翁問答 / 下卷之末
狂の字に眼をつけて觀察すれば、無欲の妄行の義いはずして分明なり、つらつら體察するに、佛者は元氣の靈覺を悟りて至極と思、元神の靈覺をさとらず、唯無欲無爲自然を心法として、元氣の靈覺に任ずる故に、其心粗濶にしてその行跡狂妄なり、儒者は理を窮め性を盡し、命に至を心法とすれば、無欲淸淨無爲自然無礙のことは云におよばず、專元神の靈覺に率ふ故に、其心精妙にしてその行跡中正なり、儒者悟道則其心愈細、禪家悟道則其心愈粗と、樂軒の發明めされたるもこの意なり、
新字:狂の字に眼をつけて観察すれば、無欲の妄行の義いはずして分明なり、つらつら体察するに、仏者は元気の霊覚を悟りて至極と思、元神の霊覚をさとらず、唯無欲無為自然を心法として、元気の霊覚に任ずる故に、其心粗濶にしてその行跡狂妄なり、儒者は理を窮め性を尽し、命に至を心法とすれば、無欲清浄無為自然無礙のことは云におよばず、専元神の霊覚に率ふ故に、其心精妙にしてその行跡中正なり、儒者悟道則其心愈細、禅家悟道則其心愈粗と、楽軒の発明めされたるもこの意なり、
書き下し
狂の字に眼をつけて観察すれば、無欲の妄行の義いはずして分明なり、つらつら体察するに、仏者は元気の霊覚を悟りて至極と思、元神の霊覚をさとらず、唯無欲無為自然を心法として、元気の霊覚に任ずる故に、其心粗濶にしてその行跡狂妄なり、儒者は理を窮め性を尽し、命に至を心法とすれば、無欲清浄無為自然無礙のことは云におよばず、専元神の霊覚に率ふ故に、其心精妙にしてその行跡中正なり、儒者道を悟れば則ち其の心愈細かく、禅家道を悟れば則ち其の心愈粗しと、楽軒の発明めされたるもこの意なり、
現代語訳
狂の字に目をつけて観察すれば、無欲の妄行という意味は言わずとも明らかである。よくよく考えてみると、仏者は元気の霊覚を悟って至極と思い、元神の霊覚を悟らず、ただ無欲無為自然を心法として元気の霊覚に任せるので、その心は粗くおおまかで、その行いは狂って妄りである。儒者は理を窮め性を尽くし命に至ることを心法とするので、無欲清浄・無為自然・無礙であることは言うまでもなく、もっぱら元神の霊覚に従うので、その心は精妙で、その行いは中正である。「儒者は道を悟ればその心いよいよ細やかに、禅家は道を悟ればその心いよいよ粗くなる」と楽軒が明らかにされたのもこの意である。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』下卷之末此無礙清浄位無心無念の本仏は、不思議の体にして、毫髪の按排をいれざる処なれども、儒教には此無礙清浄の位の上に不思議神通の力をもて、神理霊気不二の二、不一の一を明弁して一段向上精一の神化あり、此神化の後を聖人と名く、至妙天真艮背敵応の位なり、此神化の結胎純熟半なるを亜聖の大賢と名く中行位なり、中行は無欲無為自然の真心無礙清浄の位の上にて、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすぶによつて、その議論行迹聖人にたがはず、これを大一天真の神道と名く、許由、巣父、曽哲、荘子、釈迦、達磨などは、無欲無為自然の真心をあきらかにして、無礙清浄の位に至てこれを至極の中道山頂なりと定、至妙天真艮背敵応の聖胎をむすばざるによつて、その無欲無為清浄自然の心なるによつて、悪といふべきにもあらず、天真にもあらず、無欲の妄行といふものなり、聖人これを狂者と名けたまふ、
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『翁問答』下卷之末夫人間は迷悟の二に極まれり、迷ときは凡夫なり悟ときは聖賢君子仏菩薩なり、その迷と悟は一心にあり人欲ふかく無明の雲あつく、心月のひかりかすかにして、やみの夜のごとくなるを迷の心といふなり、学問修行の功つもりて人欲きよくつきて、無明の雲はれ心月の霊光あきらかにてらすを悟の心と云、此悟の心を仏経に無心、無本仏、妙覚仏、化身仏などゝ名く、また無礙清浄位と云、前かどに論ずる高明広大の道体をさとる狂者の心の位これなり、かくの如く悟たる心の無欲無為自然の霊覚を真心と定真性と定霊性と定、仏心と定、仏性と定、これ即ち釈尊、達磨の心法の端的なり、三大乗の観念千七百則の公案、皆この端的に約れり、
