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翁問答 / 下卷之末

師の曰、それはかたいぢにひがみたる沙門、佛學ばかりを究めて、井のうちの蛙大海をしらずといへる諺のごとく、佛道より上なる道なしと自滿十分なるによつて、儒者の佛法を斥るをいかりて、我慢の邪心甚しけれ共、道理のさたにて云かつべき覺悟なきによつてつくり事をして釋迦におふせて、儒者の斥るをふせくものなり、釋尊はすぐれたる狂者なれば、加樣にきたなびれて爭ひそねむ心は中々あるまじきに、淺ましきつくり事をして、釋尊を傷ること誠に釋尊の罪人なるべし、さてそのつくり言のすじなき子細は、人間の生出こと父母のわざの如くなれども、父母のわざになることにあらず、大虛皇上帝の命をうけて天神地祇の化育したまふところなりしかるに此神理をわきまへずして、釋尊の佛力をもて佛弟子を大唐へ遣し孔子と化身させめされたるなどいへるは、片腹いたきつくり言なるべし、

新字:師の曰、それはかたいぢにひがみたる沙門、仏学ばかりを究めて、井のうちの蛙大海をしらずといへる諺のごとく、仏道より上なる道なしと自満十分なるによつて、儒者の仏法を斥るをいかりて、我慢の邪心甚しけれ共、道理のさたにて云かつべき覚悟なきによつてつくり事をして釈迦におふせて、儒者の斥るをふせくものなり、釈尊はすぐれたる狂者なれば、加様にきたなびれて争ひそねむ心は中々あるまじきに、浅ましきつくり事をして、釈尊を傷ること誠に釈尊の罪人なるべし、さてそのつくり言のすじなき子細は、人間の生出こと父母のわざの如くなれども、父母のわざになることにあらず、大虚皇上帝の命をうけて天神地祇の化育したまふところなりしかるに此神理をわきまへずして、釈尊の仏力をもて仏弟子を大唐へ遣し孔子と化身させめされたるなどいへるは、片腹いたきつくり言なるべし、

書き下し

師の曰、それはかたいぢにひがみたる沙門、仏学ばかりを究めて、井のうちの蛙大海をしらずといへる諺のごとく、仏道より上なる道なしと自満十分なるによつて、儒者の仏法を斥るをいかりて、我慢の邪心甚しけれ共、道理のさたにて云かつべき覚悟なきによつてつくり事をして釈迦におふせて、儒者の斥るをふせくものなり、釈尊はすぐれたる狂者なれば、加様にきたなびれて争ひそねむ心は中々あるまじきに、浅ましきつくり事をして、釈尊を傷ること誠に釈尊の罪人なるべし、さてそのつくり言のすじなき子細は、人間の生出こと父母のわざの如くなれども、父母のわざになることにあらず、大虚皇上帝の命をうけて天神地祇の化育したまふところなりしかるに此神理をわきまへずして、釈尊の仏力をもて仏弟子を大唐へ遣し孔子と化身させめされたるなどいへるは、片腹いたきつくり言なるべし、

現代語訳

師は言った。それは片意地にひがんだ沙門が、仏学ばかりを究めて、「井の中の蛙大海を知らず」という諺のように、仏道より上の道はないと自慢しきっているために、儒者が仏法を退けるのに怒り、我慢の邪心ははなはだしいのに、道理の議論で言い勝つ覚悟がないので、作り事をして釈迦に負わせ、儒者の排斥を防ごうとしたものである。釈尊はすぐれた狂者であるから、このように見苦しく争い妬む心はまずあるはずがないのに、浅ましい作り事をして釈尊を傷つけるのは、まことに釈尊の罪人というべきである。さてその作り話の筋の通らないわけは、人間が生まれ出るのは父母のわざのように見えても、父母のわざでなるのではなく、太虚皇上帝の命を受けて天神地祇が化育なさるところだからである。この神理をわきまえずに、釈尊の仏力で仏弟子を中国へ遣わし孔子に化身させなさったなどというのは、片腹痛い作り言である。

解説

藤樹はこの説を、仏道を至上とする一部の僧が論争に勝てないために作った話と断じる。注目すべきは、作り話がかえって釈尊その人を傷つけると述べている点である。藤樹は釈尊を狂者として敬っており、批判の矛先は後の僧の我慢の心に向いている。反論の根拠は、人の誕生は父母のわざに見えて実は太虚皇上帝の命と天神地祇の化育によるという、藤樹独自の天の思想である。創業者や師を持ち上げるための作り話が、かえって本人の名を汚すことはよくある。敬う相手ほど、事実に即して語る節度が要る。

この章句が説くこと

我慢狂者仏教作り話太虚皇上帝天神地祇

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