名将言行録 / 『名将言行録』眞田幸昌 大将としての最期の作法
○幸昌旣に城中に入り、秀頼に從て蘆田曲輪の櫓に籠れり。偖父のことを尋ねけるに、討死せしと言ふことを聞てより、物も言はず母の形身に賜はりたる水晶の珠數を首に掛けて、秀頼の自害を待居しかば、速見時之、幸昌に向て曰く、組討の武勇逞き振舞して、痛手を負はれしと聞ゆ、如何なりやと尋ね、偖和平にて傾て秀頼公も城を出させ給ふべし、去らば貴殿をも眞田河内守信吉の方へ、人を副て送るべしと言へども、些とも動ぜず、寄手櫓を取卷きし時、時之戸口に立出で、幸昌が有り樣を語り、武勇の血脈恐敷ものなりと言ひしとぞ。 ○幸昌、自害の時側より佩楯を取られよと言ければ、幸昌大將たる者の切腹には、佩楯は取らざるものなり、我も若年ながら左衞門佐が嫡子、一方の大將分なり、佩楯は脱べからずと言て、着ながら切腹せり。聞く人感ぜぬはなかりけり。
新字:○幸昌既に城中に入り、秀頼に従て蘆田曲輪の櫓に籠れり。偖父のことを尋ねけるに、討死せしと言ふことを聞てより、物も言はず母の形身に賜はりたる水晶の珠数を首に掛けて、秀頼の自害を待居しかば、速見時之、幸昌に向て曰く、組討の武勇逞き振舞して、痛手を負はれしと聞ゆ、如何なりやと尋ね、偖和平にて傾て秀頼公も城を出させ給ふべし、去らば貴殿をも真田河内守信吉の方へ、人を副て送るべしと言へども、些とも動ぜず、寄手櫓を取巻きし時、時之戸口に立出で、幸昌が有り様を語り、武勇の血脈恐敷ものなりと言ひしとぞ。 ○幸昌、自害の時側より佩楯を取られよと言ければ、幸昌大将たる者の切腹には、佩楯は取らざるものなり、我も若年ながら左衛門佐が嫡子、一方の大将分なり、佩楯は脱べからずと言て、着ながら切腹せり。聞く人感ぜぬはなかりけり。
書き下し
○幸昌旣に城中に入り、秀頼に從て蘆田曲輪の櫓に籠れり。偖父のことを尋ねけるに、討死せしと言ふことを聞てより、物も言はず母の形身に賜はりたる水晶の珠數を首に掛けて、秀頼の自害を待居しかば、速見時之、幸昌に向て曰く、組討の武勇逞き振舞して、痛手を負はれしと聞ゆ、如何なりやと尋ね、偖和平にて傾て秀頼公も城を出させ給ふべし、去らば貴殿をも眞田河内守信吉の方へ、人を副て送るべしと言へども、些とも動ぜず、寄手櫓を取卷きし時、時之戸口に立出で、幸昌が有り樣を語り、武勇の血脈恐敷ものなりと言ひしとぞ。 ○幸昌、自害の時側より佩楯を取られよと言ければ、幸昌大將たる者の切腹には、佩楯は取らざるものなり、我も若年ながら左衞門佐が嫡子、一方の大將分なり、佩楯は脱べからずと言て、着ながら切腹せり。聞く人感ぜぬはなかりけり。
現代語訳
幸昌はすでに城中に入り、秀頼に従って蘆田曲輪の櫓にこもりました。さて父のことを尋ねたところ、討ち死にしたということを聞いてから、物も言わず、母の形見に賜った水晶の数珠を首に掛けて、秀頼の自害を待っていたので、速見時之が幸昌に向かって、組み討ちの武勇のすぐれた振る舞いで、痛手を負われたと聞こえます、どうですかと尋ね、さて和平で傾いて秀頼公も城を出られるでしょう、そうなれば貴殿をも真田河内守信吉の方へ、人を添えて送りましょうと言ったけれども、少しも動じませんでした。寄せ手が櫓を取り巻いた時、時之は戸口に立ち出て、幸昌のありさまを語り、武勇の血筋とは恐ろしいものだと言ったということです。 ○幸昌が自害の時、そばから佩楯を取りなさいと言ったので、幸昌は、大将たる者の切腹には、佩楯は取らないものである。私も若年ながら左衛門佐の嫡子、一方の大将分である。佩楯は脱いではならない、と言って、着たまま切腹しました。聞く人は感心しない者はありませんでした。
解説

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