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『翁問答』下卷之末体充曰、元神元気通一不二の端的にて候はゞ、狂者もすでに無礙清浄の位に至たる心なれば元神の端的をもさとりめさるべき事と存候いかゞ。師の曰、聖人は生知安行天と同体なる故に、自づから元神元気一貫の妙用活溌々地なり、大賢より下の人は、学問修行をもて悟をひらくものなれば、その見性成道の段々階級のごとく次第あるによつて、中行の悟ところをば、狂者はいまださとり得ず、狂者のさとる所をば狷者はいまだ悟得ざるとなり、たとへば山へ登るが如し、ふもとより峯頭まで皆山の一体なれ共、其巓へのぼり得ざれば、峯頭の草木を明細に見分ことあたはず、その如く元神元気皆おなじく一心なれども、兼山の頂上に止得せざれば、元神の霊覚をさとり得ことあたはず候。
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『翁問答』下卷之末体充曰、狂者と申はいかやうなる人にて候や。師の曰、狂者は道体の広大高明なる所をば悟といへども、未だ精微中庸の密に悟入せざるによりて、見性成道の心術粗糲迂濶にして、修行異相に逸狂なるものなり、大唐にては許由、巣父、牧皮、曽哲子、桑戸、荘子、天竺にては釈迦、達磨など勝れたる狂者なり、人の生付しなかはるによりて、道学して見性成道する位に上中下の三段あり、中行は聖人の下亜聖の大賢なり、これは三段のうちにて第一段上の位なり、狂者は中行の下第二段中の位なり、第三段下の位は狷者也学問しても此三段の位にいたらざるは俗学といふものなり、よくよく体認すべし。
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『翁問答』下卷之末かくある故に本心の眼あきらかなる哲人は所によりて品かはる迹をすてて、何国もかはらず同一体なる心をもて評判するなり、惣じて聖人も賢人も狂者も狷者も一心にこの見性成道なれば、その心をよく観察してその位を定なり、荘子と釈迦達磨とことば作法はちがひたれ共、その心の見性成道はおなじ位なるによつて、狂者と云仏と云名はちがひぬれども、見性成道の心はひとつなり、天竺にて仏如来とあがめ貴ぶ人の心の位は大唐にて狂者となづくる中行より下の人の心の位なり、難波のあしは伊勢のはまをぎといへる諺の意なりと得心有べし。
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『翁問答』下卷之末体充曰、見性成道の心の位を観察すること中々凡夫のおよびがたき所なり、いか様なる学問にてわきまへ知べく候や。師の曰、目にて物を見るに、高ところより見下すことは見易して分明なりひきゝ所より上を見あぐることは見えかたくして分明ならざるものなり心にて心を観察するもかくの如し、聖賢の心より狂者、狷者、凡夫の心を見たまふは、日月の万物をてらしたまふ如くなり、狂者、狷者、凡夫の心にて聖賢の心をうたがひ見るは、谷にとぼせるたいまつにて峯を見るに異ならず、しかる故に真儒の心学の外の学問にては、中々弁へ知ことなるべからず、唯真儒の心学をよく切磋琢磨して、大覚明悟の位に至りぬれば、荘子、釈迦、達磨などの心を観察すること、白昼に黒白を分つ如くなるべし、荘仏の学問をきはめたる分にては、聖賢の心を弁へしること、富士のふもとよりその嶺を仰見るが如くなり、
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