翁問答 / 下卷之末
此無礙淸淨位無心無念の本佛は、不思議の體にして、毫髮の按排をいれざる處なれども、儒敎には此無礙淸淨の位の上に不思議神通の力をもて、神理靈氣不二の二、不一の一を明辨して一段向上精一の神化あり、此神化の後を聖人と名く、至妙天眞艮背敵應の位なり、此神化の結胎純熟半なるを亞聖の大賢と名く中行位なり、中行は無欲無爲自然の眞心無礙淸淨の位の上にて、至妙天眞艮背敵應の聖胎をむすぶによつて、その議論行迹聖人にたがはず、これを大一天眞の神道と名く、許由、巢父、曾哲、莊子、釋迦、達磨などは、無欲無爲自然の眞心をあきらかにして、無礙淸淨の位に至てこれを至極の中道山頂なりと定、至妙天眞艮背敵應の聖胎をむすばざるによつて、その無欲無爲淸淨自然の心なるによつて、惡といふべきにもあらず、天眞にもあらず、無欲の妄行といふものなり、聖人これを狂者と名けたまふ、
新字:此無礙清浄位無心無念の本仏は、不思議の体にして、毫髪の按排をいれざる処なれども、儒教には此無礙清浄の位の上に不思議神通の力をもて、神理霊気不二の二、不一の一を明弁して一段向上精一の神化あり、此神化の後を聖人と名く、至妙天真艮背敵応の位なり、此神化の結胎純熟半なるを亜聖の大賢と名く中行位なり、中行は無欲無為自然の真心無礙清浄の位の上にて、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすぶによつて、その議論行迹聖人にたがはず、これを大一天真の神道と名く、許由、巣父、曽哲、荘子、釈迦、達磨などは、無欲無為自然の真心をあきらかにして、無礙清浄の位に至てこれを至極の中道山頂なりと定、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすばざるによつて、その無欲無為清浄自然の心なるによつて、悪といふべきにもあらず、天真にもあらず、無欲の妄行といふものなり、聖人これを狂者と名けたまふ、
書き下し
此無礙清浄位無心無念の本仏は、不思議の体にして、毫髪の按排をいれざる処なれども、儒教には此無礙清浄の位の上に不思議神通の力をもて、神理霊気不二の二、不一の一を明弁して一段向上精一の神化あり、此神化の後を聖人と名く、至妙天真艮背敵応の位なり、此神化の結胎純熟半なるを亜聖の大賢と名く中行位なり、中行は無欲無為自然の真心無礙清浄の位の上にて、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすぶによつて、その議論行迹聖人にたがはず、これを大一天真の神道と名く、許由、巣父、曽哲、荘子、釈迦、達磨などは、無欲無為自然の真心をあきらかにして、無礙清浄の位に至てこれを至極の中道山頂なりと定、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすばざるによつて、その無欲無為清浄自然の心なるによつて、悪といふべきにもあらず、天真にもあらず、無欲の妄行といふものなり、聖人これを狂者と名けたまふ、
現代語訳
この無礙清浄位、無心無念の本仏は、不思議の体であって、髪の毛ほどの作為も入れないところであるが、儒教ではこの無礙清浄の位の上に、不思議神通の力によって、神理と霊気の「不二の二、不一の一」を明らかにわきまえて、一段向上した精一の神化がある。この神化の後を聖人と名づけ、至妙天真・艮背敵応の位である。この神化の結胎・純熟が半ばであるのを亜聖の大賢と名づけ、中行の位である。中行は無欲無為自然の真心、無礙清浄の位の上で、至妙天真・艮背敵応の聖胎を結ぶので、その議論や行いは聖人に違わない。これを大一天真の神道と名づける。許由・巣父・曾晳・荘子・釈迦・達磨などは、無欲無為自然の真心を明らかにして無礙清浄の位に至り、これを至極の中道の山頂と定め、至妙天真・艮背敵応の聖胎を結ばないので、その心は無欲無為清浄自然であるから悪というべきでもなく、天真でもなく、無欲の妄行というものである。聖人はこれを狂者と名づけられた。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』下卷之末体充曰、狂者と申はいかやうなる人にて候や。師の曰、狂者は道体の広大高明なる所をば悟といへども、未だ精微中庸の密に悟入せざるによりて、見性成道の心術粗糲迂濶にして、修行異相に逸狂なるものなり、大唐にては許由、巣父、牧皮、曽哲子、桑戸、荘子、天竺にては釈迦、達磨など勝れたる狂者なり、人の生付しなかはるによりて、道学して見性成道する位に上中下の三段あり、中行は聖人の下亜聖の大賢なり、これは三段のうちにて第一段上の位なり、狂者は中行の下第二段中の位なり、第三段下の位は狷者也学問しても此三段の位にいたらざるは俗学といふものなり、よくよく体認すべし。
