夢中問答集 / 『夢中問答集』教えの大小権実の差別
問敎門に大小權實の差別ありと申すはいかなる義ぞや。 答眞實の法理には大小權實の差別なし、しかれども學者の智慧に淺深あるが故に所解の法門にも亦差別あり。法華經に云く、如來の說法は一相一味なれども衆生の性欲ことなるによりて解する所の法門各差別せり。たとへば天より一雨をくだす時諸の草木その根莖枝葉の大小に隨つて潤をうくること差別あるがごとし云云。
新字:問教門に大小権実の差別ありと申すはいかなる義ぞや。 答真実の法理には大小権実の差別なし、しかれども学者の智慧に浅深あるが故に所解の法門にも亦差別あり。法華経に云く、如来の説法は一相一味なれども衆生の性欲ことなるによりて解する所の法門各差別せり。たとへば天より一雨をくだす時諸の草木その根茎枝葉の大小に随つて潤をうくること差別あるがごとし云云。
書き下し
問敎門に大小權實の差別ありと申すはいかなる義ぞや。 答眞實の法理には大小權實の差別なし、しかれども學者の智慧に淺深あるが故に所解の法門にも亦差別あり。法華經に云く、如來の說法は一相一味なれども衆生の性欲ことなるによりて解する所の法門各差別せり。たとへば天より一雨をくだす時諸の草木その根莖枝葉の大小に隨つて潤をうくること差別あるがごとし云云。
現代語訳
問:教門に大乗・小乗・権教・実教の違いがあると言うのは、どういうことか。 答:真実の法の理には大小権実の違いはない。しかし学人の智慧に浅い深いがあるので、理解する法門にも違いがある。『法華経』に「如来の説法は一つの相、一つの味であるが、衆生の性質や欲がそれぞれ違うため、理解する法門にそれぞれ違いがある。たとえば天から一つの雨を降らせるとき、あらゆる草木が、その根・茎・枝・葉の大小に応じて潤いを受けることに違いがあるようなものである」とある。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』機根の違いと五性の差別問法理に差別のあることは、機根の同じからざる故なり、機根の同じからざるとは何の故ぞや。 答一眞法界の中には人もなく法もなし、迷情に約してしばらく人法をわかてり、衆生の根性種々なりといへ共、總てこれをいはゞ五類あり。一つには聲聞性、二つには緣覺性、三つには菩薩性、四つには不定性、五つには闡提性なり。聲聞緣覺の二乘は所學の法門ことなりといへども、たゞ自ら出離する道を求めて他を益する心なし、この故に同じく小乘心となづく衆生を利益せんために大乘の道を求むるをば菩薩と號す、有る時は小乘心を發し、有る時は大乘心を發して根性さだめなきは不定性なり、一切の佛法をすべて信ぜざるをば闡提性となづく、平等一性の中に一念の無明起る故にかりに五性の差別を成せり、各の根性のかはれる處を論せば實に同じといふべからず、この故に五性各別の法門あり。圓覺經に云く、一切衆生貪欲を本とするによりて、無明を發揮して五性の差別を顯出せり。又云く、圓覺の自性は五性にあらず、五性に隨つて差別の相を現ず、實相の中には菩薩及び諸の衆生なし、何を以ての故に菩薩衆生は皆な是れ幻化のごとしと云云。像法決疑經に云く、如來は有にあらず無にあらず出にあらず沒にあらず色にあらず非色にあらず、初成道より涅槃に至るまで其の中間において。一句の法をも說くことなし。しかるを愚人は如來出世して法を說きて人を度すと思へり。如來の境界は不可思議なり、識を以てもしるべからず、智を以てもしるべからずと云云。又云く、衆生の身相は幻化の如く鏡像の如く水月の如し、衆生の心相も不可思議也、來に非ず去に非ず有に非ず無に非ず內に非ず外に非ず。しかれ共衆生迷倒してふかく我見に著する故に妄に輪廻を受たりと云云。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、いまだかつて一字をも談せずと云云。華嚴經に云く、眞淨界の中には佛もなく衆生もなしと云云。釋論に云く。不二摩訶衍は機根をはなれ敎說をはなれたりと云云。摩訶衍とは大乘の梵語なり、大小權實いまだわかれざる處を不二摩訶衍と名けたり、かやうの聖敎をば信ぜず、方便の門に心をつけて敎に大小權實を論じ機に上中下根をわかつ故に、或は高慢の心を起して魔道に入り、或は退屈の思を生じて迷衢にかへるこれを智人といふべしや。
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夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。
