無門関 / 第五則 香嚴上樹
【無門曰】縱有懸河之辨。總用不著。說得一大藏教。亦用不著。若向者裏對得著。活卻從前死路頭。死卻從前活路頭。其或未然。直待當來。問彌勒。【頌曰】香嚴真杜撰 惡毒無盡限 啞卻衲僧口 通身迸鬼眼
新字:【無門曰】縦有懸河之弁。総用不著。説得一大蔵教。亦用不著。若向者裏対得著。活却従前死路頭。死却従前活路頭。其或未然。直待当来。問弥勒。【頌曰】香厳真杜撰 悪毒無尽限 唖却衲僧口 通身迸鬼眼
書き下し
無門曰く、縦い懸河の弁有るも、総に用い著かず。一大蔵教を説き得るも、亦た用い著かず。若し者裏に向かって対し得著せば、従前の死路頭を活却し、従前の活路頭を死却せん。其れ或いは未だ然らずんば、直に当来を待って弥勒に問え。頌に曰く、香厳は真に杜撰、悪毒尽限無し。衲僧の口を啞却して、通身に鬼眼を迸らしむ。
現代語訳
無門は言う。たとえ滝のように流れる弁舌があっても、まったく役に立たない。一切経をすべて説くことができても、やはり役に立たない。もしここでぴたりと答えることができれば、これまで死んでいた道を生かし、これまで生きていた道を殺すことになる。もしまだそうでないなら、未来の世まで待って弥勒菩薩に訊くがよい。頌に言う。香厳(唐の禅僧、香厳智閑)は本当にでたらめな男で、その毒は限りない。修行僧の口を封じて口がきけないようにし、全身から鬼の眼をむき出させる。
解説
木の枝を口にくわえてぶら下がる人に、下から「祖師西来の意」を問う。答えなければ背き、答えれば落ちて死ぬ。香厳智閑のこの問いへの評唱である。香厳は博学で知られたが、師の潙山に一言も返せず、書物を焼いて墓守になり、竹に石が当たる音で悟った人である。だから無門は、雄弁も一切経の知識も役に立たないと言う。答えられないなら弥勒が来る五十六億年後まで待て、という突き放しも痛烈だ。頌では香厳を「杜撰」「悪毒」とののしるが、禅ではこれが最大級の賛辞になる。仕事でも、知識や話術がいっさい通用しない場面が来る。そのとき身を捨てて一言を発するか、黙って背を向けるか。進むも退くも損をする状況での決断を、この則は問う。
関連する章句
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『無門関』第五則 香嚴上樹香嚴和尚云く、「人の樹に上るが如し。口に樹枝を啣(くわ)へ、手は枝を攀(よ)ぢず、腳は樹を踏まず。樹下に人有りて、西來意を問ふ。對へざれば即ち他の所問に違(たが)ひ、若し對ふれば又た身を喪ひ命を失ふ。正に恁麼(いんも)の時、作麼生(そもさん)か對へん」。
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『驢鞍橋』卷下一日示して曰く、中古の教の位にては、何としても有相執者の念離れかたかるへし。直に生死を離る機を移さず、只道理を以て自由に成る様に計り教へ来れり。香厳和尚の人の樹に上るが如んば、口に樹枝を含み、手に枝を攀ちず、足樹を蹈まず、樹下に人有て西来意を問はんに、答へずんば他の所問に背く、対へば又喪身失命せん。作麼生か対へんと接し給ふ抔も、强き教に非す、是は喪身失命を恐れしむる道理也。我云はば、直に千尺樹上より撲落して、自由に死し得る底有りや有りやと責むべき也。又虎頭上座が某甲未た樹に上らずと云ふたも、好き働きなれども、我ならば、爰も某喪身失命を去けすと道ふべしと也
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『無門関』第三十六則 路逢達道無門曰く、若し者裏に向かって対得して親切ならば、妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らずんば、也(ま)た須らく一切処に眼を著くべし。頌に曰く、路に達道の人に逢はば、語黙を将って対せず。腮(あぎと)を攔(さえぎ)って劈面(へきめん)に拳す。直下に会せば便ち会せよ。
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『無門関』第一則 趙州狗子無門曰く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且く道え、如何なるか是れ祖師の関。只だ者の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛廝い結んで、同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将て、通身に箇の疑団を起こして、箇の無字に参ぜよ。昼夜に提撕して、虚無の会を作すこと莫かれ、有無の会を作すこと莫かれ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久久に純熟すれば、自然に内外打成一片ならん。啞子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。且く作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして、箇の無字を挙せよ。若し間断せずんば、好し、法燭の一点すれば便ち著くに似ん。頌に曰く、狗子仏性、全提正令。纔かに有無に渉れば、喪身失命せん。
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『無門関』禪箴規に循(したが)ひ矩を守るは、縄無くして自ら縛す。縦横無礙なるは、外道魔軍。心を存して澄寂なるは、黙照の邪禅恣(ほしいまま)なり。瓷意(じい)縁を忘るるは、深坑に堕落す。惺惺(せいせい)として昧(くら)からざるは、鎖を帯び枷を担ふ。善を思ひ悪を思ふは、地獄天堂。仏見法見は、二つの銕囲山(てっちせん)。念起こらば即ち覚するは、精魂を弄する漢。兀然(ごつねん)として定を習ふは、鬼家の活計。進めば則ち理に迷ひ、退けば則ち宗に乖(そむ)く。進まず退かざるは、気有る死人。且く道へ、如何が履践せん。努力して今生須らく了却すべし、永劫に余殃を受けしむること莫れ。
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『無門関』自序仏語は心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且く作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁に従って得る者は始終成壊すと。恁麼の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡を剜るに似たり。何ぞ況んや言句に滞り、解会を覓むるをや。棒を掉って月を打ち、靴を隔てて痒きを爬く、甚の交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。衲子の請益に因って、遂に古人の公案を将て、門を敲く瓦子と作し、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録し、覚えず集を成す。初めより前後を以て叙列せず、共に四十八則と成し、通じて無門関と曰う。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みず単刀直入せん、八臂の那吒も他を攔えて住めず。縦使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得ん。設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼を貶き得来たれば、早已に蹉過せん。頌に曰く、大道無門、千差路有り。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。
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