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『翁問答』下卷之末狂の字に眼をつけて観察すれば、無欲の妄行の義いはずして分明なり、つらつら体察するに、仏者は元気の霊覚を悟りて至極と思、元神の霊覚をさとらず、唯無欲無為自然を心法として、元気の霊覚に任ずる故に、其心粗濶にしてその行跡狂妄なり、儒者は理を窮め性を尽し、命に至を心法とすれば、無欲清浄無為自然無礙のことは云におよばず、専元神の霊覚に率ふ故に、其心精妙にしてその行跡中正なり、儒者道を悟れば則ち其の心愈細かく、禅家道を悟れば則ち其の心愈粗しと、楽軒の発明めされたるもこの意なり、
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『翁問答』下卷之末夫人間は迷悟の二に極まれり、迷ときは凡夫なり悟ときは聖賢君子仏菩薩なり、その迷と悟は一心にあり人欲ふかく無明の雲あつく、心月のひかりかすかにして、やみの夜のごとくなるを迷の心といふなり、学問修行の功つもりて人欲きよくつきて、無明の雲はれ心月の霊光あきらかにてらすを悟の心と云、此悟の心を仏経に無心、無本仏、妙覚仏、化身仏などゝ名く、また無礙清浄位と云、前かどに論ずる高明広大の道体をさとる狂者の心の位これなり、かくの如く悟たる心の無欲無為自然の霊覚を真心と定真性と定霊性と定、仏心と定、仏性と定、これ即ち釈尊、達磨の心法の端的なり、三大乗の観念千七百則の公案、皆この端的に約れり、
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『翁問答』下卷之末かくある故に本心の眼あきらかなる哲人は所によりて品かはる迹をすてて、何国もかはらず同一体なる心をもて評判するなり、惣じて聖人も賢人も狂者も狷者も一心にこの見性成道なれば、その心をよく観察してその位を定なり、荘子と釈迦達磨とことば作法はちがひたれ共、その心の見性成道はおなじ位なるによつて、狂者と云仏と云名はちがひぬれども、見性成道の心はひとつなり、天竺にて仏如来とあがめ貴ぶ人の心の位は大唐にて狂者となづくる中行より下の人の心の位なり、難波のあしは伊勢のはまをぎといへる諺の意なりと得心有べし。
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『翁問答』下卷之末その上すゝむる所の善真実無妄の至善にあらず、三才一貫中庸精微の至道にそむきて、人極のさまたげとなること多し、聖人中庸の法さへ迹になづみぬれば、人極のさはりとなるものなれば、まして狂者偏僻の法を迹ばかりを専らと取おこなふによつて、元来釈迦達磨の心根は勧善懲悪のためなるべけれども、末流には善をやぶり、悪をすゝめ、人の心を、迷はしめること、淫声美色のごとし、これみな末代その流をくむ比丘のあやまりと云ながら、本来狂者の所見純熟せざるによつて、その教法粗糲迂濶なる故なり、釈迦も達磨もすぐれたる狂者なれば、聖人にあひめされたらば必ず中庸精微の密に悟入して、中行の位に至めさるべし、たとひ中行にいたりめされずとも、許由曽哲などの如くにありて、かく世をまどはす教の法をば立めさるまじ、聖人出世ましまさぬ戎国に生出て、その法のひろまりたること幸に似たる不幸なり。
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『翁問答』下卷之末体充曰、左様に候はゞ、中行にいたらざるうちは、儒門の学者も仏家の学者もおなじ事にて候や。師の曰、その心の位意馬の奔走は、初学の間はおなじけれ共、その修行の道は真妄各別なり、たとへば山に登るが如し、儒門の学者の力行する道は、峯までよく通じぬる定たる道をのぼるが如し、平常不易の道なる故に是を天真と云なり、仏家の学者の修行する道は、山八分にきれとありて、峯頭まで通ぜざるすじの登る可き道なき所を、木かやをわけて登るが如し、嶮岨にして道なく人間のとをらざる所なる故にこれを妄行と云なり、初学の間心の位のちがはざるは、山をのぼる道のほど同じければ、その高下のろくなる如し、しかれ共あし下の道、真にしてのぼりやすきと、妄にしてのぼりがたきとは各別なり、よくよく体認あるべし。
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