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夢中問答集・『夢中問答集』如来の説法も小玉をよぶ問如來一代の說法の時も、かやうの手段をほどこし給ふことありや。 答禪門の眼にて見る時は一代の所說も、皆是れ小玉をよぶ手段なり、有る時は諸法無常と說き、有る時は諸法常住と談ず、或は諸法皆是虛妄と明かし、或は諸法實相と演ぶ、或は一切の文字は佛法にあらずとしめし、或は言說皆是れ法身なりと言へり、かやうの種々の法門は、皆是れ小玉をよびて有る時は障子をあけよといひ、有る時はたてよといへるがごとし。如來の本意はかやうの言句の上にあるにあらず、しかるを佛意をしらざる人其の言句の義理をとりて我が妄情にかなへる言を信じて佛の本意なりと思へり、小玉をよぶ言について障子をたてよといふこそ、此の女人の本意よあけよといふこそ本意よと、論せんがごとし。或は云く、如來は法に定相なきことを悟り給へる故に、一定の所說なし有る時は無相と說き給ふことは、實際の理地に一塵も立せざる謂れなり、有る時は諸相歷然たりと說き給ふことは、隨緣の事門に十界の依正ある事を示し給ふ故なり云云。かやうに心をやる人は、佛の一法門を信じて偏執に墮ちたる人よりも勝れたりといへども、是も亦佛の本意を知らざる人なり、小玉をよぶ處について推量をめぐらして、障子をたてよといふは風をおそるゝ故なり、あけよといふは氣のこもりたるを散ぜんためなり。是故に定說なし一槪を信ずべからずといはんがごとしかやうに料簡するも女人の本意をばしらぬ故なり、起世經に云く火神の水に入る時は水も火となり、水神の火に入る時は火も水となると云云。法門も又かくのごとし禪の眼にて見れば敎法も亦禪の宗旨なり、敎の眼にて見れば禪の宗旨も、又敎法とことならず、敎禪の差別のみにあらず佛法世法の差別も、又かくのごとし。佛法の慧解ひらけぬれば、世間の相も皆佛法なり世間の情を出脫せぬ時は甚深の妙理と心得たるも皆是れ世法なり。
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夢中問答集・『夢中問答集』邪正を見分けるには問眞實に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道來りて種々の法門を說く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の學者いかにしてか、其の邪正を辨すべきや。 答末代は邪說さかりにして、正法を亂る事多し、世間の相撲、競馬、圍碁、雙六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の輕重ごときは、其の理非まことに決斷しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、佛法にはかねてより定め置きたる勝負の體もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの證文は、佛祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、證據とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て證明とす、それも緣者の證人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、餘宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、餘人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも觸れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる處に、自ら決斷することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ敎外別傳の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく敎外の題目を信ずる人は、眞實の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として餘の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、餘の法門は皆眞實にあらずと執せば是れ邪說なり、法花經に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に隨つて種々に說法すと云云。しるべし如來種々の法門は衆生迷倒の性欲に隨つてかりに說かれたる事なり。若し直に衆生と佛といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を勞せんや、古人の云く、佛一切の法を說くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』如幻の観は大乗の入口問大乘經の中に多くは、如夢如幻の法門を說けり。禪師の語の中にも亦此の法門あり。しかれは大乘の行人は、如幻の觀をなすを本とすべしや。 答諸法は夢幻の如しといへる法門、其語は同じけれ共、諸宗に談ずる其の旨趣各ことなりしかりといへ共、其の大概はこれかはらず、世人の諺に世の中は夢幻のごとしなんど申すは、無常の謂れなり。大乘に夢幻のたとへを取るはしからず。夢の中にみゆるところの種々の物像、すべて實體なし。實體なしといへども、諸の形相宛然たり。幻術師の巾をわがねて、或は人の形となし。或は馬の形となせども、實には人馬の相にあらず。