が言い争う声が高く、けしからぬことと思っていたところ、加藤がその階段を走り下りる音が聞こえたので、さては事が起こったと思い、刀を取って走って行った。加藤はすでに一刀斬っていたが、細腕で斬り切れなかったのであろうか、その従者は包丁を取って立ち向かおうとした。そこを、私が刀を抜くやいなや斬ったところ、その肩先から斜めに、前にあった鉢をかけて斬り放した。すぐに「とどめをお刺しください」と言ったので、私は刀の血を拭い、鞘に納めて走って帰った。その後に人々も来て集まったが、結局これがあの猿引の刀の名誉となったのである。私の刀はもとは、上野国の人で後藤といった者の刀である。その兄であった者が、この刀で払い斬りにしたところ、敵の首を横ざまから二つにした。その首の骨を、幼いときに玩具にしていたと、その後藤が言うのを聞いて、長年かけて譲ってほしいと願い、ついに私に得させてくれたものである。「よく心がけて、身から離さずに代々伝えよ」と仰せになった。その刀は、すなわち細太刀に飾っていた、獅子というものがこれである。また、国清が造った切刃の腰刀は、甲斐の武田家で岡部丹波守と聞こえた人の孫であった人の物である。(岡部求馬といった、その嫡流の子孫は、奥州の相馬家にいる)その人は、戸部の父君であられた忠直の従弟で、越前国におられたが、望み申して御家人にもしようと、幼いときに呼び寄せられた。ほどなく忠直が亡くなられたので、結局戸部の家で生涯を終えられた。
解説

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