幻のごとしといへるは是れなり。天竺に此の術をなす者多し。この故に譬とせり。かやうの謂れを以て萬法の實體なくして、しかも諸相歷然たるに譬へたり。水中の月鏡中の像なんどいへる譬も又此の意なり。又敎の中に不思議幻なんと談する法門あり。 緣生如幻の義にはことなり。佛法修行の人やゝもすれば外道二乘の見解に墮つ。外道の見は多しといへども、斷常の二見を本とす。斷とは無なり。常とは有なり。是れに四句あり。色心の諸法において或は一向に有なりと計するは常見なり。或は一向に無なりと計するは斷見なり。或は有なる方もあり。無なる方もありと計するは亦有亦無の見なり。或は一向に有にもあらず。無にもあらずと計するをば非有非無の見と名く。今時大乘修行の人語には、談ずる法門は大乘に似たれども、其の所見をさくる時は、外道の四句の見を出さる人あり。佛の說法も四句をいでずといへども、眞實の佛智の四句の内にあるにはあらず。有の見を破せんためには諸法の空無なる事を說き、無の見をやぶらんためには諸法の常住なるよしを演給へり。佛意をしらざる人は、方便をとめて眞實と思へり。二乘の見とは聲聞緣覺其の所學の法門は、すこしきことなりといへども、身心を滅盡して無爲涅槃に歸して、三界の輪廻をまぬがるべしと思へり。はなはだ大乘の法理にそむけり。若し人如幻の法門を解了しぬれば、自然に外道二乘の見には墮せず。然らば卽ち如幻の法門を解了する人は、諸法有なりといへ共、其の所見實有にあらず。諸法は空なりと說けども其の智慧實空に墮せず。故に中道實相の眞理を證得するに便りあり。是を以て如幻の法門をば大乘の初門となづけたり。是れを眞實究竟の法門とするにはあらず。しかれども、凡夫外道の實有實空の見をやぶり、二乘沈空の解をなさしめざらんために、敎の中にかりに如幻の觀をすゝめたり。大日經の住心品にも緣生の諸法はみな如法なる理をのみ明せり。圓覺楞嚴の中には如幻の智をも遠離すべしと說かれたり。然れ共三種の觀行を明す時、三摩波提といへるは是れ如幻の觀なり。是れ卽ちしばらく幻智を起して幻妄を消して、本分清淨の寶殿にのぼらしめん爲なり。かやの方便をば敎門にうつる故に、禪宗の學者は如幻の觀をも用ふべからず。禪門の宗師の夢幻の法門を說くことは、此の理を心において觀念せよとにはあらず。佛法世法皆夢幻のごとしとしりなば、一切放下して直に本分に向はん事をすゝむるなり。三祖大師の云く、夢幻空花豈把捉することを勞せんや得失是非一時に放却せよと云云。
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夢中問答集・『夢中問答集』医者と病にたとえる教禅問敎禪の法門をあしく心得て、偏執に墮たる人をは、まことにきらふべし。若しよく敎の法門を解して、敎網にかゝはらず、禪の宗旨を解して、禪病にしづまざる人をばきらふべからず。しかるを敎禪の法門ともに眞實の處にあらずといはゞ、本分に到れる人は愚人と同じかるべしや。 答本分の處には智者の相もなく、愚人の相もなし。かゝるを妄りに智者愚人の相を見る、これをぐにんとなづく。然らば卽ち智者愚人の相を見ざるを眞實の智者とは申すなり。世間の愚人にかはりて才智辨說のあるを智者といふ事は世俗の論なり。是故に本分の大智を得たる人は、我は智者なりと慢心を起さずしかる故は本分に契當しぬれば、智愚の相を見ざればなり。我は智者とは思へ共智者なるよしをせざるにはあらず。若し人四大調和にして、身心輕安なる時は醫書の祕決も用なし。良藥靈方もいらず。しかれ共其四大不調なるによりて、四百四病忽ちに起る時は、醫術治方まことに大切なり。諸の醫師これを見て病に應じて藥を與ふ。病相一種にあらざれば治方も亦萬差なり。治方萬差なれども、其の意趣をたゞせば、偏に是れ病者の苦痛をやめていまだやまひもなかりし時の安穩の處へ到らしめんためなり。病者の彼の醫師にあふて治方を求むるも亦我が病の苦痛をやめんためなり。醫書の才學をならはんとにはあらず。醫師の治術によりて病苦若しやみぬれば、これを無病安穩の人となづく。病苦のやむことは治方の力なり。身心安穩なることはいまだやまざりし時の本分の處に到れるなり。醫師の始めてあたへたるにはあらず。醫書の才學をきはめ、治方の妙術をあきらめたるを安穩の所にいたれる人と申すならんや。佛法も亦かくのごとし。人々本分の所には迷悟凡聖の病相なし。敎禪對治の法門誰がためにか用ふべきや。然れども無明の病相忽ちに發つて種々顚倒の苦痛あり。佛これを憐れみて大醫王として、種々の性欲に隨つて種々の法門を說き給へり。法門は種々の差別ありといへども、其の旨趣をきはむれば、偏にたゞ衆生の迷悟凡聖を分別する病苦をやめて、本分安穩の所にいたらしめんためなり。種々の對治の法門を衆生にをしへんためにはあらず。若し人無明妄想の病除こほりぬれば、生死去來の輪廻をみず。凡聖迷悟差別なし。是れ卽ち無爲大解脫の人なり。これを大悟の人となづく。敎門の諸宗をきはめつくし、禪家の五派を明め得たるを大悟と申すにはあらず。しかるを末代の學者の中に敎の法門を習學し、禪の法門を領解して佛法の本意かくのごとしと思へる人あり。藥かへりて病となるといへるは此の謂れなり。是を以て、古人これを敎病禪病と名づけたり。